2014年 12月2日
二〇一四年 十二月二日
憲明は踏台の上で精いっぱい爪先立ちをして、りんごを頭上に掲げた。
小梅さんがそれを鼻で取ると、嬉しそうに目を見開く。
「器用ですね」と感心していると、飼育員のお姉さんが「この子達の鼻はたくさんの筋肉の塊なんです。だから器用なだけじゃなくて、すごく力持ちでもあるんですよ」と説明してくれた。
「タミさん、なぜゾウは鼻を利用する事にしたのでしょうか」憲明は台から降りると、タミを見上げて疑問を投げかけた。「キリンみたいに首を伸ばす方法とかもあったのに」
「太った人の原理と同じですよ。彼らがしゃがむところを見たことがありますか?」
「安部君は平均より体重が重そうですけど、あんまりないですね」
「実は太っていると、しゃがみこむのが辛いんですよ。重くなった自重を支えるのが大変なんです」
憲明は「なるほど。だからゾウは鼻を伸ばしたんですね」と頷いた。
二人で勝手に納得しているので「つまりどういう事なの?」と尋ねると、呆れたように「今の説明でわかんなかったの?」と言った。
「ゾウも体重が重くて辛いから、鼻を伸ばしたってこと?」
「正確に言うと、頭部を動かさなくて済むように鼻が伸びたんです」
「のぞみがめんどくさがって、リモコンを足で押すのと一緒」と鼻で笑う。この少年がなにかと蔑んでくるのは日常茶飯事なので、もはや腹も立たない。
「もの知りなお父さんでいいわね」と飼育員の人が言うと、
「どうも」タミはさらりと答えた。この三人で出かけていると、いつもの事なのだ。
飼育舎の外は広場になっている。ゾウのエリアは非常に閑散としていた。二頭のゾウと、カメラを立てて熱心に撮影している男性、ベンチで話しこんでいる熟年のカップル、そして私達しか居ない。
憲明はすたすたと先へ進んで、柵に身を乗り出した。彼らの皮膚を穴が空きそうなほどに眺めている。
「ゾウが一番好きなの?」同じように、柵の中を眺める。
「いや、べつに。おれが一番好きなのは犬」
彼は視線をゾウ達から逸らすことなく、
「母ちゃんが今度シェパードを飼うって言ってた。いったい、だれが世話するんだろうな。母ちゃん、世話とかそういうの出来んのかな」とぼやいた。
年がら年中バブル全盛期のような服装をした憲明の母親は、猛獣を侍らせることこそ似合いそうだが、リードを持って近所をお散歩する姿は想像しにくい。
「真理子さんのことだから、部下にさせるんじゃない?」
「たぶんな。それか、お手伝いさん」憲明はわたしを見上げて、
「のぞみは、子供いないの?」と尋ねた。
「ずいぶん急だね」
「小梅さんだって、ここで生まれたゾウなんだろ。つまり両親が居るってことだ。のぞみも、一応けっこんてきれいきだろ。おれが知らないだけで、子供が居ても、おかしくない」
「彼氏居ないって知っているでしょ」と苦笑いを浮かべると、
「それとこれはベツだろ」彼は柵にあごを乗せて、あくびをした。「うちの父ちゃんと母ちゃんを見ろよ」
「まあ、それを言われるとね」
広場を眺めて改めて思うことは、月曜日の動物園には驚くほど家族連れが少ないということだ。ここが都内でも外れた地域にある動物園である点も理由の一つだろうが、圧倒的に独り身のほうが目立つ。
「子供ね」
休日にはベビーカーや親子連れで、一杯であろうこの場所を、自分が同じように歩いている姿を想像してみる。隣を歩いている父親の顔を、好きな俳優に置きかえてみたが、しっくりこなかった。父親が不明だと子供の姿も想像しづらく、妄想は成立不可のまま消える。
それと立ち代わりに、幼い頃、家族三人で訪れた記憶がよみがえった。
わたしと静は気が合わない姉妹だったが、あの非日常に限っては、上手くやれていたと思う。ゾウの広場を駆けまわって、ライオンバスは隣同士で座ったはずだ。ふれあいゾーンでは、わたしのひざに乗せたモルモットに彼女がレタスの端きれを差し出していた。
それは多分、日曜日の動物園だった。
憲明はリュックからスケッチブックとえんぴつを取り出した。夏目さんが買い与えたデッサン用のえんぴつセットだ。よどみなく描かれていく線を見るに、目の前のゾウを描くつもりのようだ。
「座ったら?」とベンチを指すと、黙ってそこに腰かけて、またすぐに描き始めた。
しばらく横で絵の進捗を観察していると、
「学校はいいのか、とか聞かねえの」と憲明が手を止めた。だいたいの輪郭はあっという間に出来上がって、頭部から徐々にリアリティを増そうとしている。
「今日は校外学習なんだって、タミが言っていたよ」
頭をぽんぽんと叩くと、うっとうしそうに払われた。
「描くのに邪魔だから、どっか行ってろよ」
「反抗期だなあ」
本気で邪魔に思っていそうだったので、すごすごとその場を去る。すでにタミの姿はどこかに消えていたので、一人にすることを心配しなくても平気だろう。
広場から続く道は、緩やかな坂になっている。
向こう側にはキリンと、しまうまの飼育舎があって、それを見下ろす丘の上に、ぽつんとベンチが設置されていた。タミは草を食み続ける動物たちを眺めている。
「なんだ、どこに居るのかと思ったら」
横にずれてくれたので隣に座ると、彼は「キリンって可愛いですよね」とつぶやいた。
「頭のツノが宇宙人みたいですし、模様も自然界になじむ気があるのかないのか、曖昧で可愛らしい」
「観点には同意できないけど、可愛くないこともない」
彼はぼんやりとしている。勝手に一人でどこかへ行くことを注意すべきかどうか迷って、結局止めた。こういう人間なので、気にしていてもらちがあかない。
ちらほらどころか、この辺りには人っ子一人見当たらなかった。飼育員の人がどこかに居るのだろうが、姿は見えない。
「この先に、チンパンジーが居るんですけれど」
タミが立ちあがった。大型の哺乳類みたいな動きだ。
「せっかくですし、見に行きませんか」
これが校外学習なのだろうか。「いいけど」と返すと、彼は頷いて歩きだした。後に続く。
時間がゆっくり流れている気がした。普段タミもわたしも、自然と触れ合うことなんてほとんどないから、緑色が目に優しく、気持ちまで緩む。
傾斜を登り終えた先に、小規模なアスレチックがあった。ロープの先や丸太の端に、毛むくじゃらの動物が居る。甲高い鳴き声が聞こえる。
柵の前には、一匹ずつプロフィールが書いてあったが、正直なところ、どれがどれやら判別つかなかった。彼らはこちらを意に介すこともなく、なにが楽しいのかあっちこっちを飛びまわったり、毛づくろいをしたり、ケンカをしたりしている。
むっとした獣特有の匂いがする。
「猿を見ると、汚らわしいものと直面している気がする」
タミはチンパンジーたちを見上げて、ぽつりとつぶやいた。
「と、静ちゃんは言っていましたね」
あなたもそうなんですか、と問われた気がした。
「わたしは、そういうわけじゃないけれど」思わず否定してから、次の言葉に迷う。
「嫌いな動物を眺めるのが、校外学習なの?」
「いえ、ただ」言葉が切れた。きーきーと鳴き声がうるさい。タミは私と向き合って、
「先ほどの話の続きをしましょう」と言った。
顔色を変えないように努力していた。彼がなにを知りたいのかなんて、分かり切っている。
「どうして、俺の元に来たのですか」
丁寧な問いを、だんまりでいなす事は出来なさそうだった。
「分からない」と言うと、彼は少しだけ苛立ちを見せた。
「のぞみさん」と叱るように言う。
誠意を見せて欲しいと言わんばかりの、まともそうな表情だ。
おかしな人達とおかしな家に住んでいるくせに、本人は平常そうなふりをしている。それが無性におかしかったから、
「どうして、静を殺したの?」
そう、尋ねた。極めつけに、ほほえんでみせる。
「違うな。どうして、静を殺したと思っているの?」
彼は無表情の中に、怯えを見せた。
父は動物園ではしゃぐわたし達を眺めて言ったものだ。おまえ達は笑っていると、どちらがどちらか分からないな、なんて。彼は冗談のつもりだったのだろう。
「もし、それを教えてくれるのなら、わたしも話してもいい」
苛めっ子のような気持ちだった。ふつふつと湧きあがる嗜虐心は、わたし達の関係を徹底的に破壊したいようだ。こんなに平穏な動物園で再び居場所を失うのかと思うと、絶望的な気持ちだったけれど清々しい気もした。
元々この関係には無理があったのだと、心の中で言い訳をする。どうせ達成することなんて出来ないだろうと知りながら、それでもあの春の日に、扉を叩いた。
彼は、迷いなく決断した。
「申し訳ありません」と、頭を下げる。サラリーマンみたいに、きっちり角度を決めて謝罪をする。
「答えられないんだ」
「ええ」
「人に聞いておきながら、自分は言えないなんて、最低」
ぽんぽんと悪い言葉が出てくる。彼は頷くだけで、なにも反論しない。馬鹿みたいだった。彼が答えなかったことに、こんなにも安心しているのに礼も言えない。
檻のそばに向かって歩いていく。柵の近くにいたチンパンジーが、歯をむき出しにして威嚇してきた。
「怖いんです」
チンパンジーは毛を逆立てて、睨みつけてくる。背中を向けない。立ち向かっているというのに、怖いとはどういうことなのだろう。
「この生活が壊れるのが怖いし、あなたが居なくなってしまうことが怖い。あなたがだれなのか判別つかなくなることが怖いし、それなのに、なにも知らないまま、ここに立ち竦むことも」
振り向く。彼は肩をすくめた。
「臆病なんです。背中を見せたら、やられますからね」
「そんなに狂暴じゃないよ」
「どうだか」と言って、彼は笑った。「猿なんて、どう進化したところで手に負えませんよ」
視線を外したからだろうか、チンパンジーはもう居なくなっていた。決断力に優れているな、と思う。野生の勘という奴だろうか。
「猿より、あんたの方が嫌い」
「俺も、犬よりのぞみさんが嫌いですよ」
共犯者のような言葉を繰り返す。また振り出しに戻ったというのに、わたし達はちっとも責任なんて感じていない。
「月曜日の動物園って、家族連れが少なくていいですよね」
ふとタミが話し出した。檻の中を興味深げに観察しながら、続ける。
「高校生の頃、暇つぶしに来ることが多かったんですけれど、月曜日が一番人が少なくて、思う存分観ていられるんです」
「学校さぼって?」と問うと、
「まあ、怒る人も居ませんでしたからね」と苦笑した。
若かりし日のタミが、一人で檻を眺めている姿を思い浮かべる。
「なんで動物園が良かったの」
二十九歳の彼が、憲明をここに連れて来た理由を知りたかった。家族連れの少ない動物園に、まるで家族みたいなふりをして訪れる意味は、どこにあるのだろう。
判りきった嘘を継続することに意味なんてないと知っているけれど、彼の口から答えが聞きたかった。
彼は腕を組んで、しばらく宙を見ていた。そして「冗談言っていいですか」と聞いてきた。
「どうぞ」
「ヘンゼルとグレーテルみたいに、置きざりにされるなら、きっと動物園が一番楽しいと思うんです。そうですね、月曜日、本当に楽しいでしょう。大人の目を離れて、したい放題できます。火曜日は、歩き疲れていますかね」
呪文を唱えるように、ゆっくりと話す。
「水曜日が来る頃には、飽き飽きしているかもしれません。水曜日は休園日ですし。一人きりの動物園なんて、ぞっとしません。木曜日には、デッサンも写真を撮るのも、止めてしまいました。ずっとやっていると、バランスが分からなくなってくるんです」
彼は写真を撮るそぶりをした。寝室の棚の上で、埃をかぶっているカメラの存在を思いだした。
「金曜日。気が狂いそうです。チンパンジーの檻で起きている出来事が、自分の身にも、降り注いでいるかのような錯覚を覚えます。そして、土曜日。明日はやっと日曜日だと、大喜びです。やっとこの檻から出ることができる。お仲間のライオン、キリン、ゾウ、そしてチンパンジーにお別れを言います。今日だけは、余りある退屈も苦になりません。なんたって、明日は日曜日なのですから。
「ようやく日付が変わりました。朝がやってきて、あたたかい日差しがさしこみます。すがすがしい空の下を、親子連れや、ベビーカーを引いたお母さんが歩いています。小さな子供が元気に走りまわっていますね。意識もしていなかった小鳥の声が、もう一度聞こえてくるんです。爽やかな空気を思う存分吸いこみながら、園内を歩きます。みんなに混じって動物たちを観察し、笑ったり、驚いたりと、にぎやかです。そして、半分も回らないうちに、気づくんですね」
高校生の頃の彼はどんな人間だったのだろう、と思いをはせる。
きっと恐ろしいくらい生意気な青年だったろう。それこそ動物園に一人でやってきて、ぼんやりとたそがれてしまうような、口ばかり達者な独りぼっちの男の子だ。
「動物園は、会話がちゃんと通るくらいには静かな方がいいなって」
彼は両手を叩いた。
「という冗談です」
「びっくりするくらい、つまらなかった」
そう伝えると楽しそうに笑うから、全然面白くなんてなかったのに、思わず口元がゆるんだ。
ゾウの広場に戻ると、憲明はわたしが去ったときと同じ姿で、スケッチブックに向かっていた。
「そろそろ出来ましたか?」とタミが話しかけると、
「あっ、タミさん。見てください」弾かれるように立ちあがって、スケッチブックを手渡した。
横から覗きこんで、感嘆の声をあげる。そこには精緻なゾウの姿が描かれていた。
「憲明には、絵の才能がありますよね。油彩画でもやってみたらどうですか」
「えっと」憲明は相好をくずしながら言いよどんだ。「油彩画なんて、おれには早くないですか?」
「どんなことにも、早い遅いなんて無いですよ。ちゃんとした先生に付きたいなら、早めに教室に通ってもいいでしょうし」
「わたしもそう思う。本格的にやったら?」
この才能を放置しておくのはもったいないと本気で思った。憲明は「まあ、のぞみよりは上手いけどさ」と生意気なことを言ったが、スケッチブックを両手で抱える姿からは嬉しさがにじみ出ている。
タミと憲明はしょっちゅう親子だと勘違いされているが、手を繋がないし、頭を撫でたりもしない。それが憲明にとって必要なことだと知っているから、夏目さんはタミに彼を任せているのだろう。
「わたしなんかと比べなくたって、こんなに描けるんだもの。学校で一番上手いに決まってる」頭を撫でたらまた怒られそうだったので、代わりにスケッチブックを撫でた。
しかめ面をしている憲明は小学生相応の顔をしていて、少しだけ可愛かった。
わたし達はライオンの檻の前でソフトクリームを食べてから、動物園を出た。時計の針は、午後二時を指していた。
「のぞみさんは、これからどうするんですか?」モノレールを待っている間に、タミが尋ねた。「飲み会までには、まだ時間があるようですけれど」
「ああ」そういえば、と続けそうになった言葉を飲みこむ。「適当にぶらぶらするよ」
「そうですか、では俺たちは先に帰ります。夕飯は食べてくるんですよね」
「うん、遅くなるかも」
「こっちの事は気にせず、楽しんできてください」
なんら意図のない発言に、期待をした自分が居たことが馬鹿らしかった。
二人は動物園に対する見解を語りながら、自宅行きの駅に向かっていった。タミは帰り際「遅くなるときは、連絡くださいね」とだけ言った。おまえは父親か、と突っ込みたかったが、憲明が呆れ顔で見ていたので「仕事頑張ってね」と舌を出した。
車内はがらがらだった。一番端に座って、目を閉じる。
早朝に起きてから休みなく動いていたので、まぶたが重かった。心地よい揺れのせいで、だんだんと意識がぼんやりしてくる。陽射しが髪を温めて、車内アナウンスが遠くなっていく。
さっきの台詞が夢心地で繰り返される。怖いんです、なんて馬鹿みたいだった。そんなの、わたしも一緒だ。
怯えの走った表情がなにを意味しているかなんて、考えなくていいのだ。知らないふりをして、この生活がずっと続くように祈るだけ。どうしても、どうしてと言いたいのなら、夢の中で尋ねればいいじゃないか。
静のことは、わたしより嫌いですか、なんて。
目を強くつむって、妄想をかき消す。さっさと都会に着けばいい。
すっかり熟睡してしまった。目を覚ますと、元の駅にもう一度戻ってきていた。慌てて乗りかえて、今度こそ新宿へと向かう。携帯を開くと、午後五時ニ十分の表記の下に、シュウくんからのメールが表示されていた。居酒屋の場所と、ちゃんと決めて来いよとのメッセージが書かれている。
暗い窓に映っている顔をみて、げんなりする。あの家に転がりこんでから、お洒落だとか化粧だとかと疎遠になっていたのに加えて、電車で寝てしまったせいで髪は乱れているし、表情もどんよりしている。
久しぶりの同年代との飲み会に生活に疲れた主婦スタイルで臨むことは、さすがにためらわれる。駅に着いたら服を調達して、百貨店で適当に化粧をしてもらうべきだ。
電車を降りると、人の数に圧倒された。仕事を終えたサラリーマンたちが行きかっている。むやみに緊張しながら、なんとか目当てのファッションビルに逃げこむと、これまたきらびやかな世界に右向け右で帰りたくなった。まばゆいばかりの女子しか居ない。
こっちは毛玉だらけのセーターと着古したコート、しかもジーンズだというのに、みんなこの寒い中でもミニスカートを履いてヒールで歩いている。
通路の端に寄って、圧倒的な違いから目を背けたくなった。世界からとり残されている。来なきゃ良かった、と心中でため息を吐くが、すごすごと帰ることも出来ない。意を決して、入りやすそうな店を物色しながら歩きだした。
「のぞみ?」
背後から聞き覚えのある声がした。振り返ってみると、すらりとした女の子がわたしを凝視している。
「え、ちょっと、のぞみじゃない! あんた、今までなにしていたのよ!」
こちらの肩を掴んでまくしたてる様子から、ようやく彼女が同じ学部だった中川麻美であると思いだした。雰囲気が変わったから、すぐには分からなかった。それもそうだ。彼女と最後に会ったのは一年以上前の話だ。
「えっと」目線を無理やり上げる。「元気だった?」
「はあ? 元気だったって、こっちの台詞だよ。卒業式にも居ないし、寮に行ったらもう出て行ったって言われるし、みんな心配していたんだよ? なにがあったのか知らないけど、メールくらい返してよ。智子も朝日も、のぞみの連絡待ってるんだよ」
「うん、ごめん」
彼女はわたしを頭から爪先まで見た。麻美はすっかり社会人然としている。まるで雑誌に出てくるOLみたいな彼女との差異を感じて、恥ずかしくなる。
「えっと、わたし」もごもごと口にしようとすると、麻美は「今時間ある?」と尋ねた。
「いろいろ話したいし、せっかくだから一緒に服見ようよ」
「もちろん、いいよ」
正直なところ一緒に居たくなかったが、断ることは出来ない。まがりなりにも友達だったのに、一年近く思い出しもしなかった事実を、どうにか隠したいと思ったのだ。
中川麻美、朝日哲也、野村智子。特別仲が良かった三人だ。
脳内で彼らの顔を再生してみるが、本当にそんな顔面だったか不安になる。たった一年前の記憶のはずなのに、どこかでぶつ切れになってしまったかのように確証がない。
「話したくなかったら全然いいんだけど、なんかあったの?」麻美は気づかわしげに聞いた。
どこまで話していいものやら迷って「実は妹が亡くなって」と言ってしまった。
「それは」顔を曇らせる。「大変だったね」
「うーん、そうだね」
沈黙。当然そうなるだろう。だから会いたくなかったのだ、などと思ってしまった自分に嫌気が差した。このように心配してくれる友達が居ることさえ、忘れていたのに。
「その、朝日がさ」
麻美は必要以上の気遣いを見せないように、無理やり明るく振る舞った。
「のぞみは遠い国に、ふらっと旅立ったんじゃないかって言っていたよ。あたし達も、たしかにのぞみならやるかもって思って」
「いや、そんなことしないよ。お金ないし」
「だって夏休みとかもさ、なんにも言わないでどっか行っちゃったりしていたから。最初のうちは心配していなかったんだけど。でもさすがに、もうすぐ一年ってなると……」
涙声にぎょっとした。麻美は「ごめん」と言って、目元をぬぐった。
「こんなこと言って、本当に酷いかもしれないけど、のぞみが生きていて良かった」
そういえば、こういう子だったな。
冷めた声がした。どこかあの子の声に似た響きに、ぞっとする。
四人で旅行に行ったときのことが、ふと頭をよぎる。名古屋に食い倒れに行って、穴場のひつまぶし店を目当てに歩いていた。
道端で自動車にひかれた猫を発見して、麻美はずっと震えていた。朝日哲也はいち早く保健所に連絡をいれ、野村智子は彼女の肩を抱いていた。名古屋って運転が荒いって言うもんね、と思わずつぶやいた。信じられないような目で見る、彼女の顔が忘れられない。
だれだって路上に出れば轢かれるのは当然だ。人間だろうが、猫だろうが。路上に出なくたって、運が悪ければそうなることもある。父みたいに、運が悪かっただけ。
だけど、そんなことを言ったら、いろんなものが台無しになってしまう気がして、ただ保健所の車が来るのを待っていた。
「本当にごめん」出来る限り、申し訳なさそうに言った。意識しなくては、気持ちがこもらない。早く彼女と別れたかった。
「ううん、いいんだよ。今度、みんなでまた遊びに行こうね」
曖昧に頷いた。彼女はなにも気づかなかった。
麻美はわたしの現在について追及することもなく、ただ大学時代の話だけをしてくれた。ときどき好奇心がよぎっては、それを抑えることに心を砕いているようだった。
今日は初めて有給をとらせてもらえたのだ、と彼女が話す。そう言えば化粧品メーカーから内定をもらったと言っていた。華やかだが優しい雰囲気があるから、きっと活躍出来るだろうと、みんなで祝った。
結局服は見るだけ見て購入せず、麻美に勧められて、オレンジともピンクともいえない色のリップだけ買った。トイレでそれを塗って髪を下ろすと、まあまあ見られる顔になった。
麻美には友人と会うと伝えてあったので「いい感じだよ」と褒めてくれた。
時計を確認すると、もうすぐ七時半になろうとしていた。
「また連絡してもいい?」
「うん、もちろん」わたしからも連絡するね、という言葉は脳内に浮かんだはずなのに、言葉としては出てこなかった。
笑顔で手を振って、改札の向こうへと消えていく背中を見守る。ほっと息をついて、自分がどれほど緊張していたのか気づいた。
人ごみの最中で、麻美と似ている女の子と沢山すれ違った。自分だけが浮いている気がして、視線を落とす。新宿の道はゴミだらけだ。もう帰ってしまおうかと思ったが、帰宅ラッシュの電車に乗る気にもなれなかった。
今でも、静の死に対して現実感はない。
ドッペルゲンガーに遭遇するように、ふとあの子とすれ違うような気がしている。静は身だしなみに気を遣う子だったから、きっと少しだけ人目を惹く。それで、わたしに気づいて「ねえさん」とほほえむ。心の中では散々馬鹿にしても、あくまで淑女として振る舞うことが好きだったから。
シュウくんが指定した店は、モダンな外装の飲み屋だった。まだ建てられて新しいようで、洒落たガラス戸の中からオレンジ色の光が溢れている。
大学生らしき集団のなかに、真っ赤なダウンジャケットを発見した。
「のぞみん!」
集団全員がわたしを振り返った。だれも彼も、総じて若々しい。年齢的にはさして変わらないはずなのに、隔絶したものを感じる。
「え、本当に静のお姉さん?」「そっくりだね」と何人かがつぶやいた。
「そうそう。静ちゃんのお姉さんの、のぞみん。さ、店入ろうぜ」
シュウくんはわたしの背中を押して、店の中に入れた。二階のお座敷に案内される。こちらは一階より落ちついていて、まだ私たちしか居なかった。
勧められるまま奥の席に着くと、好奇心に満ちた視線がこれでもかと刺さるのを感じた。
「瓜二つって、こういうことを言うんだな」ななめ向かいの男の子が言った。
「静ちゃんだって言われても、おれ普通に信じちゃうわ」
「ちょっと」
隣の子がたしなめようとしたので、わたしは「大丈夫ですよ」と言った。
「もうだいぶ経っているし、今日は静の話も聞かせてほしいですから」
それは本当だった。外での静がどんな様子だったのか、純粋な興味があった。彼らは「もちろん」と、静のことを褒めはじめた。可愛くて、明るくて、素直だった。頭がきれて、勉強をしていないのが勿体ないくらいだった。ああ、それと。
わたしの知らない人間について話しているみたいだった。外面の良い子だったから、当然かもしれない。
ふと、知らなかったのは、わたしの方なのかもしれないと思った。知ろうともしなかった。
押し黙ったわたしに、彼らは気遣わし気な視線を送った。「ありがとう」と言うと、みんな骨が外れそうなくらいに首を横に振った。
一人が話題を変えようと「のぞみさんって、田宮さんの家に居候しているって本当ですか」と尋ねた。
タミを知っているのかと驚いていると、シュウくんが「タミさんは有名なんだって、オレ言ったでしょ」と口を出した。
「会ったことないですけど、田宮さんってあの人ですよね? 巨大トランプの人」
「いや、ババ抜き不敗の人だろ。本当か知らんけど」シュウくんの後輩らしき男の子たちがささやいた。
「どっちも正解。あと、不敗は本当」
部屋の隅で飲んでいた女性が、口を挟んだ。彼女の顔に、どこかで見覚えがあった。あごで切りそろえたショートヘアが、よく似合っている。
彼女は頬杖をついて「あたし達、タミさんは透視が出来るんじゃないかって思っていたくらいだもの」と笑った。
「なんですかそれ、超能力ですか」
「だってあたし達、年がら年中トランプしていたのに、あの人がババを引いたところ一回も見たことなかったのよ」
ようやく思いだした。シュウくんが見せてくれた写真に映っていた女性だ。たしか院生で、タミの二つ年下の後輩だった。彼女は木元早苗、と名乗った。
「えっと、タミと同じ時期に在学していたんですよね?」
「うん、そうよ。もしかしてあの人から、サークルの話とか聞いた?」
実際のところ、あの男はシュウくんが話題を出すまで、一切わたしに話をしなかった訳だが、それを彼女に言うとややこしくなる予感がした。
「そうですね」とぼかしてみると、彼女はにこりと笑った。なにも言わないので、
「木元さんは、院生なんですか?」と尋ねる。
「ええ。だからいい年こいて、若い子達と混ざって飲んでいるわけよ」
この大学の院生はハイスペックも良いところだが、彼女から威圧感や壁のようなものは感じなかった。写真から見受けられた以上のフランクさが、端々から滲んでいる。
「ねえ、あの人今どんな感じなの? あいかわらず、変なことしてる?」
「そうですね、変なことしかしていないですね」
彼女は豪快に笑いながら「だよねえ」と頷いた。
「学生の時もそうだったもん。急に俺は信仰にめざめました、とか言っちゃって。とうとう頭がおかしくなったんだなって思ったわ」
ビールと山盛りのフライドポテトが運ばれてきたので、いったん話は中断した。シュウくんの音頭で乾杯をする。大学生特有の、この雰囲気がなんとなく楽しかった。
「あ、それで」木元さんはすばやく話を戻した。
「タミさんは変な宗教にでもハマっちゃったのか、心の病気になっちゃったんじゃないかって心配していたんだけど、まあ杞憂だったんだよね」
「杞憂?」
「うん。つまりさ、信仰ってなんぞやって話がしたかっただけなのよ。対象が存在するからこその信仰でしょ。でも実際は、対象よりも信仰そのものが大事になることがある」
相当な間抜け面を披露していたのだろう。木元さんはくすくす笑って「よく分からないよね」と言った。
「えっと、正直。信仰そのものが大事ってことですか?」
彼女は宙に視線をおよがせて「そうね」とあごに手を当てた。考えるときの癖が一緒だ、と気づく。
「恋に恋する乙女って居るでしょ」彼女は良い思いつきをした人特有の、晴れやかなほほえみを浮かべていた。
「それと一緒だわね。好きな相手よりも、自分の恋のほうが大切になってしまうって、ままある話よ」
「よく分かります」と頷いた。「じゃあタミが、信仰にめざめたって言ったのは」
「わたし達に、それを言いたかっただけよ。あの人、教えたがりだから」
「たしかに、そうですね」
発言の数々を思いかえせば、知識自慢がほとんどだ。
「まあ、ここってそういう奴が多いけどね。あの人は急にピンとくるらしくて、ゲームの最中にぼんやりしはじめて、でも、なぜかババ抜きだけは勝つ」
ほんとむかつくよね、と言った彼女はどこか誇らしげだった。
シュウくんは初めこそ、チェリーボーイ諸君と会話させようとしたがったが、一時間も経った頃には目的なんてすっかり忘れて、素晴らしい勢いでジョッキを空けていた。
かくいうわたしも場の雰囲気に慣れて、会話を楽しむ余裕がうまれてきた。
「こうやって話すと、静ちゃんとは違うよな」
木元さんと同じく院生らしい吉岡さんが言った。
「のぞみちゃんは、なんていうか話しやすいし、女の子っぽい」
「あんた、それセクハラじゃない?」横から木元さんが突っ込む。
「ごめん、そういう意味じゃなくて。いや、そういう意味じゃない訳ではないんだけど、静ちゃんはさ、あれでけっこう男前な性格だったから」
よく言われることだったので「見ためは女子らしいから、そう思われがちですね」と同意する。
「うん。ふわふわした感じだなって思っていると、足元すくわれるんだよな」吉岡さんは懐かしむように目を細めた。「ポーカーで見事に騙されたこと、まだ思い出すよ」
「ああ、あと意外と大ざっぱで、タミさんが文句言っていたわよね。勝手に歯ブラシとか部屋に置いていってて」
木元さんは一瞬だけ表情をこわばらせた。気づかないふりをして「あの子、自分から攻めるタイプだから」と冗談めかして言った。
「しょっちゅう、べろべろになった静ちゃんを自宅まで送っていたよな。それで翌日、なんで自宅じゃなくて私の家に送っていくんだって怒っていた」
静は小さな部屋を借りて暮らしていたが、ほとんど私物が無かった。彼女にとって自分の家は、タミの居るアパートだったのだろう。
「ほんと、どうしようもない子ですみません」と謝ると、吉岡さんは「いやいや」と片手を振って、
「俺達にとっては妹みたいなものだったから。タミさんにばっかり懐いていたのは悔しかったけど、それも素直で可愛かったし」と言った。
木元さんが「そうね」と言いながらわたしを見て、一瞬とまどった。それで分かった。
この人は、きっと静のことが嫌いだった。
「あのとおりの性格ですから、なにか迷惑をかけたりしませんでしたか?」
彼女は正直だった。「ああ」と、思わずもれた声が明らかにした。
しかし焦った吉岡さんが「そういえば、のぞみちゃんは好きな人とかいないの?」と発言したことで、彼女の言葉はかき消えた。
木元さんは唐突な話題変更に少しだけ眉をよせたが、すぐに元の笑顔に戻って、
「迷惑どころか、よく通ってくれて助かっていたわよ」とだけ言った。
その言葉に含みを感じないほど、世間ずれはしていない。だが吉岡さんの様子を見るに、この場で話題を戻さないほうが良さそうだった。
「そうなんだ、よかったです」と、わたしもほほえみかえした。
なぜか、嘘の笑顔のほうが安心した。先程の気遣いの塊のような褒め称える言葉も、宮本さんの発言も嘘ではない。でも、わたしの知っているあの子ではない。
あの子を悪く思っている人と共感してしまうことが、とても醜いと知っている。それでもわたしの知らない静の話をされると、胸の奥がざわざわとして落ち着かない。
「ねえ、そうよ。シュウとの関係はどうなのよ? タミさんと同居しているってことは、あいつともほぼ同居みたいな感じでしょ」
木元さんは気持ちを切り替えたのか、明るく尋ねてきた。
「あいつ頭はおかしいけど、顔は悪くないでしょ。結構女の子にモテてね、このご時世にラブレターとか貰っているくらい」
「しっかり読んで、わざわざ返事書いたんだろ? シュウ、なんて書いたんだよアレ」
大声でクイーンの美しさについて語っている彼を宮本さんが呼ぶと、ジョッキを片手によたよたと近寄ってきた。へらへらしながら、「なんすか?」とわたしの横に座る。
「去年の夏くらいに、ラブレター貰っただろ。結局なんて返事書いたんだ?」
彼はぽかんとしていた。返事を書くなんて意外と誠実だと思っていたのだが、この様子だと忘れたらしい。
「どうせ、オレには彼女が居るからって返事書いたんでしょ?」
彼の言いそうなことを想像して口に出してみると「たぶん、そうだわ」とシュウくんは頷いた。胸ポケットを叩く。
宮本さんが「おまえ彼女居ないだろ。嘘つかなくても」と苦笑した。
シュウくんは胸ポケットから手を下ろして「それが一番、諦めつくじゃないすか」とにやりとする。
「いいよなあ。シュウみたいに顔が良けりゃ、俺だってもっと遊んだのに」
「あんたがモテない理由は、顔でも年でもないわよ」木元さんは軽蔑したような口ぶりだ。
「ええ、なんでだよ。のぞみちゃんも、そう思う?」
宮本さんが心外そうにしているので「そんなことないですけれど」と、定番の文句を言ってから、シュウくんを見た。少しだけ意趣がえしをしても良い。
「ただ、あんまり恋愛に興味がなさそうに見えるから、女の子が絡みにくいのかもしれないですね。でもシュウくんに彼女が居ないことを知っているくらいだから、本当は違うのかな」
ほほえみを向けると「まあ、興味ないやつは居ないでしょ」と、彼は少しだけ不愉快そうにした。自分から水をむけたくせにと思ったが、失礼だったかもしれない。
だが「それ、めっちゃ分かるわ」とシュウくんが爆笑したので、謝るタイミングを逸した。
「前から思ってましたけど、宮本さんって結構夢見がちっすよね。古典的な、男は男らしく女は女らしくって観念持ったまま育っちゃった系」
あからさまに失礼な言葉に、宮本さんは言い返そうと口を開いたが、
「さっきものぞみちゃんに対して女らしいとか言っていたしね。悪くはないけど、わりと時代錯誤よ、そういう褒め方」と木元さんも援護に入ったので、ついに不機嫌そうに席を外してしまった。
「やりすぎましたかね」と尋ねると、木元さんは「あいつ恋愛初心者だから、たまには耳に痛くても、生の声を聞かないと」と意地悪そうな笑みを作った。
「それより、のぞみちゃんって結構言うこというのね。そういう所、やっぱり双子だわ」
「だろ、のぞみんってこういう所、あるから」シュウくんは、わたしの肩にがっしりと腕をまわした。「オレ、ホントにのぞみんのこと好きだわ」
背中を痛いくらいに叩いてくる彼は、年の近い弟のようだった。昔、男兄弟が欲しいと思っていたけれど、彼のような弟だったら、きっと静と可愛がっただろう。
「まあ、シュウくんにはクイーンがいるから」と彼の背中を力いっぱい叩き返した。悲鳴をあげて、次の瞬間には腹を抱えて笑っている。
「やっぱり、こいつらにのぞみんはやれねえな」彼はおもむろに立ち上がって、両腕を天へと突きあげた。想像以上に気持ちが盛り上がっているのか、耳まで真っ赤に染まっている。
「シュウくん、水飲む?」空のコップを見せるが、まるで耳に入っていないらしく、仁王立ちになって「のぞみんは、タミさんのクイーンだからな!」と言い放つ。
「おーい、シュウ、戻ってこい」木元さんが手招きをするが、彼の熱弁は止まらない。
わたしの手を両手で握りしめ「オレにはクイーンしか居ないように、タミさんにはのぞみんが必要なんだ」と真剣に見つめてくる。
「すみません、お冷ひとつ」と、タイミングよく来た店員に注文をする。
「分かっていたけれど、今日でもっと分かった。オッケー、オレは間違えていない、そうだよな、のぞみん」
「うん、一回落ち着こう」
足がふらふらしていたので、着席させようとズボンを引っぱると、彼は「分かってない!」と腕を振りまわした。「のぞみんは、分かっていないぜ」
「分かっているって」更にズボンを引く。頑固なことに、足はぴくりとも動かない。
「タミさんは、のぞみんを待っていたんだよ」
顔を上げた。彼の目は、純粋に感動しているように見えた。
そんな目をされるようなことを、わたしはしていない。あの男が待っていたのは、わたしではない。彼にそう述べることは、出来なかった。
手が勢いあまって、するりと落ちた。
黒いヒョウ柄のパンツが現れた。空気が一瞬停止した。すね毛が生えた両足越しに、石像のように固まった諸君が、お尻を凝視している。
甲高い悲鳴をあげて、シュウくんが飛びのいた。爆笑が部屋を包み、木元さんが頭をはたく。「オレのせいじゃない!」という発言は聞いてもらえていなかった。
「のぞみちゃん」と木元さんが声をかけてきたのは、解散する直前だった。
連絡先を教えあって「今度は、ゆっくりとお茶しながら話しましょう?」とほほえまれる。
他のメンバーも、部室においでと誘ってくれた。トランプゲームに人数が多すぎるということはないそうだ。巨大トランプでスピード大会をしようと企画している彼らを見ていて、麻美と会っていたときの気持ちが消えていると気づく。
みんなと別れ、シュウくんと電車に乗りこんだ。
混みあった車内は、汗ばんだ匂いがする。学生時代は嫌でたまらなかった、この時間の車内も、一緒に乗っている人が居るだけでマシになる。
「シュウくんは、どうしてタミに懐いているの?」
彼は薄目を開けて、しばらくぼんやりとしていた。そして「話さなかったっけ?」と眠そうに目をこする。
「タミさんは命の恩人なの」
「なんだそりゃ」
うなって、姿勢を正す。目をぎゅっとつむって、少し正気に戻ったらしい顔で話し始めた。
「オレ、前は女の子と付きあってたのよ。大学入ったばっかの時だから、二年前くらいか」
「シュウくん、普通に女の子のこと好きになれたんだ」
「いや、好きかって言われると、微妙だわな」
彼は首を傾げて「付きあうもんだと思っていたんよ。女の子が可愛いとは思うし、一緒にデートとかすると、まあ楽しくない訳じゃないし」と言った。
「つまり、遊んでいたと」
彼は気まずそうに「まあ、そういうこと」と認めた。
「別に自分から引っ掛けたわけじゃないけど、うん。それで痛い目みたんだから、世話ないわな」
「二股かけて、刺されたの?」と冗談のつもりで言うと、頷かれてしまった。まさかと思ったが嘘をついているようには見えない。
「実際には脅されただけなんだけど、めっちゃ怖かったよ。すげえ怒っててさ、家に逃げた後も、鬼みたいに電話が掛かってきて。どうしようって思って、タミさんに相談したんよね。そこまで仲良かった訳じゃなかったんだけど、先輩からトラブルシュータ―だって聞いていたから、駄目元で」
タミの名前が年の離れた後輩から頼られるくらい知られていることに、複雑な気持ちになる。たしかに調停役として向いていそうだが、親切が過ぎる気がした。なので「修羅場に人を巻きこんだわけだ」と嫌味を言うと、彼はしゅんとしてしまった。
「ほんとに怖かったんだって…そしたらタミさんはすぐに家に来てくれて、代わりに電話に出て説得してくれんたんよ。ほんとあの時は、ああ神様だーって思ったわ」
彼は当時を思いだしたのか、手を組んで祈るような素振りをした。
「なんて説得したの? 包丁を持ち出すくらい怒っていたんでしょ」
「シュウはトランプに欲情する変態なので、あなたがクイーンの恰好をすれば更生するはずですって言ってた」
「よくそれで説得成功したわね」調停役に向いていそうだ、と思ったことを撤回する。
「タミさん、あのテンションでそういう感じのことを二時間くらい話続けたんよ。さすがに向こうも馬鹿馬鹿しくなったみたいで、なんとか別れてくれたっていう」
それはタミの功労だ。「ちゃんと今は反省したってこと?」と尋ねると、
「反省というか、タミさんに言われて気づいた」と頭をかいた。
「たしかにオレ、女の子よりクイーンの方が全然好きじゃんって」
駅に着いて、押し流されるように外に出た。外気に息がぼんやりと白くなる。
改札を通って一息ついてから、シュウくんは話し出した。
「さっきさ、のぞみん庇ってくれたっしょ。宮本さんがオレに彼女居ないって言ったとき。ちょっと顔しかめたから」
彼はありがとう、と言って無邪気に笑った。照れ臭かったので「なんだかモテなさそうな男のくせに偉そうだなって思ったから、意地悪しただけよ」と、性格の悪そうな事を言ってみる。
シュウくんは声を殺して笑いながら「のぞみん、良いやつだなって思った」と言った。
「とっくに気づいていると思っていたけど」
彼は胸ポケットからクイーンを取りだして「信じるやつ、少ないから」とつぶやく。
そうだろうな、と思った。わたしだって正真正銘、彼がハートのクイーンを愛しているとは信じがたい。たとえどんな時でもプラ加工した彼女を持ち歩いていようと、常日頃からその美しさについて語っていようと、クイーンはあくまで無機物なのだから。
「クイーンは、ガキの頃に道端で拾ったんよ。なぜか一枚だけ落ちていて、意味判らんかったけど、なんだか運命的に思えた。これって恋だろ?」彼は夢見るように語る。
「そんなの、わたしに聞かれたって分からないよ。シュウくんがそう思うなら、そうなんでしょ」
その答えはお気に召したらしく、彼は嬉しそうに「そうなんだよ」と頷いた。あんまりにもにこにこしているから「シュウくんにとってクイーンは、どういう存在なの」と尋ねた。
「もちろん、オレよりも大事な存在」と彼はためらいもなく答える。
「クイーンはシュウくんを愛する事はないのに?」
これは意地悪な質問かもしれなかった。だが彼は笑みを深めて、
「そんなの、人間だって同じことだぜ。愛されないから、もっと愛しちゃうんよ。充たされないかぎりは、永遠に好きでいられるじゃん」と言った。
「分かったような口きいて」
「タミさんの受け売りだもんね。好きになれねえモノを、無理やり好きにならなくてもいいんだって。たかが人間だし、たかが紙切れなんだから、どっち好きでいたって、別に関係ないんよ」
「どうせ、どっかの啓発書でも丸写ししたセリフじゃないの」
「それでもタミさんが言うから、価値があるんよ」
コンクリートに二人分の影が伸びていた。シュウくんの考えていることを全く理解できなかったが、それで良い気がした。少なくとも、彼とこうやって帰宅する時間は悪くない。
静も彼らの一員だったことに、改めて納得する。あの子は歩みよるような姿勢なんて、だれにも求めていなかった。
「静はさ」と言葉が滑りだしたのは、酔っていたからだと思う。
「この家に居て、とても楽しかっただろうね」
シュウくんは動揺したのか、すぐには答えなかった。
「楽しかったのかな」と言う声は、普段の彼からは考えられないくらい沈みこみ、今度はこちらが動揺する側になってしまった。彼は下を向いて、自分の影を踏みつけている。
「楽しかったのなら、なんで死んじゃったんかな」
不用意な発言をしたことを後悔した。いつも元気そうに振る舞っているが、彼はわたしよりも静と近い場所で生活をしていたのだ。
「いまだに、分からないんよ。最後に会ったときも、いつも通りだったし、どうして自殺なんて」
どうして、が反響する。もう口にしないと決めた言葉だ。ここでの生活を守る為に、不必要な言葉を、彼はたやすく口にする。
「あの子は」あまりにシュウ君が悲しそうな顔をするから、仕方がなかった。「自分のために、死んだんだよ」
影を踏みつける足は、軽やかすぎた。自分の妹の話をしているくせに、悲しみなんて沸いてこない。それくらい悲惨な環境だったのだと言い訳をしても、正体は分かっている。
わたしは、あの子を憎んでいる。
「それ、どういうことだよ」シュウくんは、不安げな顔で尋ねた。「自分のためって」
「自殺なんて、後に残される人のことを考えていない行為でしょう」
「のぞみん」彼が顔をこわばらせているのを見ないふりして、続ける。
「あの子、自分勝手だったもの。わたしがどれだけ苦労するかなんて、考えてなかったでしょうね。それに」
「ごめん、のぞみん」
荒げた声に、言葉を止める。彼は泣き出す寸前だった。
「静ちゃんのこと、悪く言っちゃダメだ」
言ってはならないことを、言ってしまったと思った。こぶしを握りしめている彼と向き合うことが辛くて、黙って歩き続けた。
家を手前にして、彼はぴたりと止まった。顔色を伺われている。
「のぞみん、あのさ」と、ためらいがちに話し出す。「ずっと聞いちゃダメなのかなって思っていたんだけど、聞いてもいい?」
「いいよ」と返したのは、罪悪感のせいだろうか。
「どうして、この家に来たんだ? 女の子が一人でこんな家に飛びこんで、きっと事情があるんだと思っているけどさ。でも、聞かせてほしい」
なんと返すべきか迷っていると、彼は神妙に話を続けた。
「もし、タミさんが静ちゃんを殺したんだと思っているんなら、間違いだぜ」
彼から、その言葉が出てくるとは思っていなかった。「どういうこと?」と問いかける。
「静ちゃんからタミさんのことを聞いていたなら、そう思っても不思議じゃないだろ。静ちゃんは、タミさんが大好きだったけど、付きあってはいなかった。あげく、タミさんには他に彼女が居た。いかにも怪しいよな。でも言っておくけど、それって男女の恋愛じゃないんよ」
彼は深呼吸をして、意を決したように、
「静ちゃんが居なくなって、一番傷ついていたのはタミさんだった」と言った。
「だから、オレはのぞみんが来てくれて、すごく助かったって思った。少なくとも、これでタミさんが壊れちゃうようなことはなくなったって。でも、のぞみんはそのつもりじゃないよな」シュウくんは普段から想像もつかないくらい、真っすぐに話す。
「のぞみんは、なんでここに来たんだ?」
その真剣な目を受け止めきれなくて「住む場所も仕事もなかったから」と答えた。半分は本当だ。残りの半分は、視線の外に逃がす。
「それはそうかもしれないけど、違うだろ。なあ、どうしても言えないことなのかよ」
困惑しているシュウくんは、年相応の男の子のように「どうして、タミさんの傍に居る?」と問いかける。
彼がこんなに不安に思っていたなんて、ちっとも気づかなかった。そしてその不安によって、わたしは静のふりをした異分子で、彼等の仲間ではないのだと思い知らされる。
ぼろぼろの階段を上がってはいけないような気がした。この家はおまえの家ではないのだと、崩れ落ちそうな屋根が話しかけてくる。
しかし「寒い」と独り言をつぶやいたのは、屋根でもシュウくんでもなかった。
「こんな寒い中で、何をむつみ合っているんですか」
階段が軋む。スウェットにコートを羽織っただけの姿で、わたし達を見下ろしている。
「タミさん」とシュウくんが気まずそうに言った。
「さっさと二人とも中に入ったらどうです」
とっさに声が出なかった。タミは手すりから身を乗り出して、
「夜食にお茶漬けが食べたいんですよ、家政婦さん」と呼びかけた。
シュウくんがわたしの背中を押した。
「寒い。のぞみん、早く行けって」と、もう一度押す。
階段を登る。タミはさっさと中に戻っていた。背後から「ごめん」と謝られたので、必死に首を横に振った。
部屋に入ると、滅茶苦茶にストーブの温度を上げているのか、暑すぎるくらいだった。タミは眠そうにあくびをしながら、パソコンに向かっている。
「おかえりなさい」の言葉を無視してキッチンに入る。手を洗って、腕まくりをした。冷蔵庫に鮭が入っていたのでグリルに突っ込む。お湯を沸かして、じっと待つ。そうでもしないと、馬鹿みたいに泣いてしまいそうだった。
鮭茶漬けを作って、ソファに座る。シュウくんはシャワーを浴びに行ったみたいだった。
タミは「どうも」と礼を言って、箸を手に取る。はふはふと熱そうに食べている。事故が起こらないように、パソコンをどかす。
「お茶漬けくらい、自分で作れるようにならないと」
舌を火傷したのか、顔をしかめる。
「ずっと、ここに居るわけじゃないんだから」
「羽を伸ばせとは言いましたけれど、どっかに飛んでいけとは言っていませんよ」
早口で言葉をさえぎられた。視線が合わない。お茶漬けはものすごいスピードで無くなっていく。そんな早食いをしたら、火傷をして当然だ。
「ありがとう」
先程の無視の仕返しか、彼はなにも言わなかった。




