2014年 12月8日
二〇一四年 十二月八日
午後二時の駅は、相変わらずごちゃごちゃとしていた。広告と、いろんな人達の話し声が混ざって、一周回って静かな気がするくらいだ。
一年も前の話なのに、通い慣れた道を歩くときは、勝手に足が動く。
十五分ほどの道のりを行くなかで、ちらほらと変化している部分を見つけた。開発中の街はすぐに道や店が変わるから、時間の経過をまざまざと見せつけられる。
整備されたオフィスビルの群れを抜けていくと坂が見えてきた。夏はここを上がっていくのに苦労した。マフラーを巻き直して、黙々と歩いて行く。
校門をくぐって一息つく。早く着いてしまったので、校内の中央広場にあるベンチに座って待つことにした。日曜日だからか、退屈を持て余している生徒の姿すらない。
講義堂から伸びている階段に、見覚えのある姿を発見した。キャップを目深にかぶった青年が駆け降りてくる。
立ち上がって、手を振る。彼はわたしの前で足を止め、つばを上げた。
「髪型変えた?」と大げさに首をひねると、
「変えてねえよ」彼は鼻で笑い「お前こそ、髪型変わった」と指差した。
「変えてねえよ」話し方を真似すると、にやにやしながら頭を叩かれた。
「朝日、留年してないよね」
「もうとっくに卒業したよ。後輩がテスト問題くれっていうから、わざわざ足運んでやっただけ」
「じゃあ待ち合わせ、駅でも良かったじゃん」
わたしの言葉を無視して、彼は寒そうに腕をこする。「俺、まだ飯食ってないんだ」
「せっかくここまで来たんだし、食堂行こうよ。空いてるし」
「いや、ラーメンがいい」彼はすたすたと歩きはじめた。
「新しく出来たとこ、美味いんだよ。奢ってやるから、そこ行こ」
どうやら、そのラーメン屋に連れて行くために、わざわざ学校を待ち合わせ場所に指定してきたらしい。断る理由もないので、彼の後を着いていった。
飲食街が並ぶ通りは、やはり一年前とは風景が違う。古い店が二つ無くなって、代わりにチェーン店のカフェとラーメン屋が出来ていた。
店には二、三人ほどしか居なかった。カウンター席に着いて、
「味噌ラーメン、二つ。ひとつは味玉つけてください」と迷いなく注文する。
端の席を薦められたので「ずいぶん紳士的だね」とからかうと、朝日は嫌そうに「いいから、早く座れよ」とカバンを奪いとって、カウンターの下に置いた。
ラーメンを待っている間、彼はそわそわと腕をこすったり、しきりに足を組み替えていた。あまりに落ち着かない様子なので、
「そんなにお腹空いていたの?」と尋ねる。
「いや、別に」とぶっきらぼうに返すので「またカップラーメン箱買いして、二週間それしか食べないチャレンジとかしてないよね?」と学生時代の彼の凶行について指摘する。
「ちゃんと食ってるよ。つうか、食わないともたない。営業は肉体労働に含めるべきだ」
彼はそう文句を言って、こちらをじろりと見た。爪先から頭まで、さっと視線が動く。
「おまえこそ、ちゃんと食ってんの。なんか痩せただろ」
自分の体を見下ろす。本日はタミのパーカーを失敬して着ている。もし痩せたように見えるのなら、服の効果かもしれない。
「ダイエットの効果かもね。久しぶりだからポイント稼ぎしてくれているの?」
朝日は「おまえのポイント稼いでどうするんだよ」と苦笑してから、
「本当に痩せた」とつぶやいた。
ラーメンが目の前に置かれた。もくもくと立ちのぼる湯気から、味噌の香ばしい匂いがした。朝日は「たまご、食べるだろ」と、自分の前に置かれている方と入れ替えてくれた。
「優しいなあ」と茶化して、箸を割る。
彼は無言で自分の分を食べはじめた。熱々の麺と格闘しながら、あきらかに気を遣いすぎな同級生について考える。朝日はきちんとした家の長男だが、こんな風にわたしを甘やかす人間ではなかった。
「朝日、麻美とより戻したの?」
彼は胡乱気に、器から顔を上げた。「なに?」
「よりが戻って心が安定しているから、やたらと優しいのかと思って」
「普通、逆じゃないか? 彼女持ちなら、優しくしないだろ」
「女子と二人でラーメンはアウト?」
「アウトだ」
会話を続ける気はないらしく、再び器に顔を突っ込んでしまった。
ラーメンはとても美味だったが、なんとなく味気ない気がした。細麺だからかもしれない。
あの部屋の人は、みんな太麺好きだ。タミ達に連れて行かれた店の、衝撃的な太麺が恋しい。シュウくんとタミは「これこそがラーメンのイノベーションだ」とかなんとか言いながら、わたしの煮卵やメンマを勝手に奪っていた。
手を合わせる。先に食べ終わっていた朝日は、器の底を見つめながら、
「麻美から聞いたけど、なんか大変だったんだってな」と、ついにその話題に触れた。
「連絡、返してくれて良かったよ。もしかしたら、二度と会うことないんじゃないかって思っていたから」
彼からメールが届いたのは、麻美と遭遇した三日後だった。
半年前くらいまでは安否を心配するメールが友人達から届いていたのだが、返信をためらっている間に、いつのまにか連絡が途絶えていた。
朝日は言葉を探りながら「それで、今はなにしてんの?」と尋ねた。
「いまは、のんびりしているかな」
具体的なことを説明する気は、毛頭なかった。心配してくれているのはありがたかったが、知らない男と同居している現状を理解しろと求めるのは難しいだろう。
「そうか」と彼は頷き「連絡取れなくなってからさ、麻美のやつ、のぞみは自分探しの旅に行っちゃったんだって、わめいてたよ。テロにでも巻き込まれたらどうしようって妙な心配してた」
「それ、このあいだ聞いたな。旅に出るようなお金ないし、第一そんなバイタリティ無いよ」
「そうか? おまえ妙に行動力があるから、ひょっとしたらとは思ってたよ。そうだ、アレ。二年の冬のときのさ、覚えてない?」
そんなに前の話を、そう覚えているはずもない。「なんかあったっけ」と聞くと、朝日は「麻美と合コン行ったとき」と言った。
ふと思いだす。朝日と別れたばかりの彼女を励ますためという名目で、その実、素敵な殿方との出会いを求めて、女子三人で初めての合コンに挑戦したのだ。
朝日と麻美同様に仲良くしてくれていた智子が、バイト先のつてを使ってセッティングしてくれたものだった。
「なんで朝日が知っているのよ」
「麻美がしょっちゅう話しているから、そりゃあ知っているさ。のぞみが、相手の男にコーヒーぶっかけたって」
「べつにかけたくて、かけた訳じゃないよ。手が滑ったの。相手だって許してくれたし」
「麻美は自分が嫌なことされていたからって、話していたけどな」
詳細には覚えていないが、あまり思い出したい記憶ではない気がする。とりあえず合コンなんてロクなものではないと、女子三人で怒っていたことだけは覚えている。
彼は水を飲んで「そういうことするやつなんだーって思った」と言った。
「なにそれ、どういう意味よ」
「意外と芯があるっていうか、良いやつなんだなって」
「へえ、買ってくれていたんだ」と笑うと、
「そうだな。買い被っていたかもしれない」と返された。
がたごとと鍋を動かす音や、油のはねる音がした。眉を吊り上げている彼に「ごめんね」と謝った。「その、ずっと連絡とらなくて」
「別に、そんなこと良いよ」そうは言っても、声は冷たいままだ。
「なんというか、説明しづらいんだけど」
朝日は口を挟まない。おためごかしな「言わなくてもいい」なんて台詞を彼は言わない。
「とりあえず、ちゃんと生きているし、大丈夫だから」
笑顔を作って、話を切る。これ以上、彼になにを伝えるべきか分からなかった。
彼はしばらく考えてから「じつは」と切り出した。
「何カ月か前に、見たんだ。男と電車乗っているとこ」
笑顔がこわばる。彼は淡々と「ずいぶん仲良さそうだったけど、男兄弟は居なかったよな。あれ、彼氏?」と問いかける。
だれと一緒に居ようが朝日には関係ないはずだ。彼はただの友人だし、わたしが男性と仲良さげにしていることには、なんの問題もない。
それなのに責めるように話すから、言い訳めいた考えが浮かんでしまう。
「えっと、彼氏とかは今居ないんだけど」たどたどしい口調になる。
本当のことを話す訳にはいかなかった。赤の他人と同居していることを、受けいれてくれるとは到底思えない。
そんな気持ちは、すぐに見透かされたようだった。彼は不愉快そうに眉をひそめ、
「話したくないなら良いけどよ」と吐き捨てた。
反射的な謝罪が、のどの奥でつっかえた。彼が怒るのも当然だ。心配してくれている人に対して、わたしはその場しのぎの返事しかしていないのだから。
ただ、どうしても話したくなかった。否定されると分かっているのに、告げることは出来ない。
わたしが委縮してしまったからか、彼は自分が威圧的な態度をとっていると思ったようだ。複雑な表情で「悪い」と謝った。
「こういうこと、話そうと思っていた訳じゃないんだ。単純に、自分が情けなくて」
彼はため息をついた。
「麻美と智子と話したんだ。その、俺たちがもっと支えになれたんじゃないかって。でも結局、一番大変なときになにもしてやれなかったことが心底情けない」
呆気にとられた。この人は、なにを分かったようなことを言っているのだろう。
乱暴な気持ちが口から出そうになって、押しとどめた。唇を噛んで、つばを飲みこむ。息を吐くと気持ちが落ちついた。食事をしたばかりなのに指先が冷たい。
身勝手な感想を言わないで済んだことに安堵した。こんな感情のままに、彼を傷つけていい理由があるはずもない。
「ううん、大丈夫」もうなにも言ってほしくなかった。麻美にも感じた、わたし達を隔てる壁を強く感じた。優しいうわごとは、もう聞きたくない。
気まずさが解消されることもなく、そそくさと店を出た。
二人で駅へと向かう。どこに住んでいるのか、今はなにをしているのかと聞きたそうにしていたが、もはや一切を話す気はなくなっていた。
わたしの怯えは伝わっているらしく、別れ際にもう一度謝られた。
「大丈夫だって」そう言葉では伝えられても、彼の顔が見られなかった。早く去ってくれと考えているのだが、なかなか改札をくぐらない。
「十二月二十七日」
顔を上げる。わたしのまぬけ面に、朝日は真剣な表情を向けた。
「麻美と智子と、俺の家で待っているから。場所、分かるよな?」
頷くと、彼は「よし、それじゃ」と言って、きびすを返した。改札を抜けてエスカレーターの先へと消えていく。
しばらく呆然としていたが、ぼんやりとするには駅はあまりにも人通りが多い。だんだんと仕事帰りのサラリーマンが増えてきたので、自宅に繋がる改札へと向かった。
電車を待つ列に並ぶ。アナウンスが聞こえる。電光掲示板が光って、ホームに車両が滑りこんでくる。
学寮に居たときも、この線を使っていた。その時によく思ったのは、こんなに人が居て、よくホームから落ちないでいられるな、という感想だ。
特急も急行も止まる駅だから、飛び降りるには不向きなのかもしれないが、黄色い線ぎりぎりの、あと一歩で落ちる瀬戸際に立っていると、不穏な気持ちにならざるをえない。
風が頬を掠めると、どこか清々しい気持ちで「ここから落ちたら死ぬだろう」と思う。それは電車を待っているみんなが思っている事だ。そう思うだけでわたし達は、今なんとか生きている状態であると認識する。
電車の中に押しこまれて、もみくちゃになる。暖房が効きすぎている。汗と香水の混じった匂いがする。吊革を掴むことも出来ないので、目を閉じて耐えるしかない。そうすると、考えるしかやることがない。
十二月二十七日は、わたしの誕生日だ。
誕生日の最も鮮明な思い出は、九つになった時。父親はわたしと静に、ウサギのぬいぐるみをくれた。小学五年生になるまでは、クリスマスと誕生日は別々だったから、わたし達はクリスマスにゲームカセットを貰ったその二日後には、ピンクと水色のウサギを手にすることが出来た訳である。
今では、二十二歳の誕生日が一番特別な日になった。
みんなで朝日の家に集まって、パーティをしたのだ。彼は独り暮らしだったし、お隣が空いていて、大騒ぎをしても怒られない家だった。シャンパンと缶ビールと酎ハイで乾杯して、ピザをとって、巨大なケーキを食べて、うんざりするほど満腹になった。
次の日バイトを入れていたから、主役だったけれど早めにお暇した。寮に帰って、貰ったプレゼントを机に置いた。麻美はずっと欲しかった口紅を、智子はボディケアのセットを、朝日は用途不明の置物をくれた。もう入浴時間は過ぎていたから、さっさと着替えて寝ようと思った。その時、電話が鳴った。
駅のアナウンスで、目を開いた。
背広姿に揉まれながら進んでいくと、外はもう真っ暗だ。白い息をたしかめながら、スーパーに寄るべきだと思いたつ。そろそろシャンプーが切れそうだった気がする。
他に必要なものはないか聞くべきだと思い、家に電話をかける。
四回のコールの後に「はーい」と、明るい返事が聞こえた。
「あ、のぞみです」
「あら、のぞみちゃん。今日は、肉よ!」タミと夏目さんの言い争いが聞こえてくる。多分、肉の焼き加減でもめている。「はやく来ないと、ぜんぶ食べちゃうわよ」
「すみません、晩御飯任せちゃって」
「やだ、いいのよ。今日は私もお休み、つまり、のぞみちゃんの家政婦業もお休みってこと」
「ありがたいです。あの、タミになにか要るものあるかって聞いてくれませんか?」
「オッケー。ねえ、のぞみちゃんがなにか要るものあるかだって。ああ、うん。シャンプー? シャンプー切れてますよーだって」
「はーい、それじゃ、できるだけ早く帰ります」と答えた。
そうしなさーい、という間延びした返事を聞いて、電話を切る。
ドラッグストアに寄って買い物を終え、家路を急ぐ。
アパートへ残り五十メートルほどの所で、電気の付いた窓が開いた。「のぞみさーん」と大声で呼ばれる。「牛タン焼きますから、走ってください」
窓が閉まる。夏目さんが私の分を確保してくれるだろうが、タミと育ちざかりの少年に奪われていく未来はたやすく予想できる。
全力疾走して、階段を駆け上がる。玄関を開くと、ニンニクと甘いタレの匂いがした。テーブル上のホットプレートには、大量の肉が敷きつめられている。
タミと夏目さんは、タン塩から視線を外さないまま「おかえりなさい」と言った。二人の横から肉を狙う憲明は、わたしをちらっと確認して「ぼーっとしてると無くなるぞ」と歴戦の兵士のような口調で言いはなつ。
「あれ、シュウくんは」
「今日は実験で遅くなるから、来られないそうです。残念ですね」と言いながらも、ひょいひょい肉を掠めとっていく。
手を洗ってリビングに戻ると、夏目さんがクーラーボックスからブロック肉を取り出していた。彼の横にいた真っ赤なワンピースを着た真理子さんがわたしに気づいて、
「のぞみちゃん、おかえりなさーい」と抱きつく。
茶色の巻き毛から、薔薇の香りがふわりとかおった。肩を掴んだまま、わたしの顔をまじまじと眺め「お化粧してないでしょ」と目尻を尖らせる。
「あたしがあげたメイクパレット、使ってあげてよ」
「えっと、たいした用事じゃなかったんですよ」
「またまた、嘘つきね。友達に会いにいくんだって、聞いているんだから。あーあ、美人が三割増しで美人になるのになあ。もったいないなあ、ねえ夏目」
彼女はくるくる回りながら、夏目さんに寄りかかった。彼は犬を追い払うような仕草で彼女を避け「のぞみちゃんは、化粧しなくても美人だろ」と言った。
「あら、伊達男の夏目さんらしい言葉だこと。でもね、化粧は盾であり武器よ。しなくてもいいかもしれないけど、使い方は知っておくべきなのよ」
「真理子さんほど、のぞみさんは戦場に出ませんからね」とタミが言った。手招きされたので、彼の横に座る。皿と箸を用意してくれていたので、タレを小皿に垂らしてから「いただきます」と手を合わせる。
「じゃんじゃん食べて!」とカルビを皿に乗っけてくれたので、遠慮せずに箸を伸ばす。
口の中に、じゅわっと甘い味が広がった。厚みがあるが、すぐに溶ける。
手で口を押さえて「おいしいです」と告げると、真理子さんは花開いたような笑顔を浮かべた。
「これねえ、取引先の岩崎さんって人が、お歳暮にくれたのよ」
「あいかわらず、豪勢なお歳暮だな」と夏目さんが苦笑した。
「一年に一回なんだから、これくらい頂かないとね。そうだ、今年もクリスマスケーキのカタログくれるらしいから、今度持ってくるわね」
憲明がタン塩に食らいつきながら「今年はチョコレートケーキがいい」と言った。
「母ちゃんが持ってくるやつ、毎回フルーツケーキなんだもん」
「あら、憲明。あんた価値が分かってないのよ。あれ、いくらすると思っているのよ」
「去年は結局、なんのケーキにしたんですか」とタミが尋ねると、
「高野のメロンケーキ。二万三千円もするのよ、たかがケーキのくせして」と胸を張って答えた。
「俺はなんでもいいけど」夏目さんが肉をひっくり返す。「今年はTバックは無しで頼む」
「Tバック?」
「うん、去年のクリスマス、なにを思ったのかこいつ、サンタクロースの恰好をして、百枚くらいTバックが入ったビニール袋を、俺の家の玄関先に置いて帰っていったんだ」
「遊び心よ」真理子さんは胸をはった。「男たるもの、いつでも戦闘態勢でいないとね」
「なるほど」
ミニスカサンタの恰好をした彼女を想像してみる。三十代後半に思えないくらい彼女の足はすらりとして綺麗だから、きっと似合うだろう。
「おかげで、それまでは真面目な社会人だと思われていたのに、隣の奥さんにエレベーターでからかわれた」
「それって勘違いが正されただけだから、問題ないわよ」
真理子さんはケラケラ笑うだけだ。「今年は、タミくんにもプレゼントしちゃおうかな。ちゃんと今年は体調管理してよね」
「たしかに、今年はここで祝いたいからな。シュウも残念がっていたし、のぞみちゃんも居るんだから風邪ひくなよ」
「分かっていますよ」とタミは頬をかいた。
「去年のクリスマスは、ここで祝わなかったんだ」と問うと、真理子さんが「タミくんったら急に風邪ひいてね、メロンケーキが余っちゃった」と鼻を鳴らした。
「年末で仕事が立て込んでいたので、そうもなりますよ。普段は健康体ですけれど」
たしかに不摂生な生活をしている割には、この一年間、タミが風邪を引いたり体調を崩したところを見たことがない。
「やだ、あんたのどこが健康なのよ。夏目の肉体を見なさいな、この筋肉!」
「筋肉量と健康はイコールではありませんよ」
「イコールではないが、もうちょっと鍛えても良いんじゃないか」
夏目さんはまんざらでもないのか、真理子さんの肩を持った。
「のぞみちゃんも、筋肉好きよね?」
満面の笑顔で尋ねられると、否定しづらい。
「無いよりは、あったほうが良いんじゃないですかね」
「ほら、やっぱり時代は筋肉だって」
タミは両手を挙げた。形勢不利だ。
「いざというときは、マッスルナツメに守ってもらいましょう」
「アイアイサー」と彼は敬礼をした。憲明が「父ちゃんの筋肉すごいから」となぜかわたしに自慢げにしてきたので、頷いておく。真理子さんは満足気だ。わたしも、満足した。
真理子さんが、どうしても憲明とお風呂に入りたいと駄々をこねたので、夏目さんが車を出して、二人を近所の銭湯へと連れていった。
「あんたも行けば良かったのに。髪の毛、絶対煙くなってるわよ」
タミは定位置に座って、仕事をしている。
「風呂なら昨日入りましたよ」
「普通は毎日入るの」
「いいじゃないですか、家族団らんを邪魔する必要はありません」
バスタオルや下着を準備する。隠しておこう、とかいう羞恥心はとっくに消えた。洗濯は自分でやるし、この男も下着を見ようが、全裸を見ようが、もはやなにも思わない気がする。シャンプーの詰め替え袋を取りだして、脱衣所に入る。
洗面台の横のスイッチを押す。明かりがつかない。首をかしげて、何度か押してみる。電球が切れているようだった。
だから必要な物があるかどうか確認の電話を入れたのに、と内心で愚痴るも、もはや仕方がない。浴室はいつも通りに電気が付いたので、文句はお風呂を出てから言うことにした。
服を脱いでタイルに足をつけると、冷たさが爪先に響く。大慌てでシャワーをひねり、出て来た熱湯に悲鳴をあげる。ようやく落ち着いて浴槽に入ると、温かさが身に染みた。
お湯を顔にかけると、頬が勝手にゆるんだ。
きっと今頃、真理子さんと憲明は銭湯で楽しんでいるに違いない。楽しむ所ではないのだろうけれど、真理子さんは大はしゃぎするだろう。そして三人で牛乳を飲んで、ひとしきり今日のことを話すのだろう。
今年のクリスマスケーキは、この家で食べる。彼等がそれを当たり前のように認識していることが、この上なく嬉しかった。そこにわたしの名前が入っていても、だれも不思議そうにしない。それだけで、もうなにも要らないと思えた。
浮かれながら詰め替えていたからか、シャンプーが少し零れた。浴槽から出て、蛇口に手を伸ばす。
ふと、蛇口の横にカミソリが置きっぱなしになっていることに気づいた。おそらく、タミが髭でも剃ったのだろう。
洗面台でやればいいのにと思いながら、柄を掴んだ。面白いくらい滑った。そういえば、電球が切れていたのだと思いだして、手のひらが熱く燃えたと同時に、後悔した。家政婦のくせにちゃんと備品を揃えておかないから、こういう目に遭うのだ。
手首を伝っていく液体に、目の前がくらくらした。電気が消えたと思ったら、また着いた。気づいたら、タイルが目の前にあった。黒カビが生えている。今度掃除をしなくてはならない。息がもれる。痛いというより熱い。どちらかというと、転んだときに打ったらしい、左半身の方が痛い。
脳みその半分くらいあった冷静な部分が、警鐘を鳴らしている。視界がぶれている。真っ赤な液体が視界に映るたびに、心臓がうるさくなる。手首を切ったのだろうか。いや、手首は痛くない。だから、多分大丈夫だ。
大丈夫なんかじゃない。これは呪いだ。冷静じゃない方の脳みそが、わめき散らしている。おまえは、静の幸せを奪い取っている。だから呪いが掛かったんだ。
振動が聞こえた。「のぞみさん」と声が掛けられた。「大丈夫ですか」
扉を叩く音が聞こえる。大丈夫、と答えようとしているのだが、声が出ない。のどの奥で声帯がどうにかなってしまったみたいだ。どうにか半身を持ち上げて、扉を叩き返そうとする。「開けますよ」と焦った声が告げた。
扉が開いた。
見下ろす彼の顔が、死人のように青ざめていく。後ずさって、視線を逸らす。そういえば真っ裸だ。隠したいと思うが、それどころではない。彼も、それどころではない表情をしている。
混乱した頭のまま「大丈夫?」と、やっと声が出た。大丈夫じゃないのはどう考えてもわたしの方だったのだが、彼の様子は異常だった。
彼は呆然としたままだ。じんじんと、手のひらが痛みを訴えはじめていた。
「タミ」と声をかけると、彼はやっと正気に戻ったようだった。わたしを真正面から見て、慌ててバスタオルを被せてきた。ばたばたと音が聞こえて、気づいたら目の前にしゃがみこんで、包帯をぐるぐると巻かれていた。
「カミソリで切ったんですか」と彼は聞いてきた。固い声だった。
「切ったというか、切れたというか」
舌のしびれが治ってきたので、続けて答える。
「片づけようとしたら、手が滑っちゃって」
包帯を巻く手が、震えていた。彼もそれに気づいたのか、いったん指を握りしめた。それでも止血を再開しようとした指先は、凍えそうな人のように上手くは動かない。
「びっくりさせて、ごめん」
謝ると、彼は肩を竦ませた。怯えていた。
「その、本当に事故だから。意図があった訳じゃなくて」
我ながらなんて不注意なのだろうと思いつつ、弁解をする。彼は黙っていた。
「でもタミも、あれだよ。電球切れていたんなら、電話したときに言ってくれれば」
手のひらより、沈黙が痛かった。
「あの」と口を開く。しかし再びの謝罪の言葉は、スウェットの中に吸いこまれた。
体が傾いて、むきだしの足がごわごわしたジーンズに触れた。きつく背中に回された手が、そうしなければならないかのように爪を立てていた。バスタオルがはだけて、肩に外気が触れる。
「すみません」
掠れた声が言った。
「本当に、すみません」
顔が見たかったが、頭を押さえられていて叶わなかった。ただ髪の毛に食いこむ指の力が強くなればなるほど、吐き気がするくらいに心臓がうるさくなっていく。
肌は白いのに、体温は高いのだと知った。もっと太陽を浴びた方がいいと、今度言おうと思った。ちょっとは健康的になって、それで、そんな関係ないことを考えている間にも、心音はどんどん大きくなっていく。
冷静な方の脳みそが、この男はおまえを抱きしめているわけじゃないぞ、とほくそ笑んだ。無視した。




