2014年 4月21日
二〇一四年 四月二十一日
「時代の最先端は、闇鍋です。そう思いませんか、のぞみさん」
突拍子もない台詞だった。返事を待つことすらせず、田宮卓は続けた。
「本来食事とは、身体の生存のための行為であるがゆえに、快をともなうわけですが」
「はい」
「快を選択する自由さえも放棄し、あえて偶発的な食事をする行いそのものの快へと回帰している、非常に反逆的かつクリエイティビティな行いが闇鍋なんですよ」
「はあ、そうなんですか」
「闇鍋いいねえ」
ソファでくつろいでいた夏目さんは、読書の手を止めた。
「のぞみちゃん、闇鍋やったことあるかい? 俺、一度もないんだよ」
人生で闇鍋を経験した人がどれほど居るものだろう、と思いつつ「わたしもないですね」と答える。
「憲明も喜ぶだろうし、やろうか。シュウも、そういう意味の分からんこと大好きだし」
「ですよね。そうと決まったら、買い出しに行かなくては」
外を覗きこんで、顔をしかめる。
「夏目、悪いんですけれど、行ってきてくれませんか」
「別に構わんが、闇鍋なんて、なに買ってくればいいのか分からないぞ」
「のぞみさんが一緒に行きますから、大丈夫ですよ」
雨から顔を背け、彼はわたしに話しかけた。
「好きなもの買ってきてもらって、構いませんからね。よろしくお願いします」
財布をぽいと投げられて、動揺する。中を開くと、万札が何枚かとカードが入っている。田宮卓は任せきりにするつもりなのか、パソコンの前に戻っている。慣れない。生活費の管理はあなたに任せる、と言い切った彼に反発して、無駄だったことを思いだす。慇懃でありながら、意外と頑固な男なのだ。
「分かりましたけど、なにを買えばいいのか、わたしも分かりませんよ」
「大丈夫です。俺も分かりません」
「まあまあ、適当に買ってくればいいんだろ。よし、のぞみちゃん、行くか」
夏目さんは妙にやる気満々で、もう玄関に立っていた。財布を鞄にしっかりと入れて、わたしも出かける準備をする。
「いってらっしゃい」田宮卓が手を振るのに、軽く頭を下げる。ビニール傘を手に取って、外に出た。
階段をいち早くおりていた夏目さんは、半袖の腕をさすりながら「肌ざむいな」とつぶやいて歩き始めた。
「俺、意外と梅雨って好きなんだよ」と話しかけてくる彼は、わたしの歩調に合わせてくれている。「雨が降ると、いつもと違うことが起こりそうでワクワクしないか」
こんなおじさんがワクワクも何もないかと笑うので、曖昧にほほえんだ。
雨は嫌いだ。髪は広がるし、服は濡れる。でも彼は良い人だから、そんなことは言えなかった。
夏目さんと出会ったのは、わたしが田宮卓の家に特攻した、まさにその日だった。
あの会話が終わった後、とりあえず一旦おいとまするべきなのか、それとも更に会話を続けるべきなのか迷っていたら彼が帰ってきたのだ。
玄関を開けて、びっくり仰天という表情をした彼は、きっと静が生きかえったのかと一瞬疑ったに違いなかったが、すぐに状況を把握したのか礼儀正しくもてなしてくれた。
彼はどこからどう見ても、まともな大人だった。きちんとしすぎていて、明るさの死滅した田宮卓の部屋と不釣り合いだったし、彼が半同居人の一人だと聞いて余計に驚いた。
なぜこんな人が田宮卓と関わっているのか、予想もつかなかった。
「のぞみちゃん、よかったら晩飯食べていかないか?」と提案したのは彼だった。
わたしがやってきた経緯について、特別説明したわけではない。ただ、なにもかも察したように、今日の夕飯はカレーなのだと言った。
「なんか困ったこととか、タミのここが嫌だとかある?」
彼は雨音に負けないように、少しだけ声を張った。傘がぶつからないように距離を開けているので、わたしもいつもより声のトーンを上げる。
「大丈夫ですよ」ためらってから「心配ありがとうございます」と礼を言う。
「いや、タミは良い奴だが、意外と面倒くさいタチだろう。のぞみちゃんに迷惑かけていたら申し訳ないからね」
「転がりこんだのは、こっちですから。仕事もくれて、感謝の言葉だけじゃ足りないくらいです」これは本音だった。田宮卓はわたしに良くしすぎていると思う。
「のぞみちゃんは、しっかりしているよな」と、夏目さんは目を細める。「お姉さんだからかな」
決して含みのある言い方ではなかったが、予想だにしない言葉に顔色を変えてしまったのだろう。夏目さんはわたしの変化にすぐに気づき「すまん」と謝った。
「比べている訳ではなくて、いや、比べているのか」
申し訳なさそうにする彼に罪悪感を感じて「大丈夫ですよ、静に見えるでしょうし、実際そう思ってもらって」と言った。
「そんな失礼なこと出来ないな。のぞみちゃんは、静ちゃんとは違うよ」
夏目さんはそう言って、寂しそうにほほえんだ。
「でも、のぞみちゃんが居てくれて、本当に助かっている。憲明やシュウも顔には出さないけれど、ショックだったろうから」
彼は「これこそ、本当に失礼だな」とぼやいた。こんな良い人に複雑な問題を押し付けている自分が嫌になる。
だから「わたしはこの家に置いてもらって、とても助かっています」と真実だけを告げた。
「シュウくんも憲明くんも、あと真理子さんも、みんな良い人ですし優しくしてくれる。もちろん夏目さんも、とても良い人ですし」
「タミは?」と彼は笑った。「あいつは、まあ、ただの良い奴じゃないよな。自分で言ったことを、ひっくり返すようだけど」
「良い人だと思っていますよ、もちろん」と慌てて付け足す。「ただ、その、なんでわたしなんかを置いてくれるのか、いまだに疑問で」
「のぞみちゃんが、可愛いからじゃないかな」
彼はさらりと言って、ウィンクをした。純日本人なのに、彼は気障な仕草が似合う。どこか伊達男な雰囲気があって、今みたいなことを言ってもいやらしく聞こえないのだ。
「夏目さんって、モテそうですね」と感心すると、彼は「のぞみちゃんの、この返しには脈がないけどな」と苦笑した。
のんびりと歩を進める。夏目さんは今年で三十六歳らしいが、年齢以上の余裕を感じた。酸いも甘いも噛み分けた、大人の風格が漂っている。
「逆に夏目さんは、わたしが居て、なにか困ることとかありませんか?」
その余裕に甘えて、彼が正直に言う訳がないと知りながらも、そんな質問をした。
予想通り、彼は即様「いいこだなあって思っているよ」と答えてくれた。
「タミとシュウの奇想天外な発言にも引いていないし、憲明が生意気な口きいても、いつも構ってくれているだろ。のぞみちゃんくらいの年で、この家に馴染めるのはすごいと思うよ。真理子も、そう言っていた」
「最初は正直、とまどいましたけどね」
二週間前のことを思いだすと、笑いがこみあげてきた。
カレーは夏目さんが作ってくれたのだが、その間ずっと質問責めにあっていた。田宮卓と夏目さんは絶妙なコンビネーションで、人当たりのいい人事担当が行う面接みたいに、わたしから言葉を引きだしていたのだ。
話疲れて息もたえだえになっていると、ランドセルを背負った少年が部屋に入ってきた。初めの一言は「ああ、なるほど」である。「静ねえちゃんの、ねえちゃんか」と言ったときには、察しのよさに驚愕した。
そして、次に金髪のいかにもチャラそうな男が飛びこんできたときには、困惑はピークに達していた。その彼も、すぐにわたしが何者であるか気づき「あんた、のぞみちゃんか!」と嬉しそうにした。
最後に入ってきた女性なんて、わたしが目に入った途端、長い間離れていた娘と再会したかのように、わたしを抱きしめた。
その日の夕飯は、これまでの人生で、かつてないほど奇妙だった。
四人の男性と一人の女性は、わたしを興味深げに見ているが、その中には一切の悪意も、なにも感じられなかった。
あえて言うのならば、親戚同士の宴会に参加しているような妙な親近感を感じた。
向こうはわたしを知らないはずなのに、どこまでも親しげで、わたしが押しかけたことをなんとも思っていないようだった。
不思議だった。彼等は静と親しくしていたはずなのに、それに対する感情をなにも見せなかった。ただただ興味深そうな期待に満ちていて、親し気に、まるで家族のように振舞った。先程、夏目さんが彼等もショックだったのだと教えてくれたが、正直そんなことは微塵も感じられなかった。
もしかしたら、その時はあまりの衝撃に気づきようがなかったのかもしれない。会話を続けるうちに気づいたのだ。ここにいる人間は、みんな少しだけ普通からずれている。
シュウくんが胸ポケットから、プラ加工をしたハートのクイーンを取り出して「オレの彼女なんだ」と紹介してきたときは異次元に放りこまれたような気分になったし、夏目さんの嗜好にしたってそうだった。彼はいわゆる両方いける人で、家族が居ながらにして愛人が三人も居たのだ。
「静ちゃんは、俺のライバルだったんだよね」
夏目さんは、藪から棒に話し出した。
「ライバル?」
「うん、恋のライバル」
雨音が強すぎて、聞き間違えたのかと思った。
「俺、タミのことがずっと好きなんだよ」
もう雨音のせいにはできなかった。恐る恐る表情をうかがうと、彼は目を細めて、曇天の空を眺めていた。
「あいつが大学二年生のときかな。たまたま新宿のバーで意気投合したんだ。そのとき、際どい話もしていたからさ、あいつもそうなんだと思ってね」
彼は思いだし笑いを浮かべて、続けた。
「今でも覚えているよ。今日はいけるなって思って、ホテルに誘ったんだ。そしたら、あいつなんて言ったと思う?」
そういうパターンの話を、大学で散々聞いたつもりでいたが、実際に当人から話されると違うものだ。遠慮がちな気持ちと好奇心が入り混じって「分からないです」と馬鹿正直に答えた。
「『好きでもない人間と寝るのは、健康によくないですよ』って言って、コンビニで野菜ジュースを買ってくれた。しかも、一リットルペットボトルで」
生真面目な顔で、野菜ジュースのペットボトルを手渡す田宮卓を想像する。
「意味が分からんだろう。なんだこいつって思った上に、変な奴だが途方もなく優しい男なんだって気づいた。だけどあいつは間違っていた。一度好きになってしまうと、もう一緒には寝られないんだな……なんでだと思う?」
教師みたいに問いかけるので「相手を傷つける行為、だからですかね」と、真面目に答えた。
「それもあるね。だけど答えはもっと単純だ。怖いんだよ、嫌われるのが」
夏目さんは少年みたいにくしゃりと笑った。
「俺は相当遊んでいる方だと思うよ。でも、それとこれとは別でね。好きになるとさ、駄目になる。いつものように、振る舞えないんだ」
そう言ったわりに、彼は晴れやかな表情だった。
「好きになるって、こういうことだよなあって、あいつと居ると思うよ。こんなおっさんになってさ、青春の真似事をしているわけだ」
「静は、その青春のライバルだった?」
「うん。静ちゃんは、本当にタミが大好きだったな。しょっちゅう家に来ていたし、片時も離れたくないって感じだった」
彼は穏やかに続ける。
「怪我したときってさ、痛いだろ。痛いときってさ、だれかに傷を見てほしいだろ。あいつはその傷口を発見するのが、ものすごく上手いんだ。だから俺とか、シュウとか、静ちゃんみたいな子はどうしても惹きつけられるんだろうな」
「でも、夏目さんには」
憲明くんが居ますよね、という言葉は口にせずとも伝わったようだった。
彼は苦笑いで「そうだね」と頷いた。
「結婚して憲明が生まれて、思ったんだ。離婚しないと駄目だなって」一息ついて、続ける。
「向こうもそう思っていた。このままじゃ駄目になる気がしていたから」
「憲明は、その経緯を?」
「知っている。あいつが、必要以上に大人っぽくなっちゃったのは、そのせいだろうなあ」
夏目さんは後悔などしていなさそうに、そう言った。
スーパーで買い物をしている間、わたしはずっと上の空だった。夏目さんがあれやこれやと手当たり次第に食材をカゴに入れているのを見ながら、はたしてあの家に行ったことは正しかったのかと考えていた。
外の世界からあの部屋に来る彼等は、どこか妙だけど、とても優しい。
これまでの人生で会った人達とは違う、壁のない優しさだ。幸薄い女の子に向ける、腫物に触るような親切ではない。それが心地よいと思う回数が増えるたびに、冷めた部分が、これはわたしのものではないのだと水を差す。
この財布の重みも、夏目さんのカミングアウトも、田宮卓の投げやりなまでの信頼も、全てわたしのものではないのだ。
静に擬態したわたしに向けられている親切は、とても温かい。
帰り道、彼は「ありがとうな」とお礼を言ってくれた。
「あの家に馴染めているから、きっと大丈夫だろうと思っていたけれど、やっぱり勇気が必要だったよ。憲明のこととか、受け容れられないだろう?」
受け容れられているかと言われると、正直分からなかった。ただ彼は重いほうの袋をいとわずに持ってくれていて、そんな人を傷つける資格なんてわたしには無かった。
「わたしも同じようなものなので」と言うと、
「こんなどうしようもない親と、一緒ではないんじゃないかな」と返される。
「死んだ双子の妹が好きだった男の家に転がりこむことも、どうかしていますよ」
その言葉に「たしかに」と苦笑する。
「でも、来るんじゃないかって思っていたよ」
視線を感じた。傘からちらりと見えた彼の笑顔が、なにを意味しているのか把握は出来ない。「少なくとも、俺たちはのぞみちゃんが来ることを待ち望んでいた」
それは、静の代わりが欲しかったからだろうか。
夏目さんは雨霧の中に、なにかが見えているかのように、目を凝らした。
「とても酷いことを言うよ」
彼は言葉とは裏腹に、父親の笑みを見せた。
「俺は静ちゃんよりも、のぞみちゃんよりも、俺の家族と、田宮卓っていう男が大切なんだ。だから君がどういう意図で、この家に来ているかなんて知らない。ただ俺にとって重要なのは、君がここに居ることで奴が救われている事実だけ」
「救われている?」
「そうだよ。のぞみちゃんが来たことで、あいつは生きながらえているんだ」
どうして、と尋ねそうになった。夏目さんとの間でこの約束は存在しないはずなのに、言葉に出来なかった。
彼は「のぞみちゃんが来てくれてよかったよ」と繰り返した。
家に着くと、田宮卓は出たときと同じ姿勢で「おかえりなさい」と言った。
「闇鍋の具材はそろいましたか」
「まあ、一通りは」
財布を返すと、彼は中身を確認することもなく机の上に放りなげた。思わず「不用心じゃないですか?」と口を出す。
田宮卓はキーボードを叩きながら「盗る人もいませんし、大丈夫ですよ」と答えた。
「それより、のぞみさん。鍋取ってきてくれますか。キッチンの上の棚に入っていますから」
「おい、あんまりのぞみちゃんをあごで使うな。それに、それがあったら準備できないだろう」
夏目さんが机の上を指さして怒ると、彼は顔をしかめた。とっさに、ノートパソコンを両手で持ちあげる。
きょとんとされると、意外にも幼い表情をすると気づいた。夏目さんは、きっとこんな表情をする男だから恋をしているのだ、と思った。静もこの顔を見て、過ごしていたのだろう。
「ちょっとは動かないと、健康に悪いですよ」
夏目さんが背後で噴き出した。パソコンを閉じて、定位置であるタンスの上に戻す。
「なるほど」彼は数回まばたきをして、のっそりと立ち上がった。「まったく反論の余地がありませんね」
「そうだ、健康に悪い。きりきり動け」
肩をばしんと叩かれると「なにを嬉しそうに」と悪態をつきながら、キッチンに入る。並んで立つ二人の姿が、どことなく兄弟のように見えた。
夏目さんと目が合う。彼は手まねきをして「のぞみちゃん、これ切ってくれよ」と呼んだ。
わたしはためらわずに、狭いキッチンの中に入った。




