2014年 12月2日
二〇一四年 十二月二日
午前五時、わたし達は眠気でうつろな目をこすりながら、秋葉原に居た。十二月ともなると、まだこの時間は暗い。台風は夜中に通過したらしく、空気は湿度を含んでいるが、あと数時間後の青空を予感させている。
整備されたコンクリートを踏みしめた先に、ちらほらと人が並んでいた。
「もう並んでいるやつがいるのか」
夏目さんはあきらかに寒そうなトレンチコートに身を包んで、げんなりとしている。
「抽選開始って七時半からでしょ? 並んだからって当たるわけでもないのに、なんでこんな早朝から」
暗にこんな早く起きる必要はなかったのではないかと責めると、ひょうひょうと「早朝から四人も居れば、だれか一人は当たるかもしれないですよ」と返された。
「もし二つ以上当たったら、オレも貰っていいすか?」
シュウくんは寝起きでも、髪型だけはきっちりと決めている。
「今度出るソフトの初代、小学生の頃めっちゃやってたんすよね。なつかしいなあ」
「そうか、シュウはその時小学生か……」夏目さんが感傷にひたった様子で言った。
「夏目さんは、そのときもう三十過ぎくらいか」
「馬鹿を言え。たしか、二十三くらいだな。会社帰って、すぐにやっていた記憶がある」
携帯の画面を見ると、新作ゲーム機の発売情報がずらりと載っていた。
「あんたも、こういうのするの?」
こんなに寒いのにマフラーすら付けていないタミに問うと、
「昔はやりましたね」と震える声で返された。
「格闘ゲームってヒエラルキーの逆転が狙えるんですよ。足が遅くても、頭が悪くても、ゲームが強いとなれば、男子社会ではある程度の地位が築けるわけです」
「強かったの?」
タミは平然と「滅茶苦茶弱かったです」と答えた。
夏目さんがにやにやしながら「こいつアナログ専門だから」と言った。
「前にほら、やっただろう。バーにファミコン持っていってさ、負けたら罰ゲーム」
「負けた方が、タケルママに愛の告白ですよね。覚えていますよ。とっても喜んでくれて、嬉しかったです」
タミは薄闇の秋葉原を遠目で眺めている。聞かない方が良さそうだ。
「憲明はどれが欲しいんだっけ」と話題を変えると、夏目さんが画面の端を指さした。
「とりあえずソフトは手に入れられそうなんだが、ハードが無いと話にならないからな。まさか予約だけで、こんなに並ぶとは思わなかったが」
「本当は夏目がやりたいだけでしょう」とタミがぼやいた。
一時間後には長蛇の列になっていた。私たちの後方には、ざっと三十人ほどが並んでいる。そのほとんどが男性で、父親らしき年齢の人もちらほら居る。
「そういや、のぞみん。昨日見せそびれたやつ、見る?」
雑談の途中で、おもむろにシュウくんが手を叩いた。
「見せそびれたやつって」
「オレの紹介できる男子一覧」と携帯を掲げる。
「はいはい、童貞の諸君ね」と苦笑すると、
なぜか胸を張って「チェリーボーイを甘くみちゃ駄目だぜ、のぞみん。こいつらは紳士なんだ」と言われた。
画面にはサークルの集合写真が写っている。二十人くらいの男女が、居酒屋らしき店の前でピースサインをしている。シュウくんの言い分から、もっと高校生の余韻を残したような子が多いのだろうと思っていたら、意外にも垢ぬけた雰囲気だった。
「なんか、むかつく」思わず文句を言う。「偏差値高いくせして、ちゃらちゃらしてんじゃないわよ」
「え、なんだよそれ! 偏見だよ」と、わめく大学二年生を睨む。天才と馬鹿は紙一重を地で行くのが彼なのだ。
「頭も良くて、格好よくて、なんて許されないよ。せめて、チェリーボーイに甘んじてなさい」
「そういう偏見があるから、なかなか彼女が出来ないんだってば。意外に話すとフツーだし、絶対にのぞみんのお眼鏡にかなう奴が居ると思うぜ。ほら、けっこう顔イケてるっしょ?」
画面を指さしながら懐柔しようとしてくるが、両手をばつの形にして拒否した。
「やだ。絶対こいつ馬鹿だなあって見下してくる。同じくらいの偏差値がある女子を探しなよ」
「そうですよ、シュウ。もっと良い女性が居るでしょう」
タミが口を出してきた。
「のぞみさんみたいな女性は絶対に合いません。もっとこう、大人しく淑やかな女性を探すべきです」
「それはそれで腹が立つけれど、他を探した方が良いのは認める」
シュウくんは残念そうに「そんな事ないと思うけどな」と言った。
「のぞみん、こいつらと話合うと思うし、食わず嫌いは良くないぜ。頭も良い、顔も良い、そんなチェリーボーイを食うチャンス。これ逃すのありえない」
「そんな熟女みたいな趣味は持ってないよ。それに、みんながみんな、そういう訳じゃないでしょ? ほら、この二人とか付きあっているんじゃないの」
写真の一番右端で、仲むつまじげに身を寄せている男女を指す。他の子達よりも大人びた服装から上級生だと予想する。
「あ、違う。この二人は、院生の先輩なの。もう二十七とかじゃなかったっけ。付きあっているかどうかは知らないけど、ちょくちょく遊びにきてくれんだよね。こっちが吉岡先輩で、こっちが早苗先輩」
タミが「ああ」と頷いた。「あの人、まだサークルに顔出しているんですね」
「よくタミさんの話していますよ」
指さされた女性はショートカットが似合う、はつらつとした印象の美人だった。今年二十七歳ということは、タミより二つ年下、つまり彼が在学中の後輩ということになる。
「あれ、タミはシュウくんと同じサークルだったの?」
彼らが同じ大学であることは知っていたが、サークルでも先輩後輩関係だったとは初耳だった。シュウくんがタミの家に入り浸るようになった原因は、卒業してからの出来事が原因だと聞いていたので、在学中の話を聞いたことはなかった。
「のぞみん知らんかったっけ。そうだよ、タミさんめっちゃ強かったらしくて、いまだに語り草だから」
「伝説って、変人として?」
「だいぶ失礼ですよね」タミがむっとした顔で言いかえした。「これでも、在学中はサークルで一番強かったんですよ」
「オレもタミさんと戦いたいんだけど、もう顔出さないんすか?」
「院生の早苗とは訳が違うので。もう知っている後輩もいないのに、顔出してもうっとうしいだけでしょう」
「静ちゃんが居たときは、ちょくちょく遊びにきてくれてたのになあ」
列が動き始めた。気づいたら、空が明るくなっていた。腕時計を見ると、針は七時を指していた。
「意外と早かったな」夏目さんがほっとしたように言った。
店の前まで来ると、反対側にもうひとつの列が形成されていた。どうやら、運よく当選した人々はあちらに移動するようだ。彼等は待ちきれない様子で列をなしている。
「ああ、すまん。外れた」一番前に立っていた夏目さんが、残念そうに言った。次に並んでいたシュウくんも外れてしまったようだ。
「大変お待たせいたしました。こちらで、抽選をお願いします」差し出された画面には、スタートの文字があった。ボタンを押す。無心で待っていると、いつのまにか大きなバッテンが表示されていて、列から放り出されていた。
「ありゃ、のぞみんもダメだったか」
「こんなに並んでいたのに、外れるとがっかりするね。これだれも当たらなかったら、どうするのよ」
「大丈夫だよ」夏目さんがつぶやいた。「さすがタミ。天に味方されているな」
「これで、今年のクリスマスも安泰ですね」
当選券を片手に、自慢げな顔で店頭の列の最後尾へと歩いていく。
「ほんと、タミさんって持っているよなあ」シュウくんが感心したようにいった。「ああいうスター性ってやつ? オレも欲しいぜ」
「ねえ、シュウくん」
さっきから頭がぼんやりとしていて、うまく動いていなかったが、それでも抽選が外れたことよりも重要な発言があったことは覚えていた。
「静ってさ、シュウくんやタミが所属していたサークルに居たの?」
わたしの質問が唐突に感じられたのだろうか、彼は少し不思議そうにしながら、
「いや、所属はしていなかったぜ」と言った。
「うちのサークル、別にインカレじゃないし。たしかタミさんが遊びに来たのにくっついてきて、それからちょくちょく顔出すようになったんよね。静ちゃん、ああいうの意外と好きなタイプじゃん」
「そうだったかな」
「雰囲気はオジョウサマって感じだけど、実際は結構アツいタイプっつうか、ガンガンいく感じ」
最後に会ったときの静を思いうかべる。進学してからは、あまり顔を合わせなかったから、印象がぼんやりとしている。よく好んで着ていたのは、すその長いワンピースだった。
父が逮捕される前に、三人で出かけたことを思い出す。父は優しい人だったから、わたしも静も彼を悲しませないように、いがみあっている姿を見せないようにした。だけど、そう思えば思う程上手くいかないものだ。結局父は「なぜ双子なのに、仲良くできないんだ」とわたし達を責めた。
そう言った彼も、知らず知らずのうちに犯した罪のせいで、今は留置所だ。本当にろくなことが無い家族だと心底思う。
「そのとき、タミと静は付きあっていたの?」
たいして思考を巡らせることなく、言葉が口をついで出た。血の気が引く。店の前に居た列が消えているのを確認し、安堵の息を吐く。
「いや?」わたしの気持ちを察した様子もなく、シュウくんはあっけらかんと否定した。「静ちゃんは、だれとも付きあっていなかったと思うけど」
「ほんとう?」
「嘘ついてどうすんのさ。だいたい、そのときタミさんは他の人と付きあっていたし……」
「あ、そう」店から人が出てきた。「そうなんだ」
「なに、がっかりしてんの?」シュウくんはにやにやして、わたしの肩を小突いた。「意外とのぞみんって乙女だよな」
「そういうのじゃないよ、本当」小突き返して、冗談めかす。
心の中に巣食っていた疑問はひとつ解決し、新たな疑問が生まれた。
なぜタミは他の女性と交際していながら、静を家に入れていたのだろう。
その行為が果たして健全で正しいことなのか分からない。彼の性格上、恋愛感情抜きで静と関わっていた可能性も否めないが、静があの男を好いていて、その上で彼には他に交際していた人間が居るという事実をどう受け止めるべきなのか、分からなかった。
動揺を隠すために「モテるわよね、なぜか」と、軽口を叩いた。そうでもしないと、踏み込んではいけない所に足を伸ばしてしまいそうだった。
「今時って、ああいう男が流行っているのかな。ちょっと根暗そうで、引きこもりで」
「頭いいし、格好いいし、仕事出来るし、なによりめっちゃ優しいじゃん。オレが女だったらタミさんに求婚してるぜ」
「そりゃシュウくんは、そう思うだろうけど」
彼は狂信者ばりにタミに対して盲目なので、欠点も美点に見えるだろう。
話を聞いていたらしい夏目さんが「男と女じゃ、見ている部分も違うからな」と口を開いた。
「女性は現実的だろ。はじめは理想を追い求めていても、最後には冷静になる。相手の地位や、生活能力、結婚に向いているか否か。大事な観点だ」
「夏目さんが、男だ女だって話すの珍しいっすね」シュウくんは驚いたように言った。
「いつも、そういう差別は良くないって言っているのに」
「差別と区別は違うぞ。男でもそういった観点を持つ奴はいる。でも、女性は出産や育児をするパートナーとして、男性を選ぶからな。そういう傾向を持って当然だ」
彼は社会学の教授のように、こんこんと語った。
「これからの時代は、性差の正しい理解が重要になる。つまり、タミがモテる理由もここにあるわけだ。やつは内在的にはモテる、が、対外的にはダメだ。ただの引きこもりだ」
「やっぱり、ただの引きこもりですよね」
同意すると、彼は「ああ」と頷いた。「女性から見たら、あんな社交性の無い奴は嫌だろう」夏目さんは、わたしに視線を送った。
「ええ、もちろん」と返した言葉は出来レースだ。夏目さんの優しさに甘えて「どうして」という言葉を封じこめる。
「なんかそれ、嫌じゃないすか。オレはもっと、ロマンのある恋愛したいっす」
「そういう事を言っているから、いつまで経っても子供扱いなんじゃないか。恋愛と結婚は別だ。俺の発言だから、信憑性があるだろ」
「シュウくんにはクイーンが居るから、いいでしょ」
いつも彼の胸ポケットに収まっている女性について言及すると「クイーンは愛するための対象であって、愛されるための対象じゃないんよ」と否定した。
「でもシュウくんは、もし好きになってくれる人が現れても、クイーンが一番でしょう」
「そりゃ当然」彼は当然のことのように断言する。
「それってずるいよ。こっちはこんなに愛しているのにってなるよ、絶対」
きちんとした指摘をしたつもりだったのだが、彼は得意げに「それこそ、性差だな。男にこんなに愛しているのに、なんて言っちゃダメだぜ」と言った。
「どうしてよ」
シュウくんはにやにやして、
「男ってロマンチストなんよ。こんなに愛しているのに、なんで見返りがないのかなんて言ったら、無償の愛が否定されるっしょ?」
「夢を見せておいた方が、上手くいくってことですね」
振りかえる。タミは一仕事やりきったと言わんばかりの様子で、夏目さんに予約票を手渡した。
「一応ネットでも登録しましたけれど。夏目が持っていた方がいいでしょう」
「ありがとう。もしかしたら取りに行けないかもしれないから、そのときは頼むよ」
夏目さんは心底嬉しそうに、予約表を財布にしまった。
「それより、なんの話をしていたんですか」
「ううん、別にたいしたこと話していないよ」
シュウくんが話したそうにしていたので、早口で話を終わらせる。逆に疑心をあおったかもしれないと不安になるが、タミは「そうですか」と残念そうにするだけだ。
「じゃあ、俺はもう行くな」夏目さんが腕時計を確認して言った。「タミは今日、休みか?」
「実質は仕事ですね」
「それは、お疲れさん。今日遅くなるかもしれないから、憲明のことよろしく」
タミが「もちろんです」と片手を挙げると、夏目さんはハイタッチをした。
「もうこんな時間か。オレはどうするかなあ、講義出んの怠いんだけど」去っていく夏目さんを見て、シュウくんが頭をかいた。「でも今日飲みあるし、どうせ向こう行くなら一緒なんかな」
「飲みって、サークル?」
「そうだけど。あ、そうだ。のぞみんも来いよ。絶対楽しいから」
シュウくんは表情をころりと変えて、わたしの手を取った。
「チェリーボーイの指導とかは、ともかくとしてさ。たまには、のぞみんも外出た方がいいぜ。家の事ばっかやっていても疲れんだろ。たまには、ぱーっとさ」
「いやいや、わたしが行っても浮くよ。もう学生じゃないし」
学生の飲み会なんて行っても、気まずくなるだけだ。掴まれた手を払って、シュウくんの肩をぽんと押す。「ほら、学費払っているんだから、ちゃんと学校くらい行きなよ」
シュウくんは不服そうに「のぞみんが飲み会に来てくれるんなら」と言った。
「甘えたこと言わないの。またお母さんが心配して、札幌から出て来ちゃうよ」
「それは嫌だけどさあ……タミさんも、そう思うよな。たまにはのぞみんだって、羽伸ばすべきだよ」
話を振られたタミは、なんとも言えない顔をした。そして宙を一瞬見上げ「いいと思いますよ」とほほえんだ。
「そういえば、休みらしき休みもなかったわけですし。たまには、同年代の方と話されるのも良いかと思います」
「それは、わたしが要らないって言ったから」まさか同意するとは思わなかった。「べつに羽を伸ばす必要なんて」
「ほらほら、タミさんもこう言っていることだし。のぞみん、タミさんのこと言えないくらいには、家の周りから出ないんだから」
否定できなかった。あそこで生活を始めてからというものの、遠出をすることは避けていたのだ。タミは家政婦のようなわたしにお給料をくれていたし、それは充分な金額だったけれども、自分の娯楽に使うつもりには、てんでなれなかった。
それこそ最初の頃は家の食糧品や備品を買うお金に当てていたのだが、タミからそれは割に合わないと止められてからというものの、手を付けられないでいる。
「引きこもりは良くないぞ」と、シュウくんがわたしの台詞を真似た。
「もう、分かったよ。分かったけど、飲むだけだからね」
いつもタミに外に出ろと言っている手前、折れるしかなかった。
「やったね。それならそうと、みんなに言っとくわ。いい男揃えとくから、のぞみんもそのつもりで来いよ」
「だから、飲むだけだってば」と言うが、シュウくんは意に介さずに「お洒落してこいよな」とやる気に満ちあふれている。
「よし、そういうことなら、オレも行くわ。後でメールしとくけど、多分八時から新宿だから」
「分かったよ」しぶしぶ頷くと、シュウくんはわたしの片手を無理やり持ち上げて、痛いくらいのハイタッチをしてくれた。
「じゃあ、タミさん、オレ行くっす」
「はいはい、いってらっしゃい」
シュウくんは身軽に駅へと向かう。あっという間に、背中が離れていく。
「行かないとダメかなあ」と、ため息をつく。
「行ったほうがいいんじゃないですか、そろそろ」
冷めた声だった。驚いて彼の表情を確かめる。
「そろそろ?」
彼も自身の声色の低さに戸惑っていた。「なんでもありません」と歩きはじめる。
「なに、そろそろって」
答えがない。聞かない方が良いのだろうと思った。だが、先程夏目さんが抑えてくれていた禁句が胸中にはうずまいていた。
「ねえ」どうして、と口には出さない。言ってはいけない。
「なにか言いたいこと、あるんじゃないの」
それでも、このまま聞かなかったふりは出来なかった。
進路に先回りして道を塞ぐと、その行動は彼のなにかを刺激したようだった。わたしを迷惑そうに見て、「言いたいことなら、いくらでもありますよ。言っても構わないんですか?」と問う。
「そこまで言われて、やっぱりいいとは言えないよ」
背中が委縮する。普段は気づかないが、彼は年上の男で、社会人だ。わたしとは違う。
「なら、この際ですから言います。どうして、なにも調べようとしないんですか」
わたしとは違うから、約束だって簡単に破る。
「いつかは動きだすのだろう、と思っていたら、あなたときたら、ずっと大人しくしているだけ。なにを尋ねることもなく、探ることもない」
心拍数が上がっていく。「なんのこと?」と強がる。
「あなたは俺の家に居座る体で、静ちゃんの死因を、自殺の動機を調べにきたんじゃないんですか。なのに、なぜずっと行動もせず、安穏としているんです」
「そういうわけじゃないって、最初に言ったじゃない。それに」
言葉はさえぎられた。見えない壁が彼との間に出来ていた。そういえば、約束を最初に破ったのは、わたしの方だった。きっと彼は聞いていたのだ。どうして、言ってしまったんだろう。どうして、なんて。聞きたがりの子供みたいだ。
「それなら、なにを隠しているんですか?」
突きつけられた言葉は、きっと彼がずっと隠し続けていた「どうして」だった。
「家がないからって、こんな得体のしれない男の家に転がりこみますか? 俺に復讐するでもない、ただ居るだけで、あなたはなにがしたいんですか」
静かだが激しい詰問に、指が震えた。彼の顔が見えなかった。またいつかのように、謝ってしまいそうになった。ここにバニラアイスクリームはないし、それで許される期間はとっくに過ぎ去っている。
「わたしは」息を吸う。言うべきだ、と思った。それなのに声が出なかった。
午前中の秋葉原は、意外とサラリーマンが多い。立ち止まっているわたし達は、通勤中の彼らの邪魔だった。
右半身にバッグが思いきり当たって、よろけた。大きな手が肩を支える。見上げた先の、いつも通りの心配げな表情に、泣きそうになった。
「ごめん」また謝ってしまった。「その、迷惑なら、出て行くから」
「そういうことを言っている訳ではないと、分かるでしょう」タミは困り顔だった。
「あなたに出て行って欲しいなんて、思っていません。ただ不可解なんです、あなたは俺を」
電話が鳴った。タミはジーンズの後ろポケットから携帯を取り出し「はい」と電話に出た。
「憲明、どうかしましたか。学校は」
言葉が止まった。
「なるほど、わかりました。うん、大丈夫ですよ」と、柔らかい声で続ける。
「じゃあ、こうしましょう。十時に例の場所で。ひとりで行けますね? ええ、ええ。それでは、待っていますよ」
電話を切ったことを確認してから「憲明、どうかしたの?」と尋ねる。
「唐突に、校外学習です」彼は時計を見て、渋い顔をした。「時間ないですね」
タミはわたしを見て、良い思いつきをしたように顔を明るくした。
「走りましょう」
勝手に会話を打ち切ると、急に走りだした。慌てて後を追う。地下鉄の階段を駆けおりていくと、サラリーマンやOLが迷惑そうに避けた。
息も切れぎれで、電車に飛びこむ。ぎりぎりで扉がしまった。
「間にあいそうですね」額の汗をぬぐって「久しぶりに走りました」などと、さわやかに言った。
「そりゃあ、そうだろうね」
パソコンにかじりつく生活のくせに、やたらと足が速かった。脇腹の痛みに耐えながら「どこに行くつもりなの」と問いかける。
タミは笑顔で「動物園ですよ」と返した。言い間違えたのかと思ったが、訂正はない。
「なんで動物園?」
「校外学習です。憲明と、あなたの」
「わたしの?」
動物園でなにを学べというのだろうと考えていると、いきなり「俺は、あなたが殺しにきたのだろうと考えていたんです」と言った。
物騒な言葉に、車内の何人かがこちらを見た。唐突すぎる発言だった。
「なんで、わたしがそんな事しなくちゃいけないの」
彼は危険極まりない言葉とは裏腹に、穏やかな口調で、
「本当に、そうですよね」と言った。意味が分からない。
彼はそれきり話そうとはしなかった。意図の不明な発言だけが、胸をぐるぐると回っている。再び「どうして」という発言は禁句となって、わたし達の間をぶらぶらと漂っていた。
「動物園、好きですか?」またも唐突な発言に、
「べつに嫌いじゃないよ」と答える。
「それは良かった。月曜日の動物園はオツですよ」と満足気にした。あいかわらず疑問だらけなのだが、彼がいつもの表情に戻ったことに安心してしまうと、深入りした質問は出来なかった。
気まずい沈黙も景色があればマシになったのだろうが、扉の外はコンクリートだけだ。席が空いていたが、どちらも座らなかった。対面の男を眺めながら、考える事しかできない。
もし彼がわたしに殺されるべきだと思うくらい、憎しみを背負う理由があるのだとしたら、先ほどシュウくんから聞いた事が一番とっかかりになるだろう。つまり、恋人が居たのにも関わらず、静を家に入れていた理由。そして彼を好きだとわたしに告げた静が、死んだ理由だ。
どちらも謎のままでいいと思った。そんなこと、ちっとも知りたくない。
「のぞみさんは、動物は好きですか?」
ふと話しかけられた。タミはつまらない外の景色を眺めているのか、ガラス越しの自分を眺めているのか、判別つかなかった。少なくとも、窓に映った彼の顔面は、こちら側に意図を掴ませようとする気なんて全くなかった。
「嫌いじゃない、けど」
「好きではないんですね」と苦笑された。なんだか子供みたいな答えしかしていない気がして「あまり触った事がないのよ」と言い訳をする。
家は動物の世話をするどころではなかったし、動物園なんて片手で足りる回数ほどしか訪れた事がない。そう説明すると、
「なるほど。では、一番嫌いな動物は?」と質問された。
がたん、と車内が揺れた。既視感を感じる。わたしがよろけると、タミは一瞬手を伸ばして、すぐに引っ込めた。
「わざわざ、嫌いな動物を聞くんだ」
「ちなみに、俺は犬が苦手です」
「意外だね」
犬猫といった動物を苦手そうにしているイメージが沸かない。どちらかというと、ああいう生き物に好かれそうな雰囲気がある。
「だれにでも愛想が良いよりも、自分だけを好いてくれると嬉しいでしょう? つまり猫派なんです。そういうわけで、どの動物が苦手なんですか?」
何がどういうわけなのか知らないが、やたらと聞きたそうにしているので、
「猿が嫌いかな」と答えた。
タミは驚いているように見えたが、少しして「やっぱりそうなんですね」とつぶやいた。
「なに?」
「静ちゃんも、猿が嫌いだと言っていたので」
その言葉で、先程から感じていた既視感の正体を知った。同じような質問を、前にされていたのだ。
夕飯を食べながら、静はわたしに尋ねた。
「姉さんは嫌いな動物って聞いて、なにか思いつく?」
わたしはなんと答えたのだろうか。ただ、彼女がこれ以上ないほどの好奇心に目を輝かせていたことだけを覚えている。
「嫌いな動物って、自分の嫌いなところを表しているんですって」
そうだった、静は猿が嫌いだった。そして、おそらく昔のわたしは、嫌いじゃなかった。
絶望的な気分になりながらも、電車は進んでいく。タミはなにか思案にふけっていたし、わたしも自分が変わってしまったことに気づいて、話すどころではなかった。
ただ、ふと浮かんだ懸念については、どうしても言っておかなくてはいけない気がした。
「仕事いいの?」と尋ねると、タミは表情を凍らせた。納期を振り払うように頭を振り、
「二日ほど徹夜すれば間に合います」と自分に言い聞かせる。
「徹夜はダメだってば」
以前、徹夜三日目の真夜中にキッチンで倒れて頭を打って以来、禁止している。
タミは悲しそうに「のぞみさんが体調管理してくれるでしょう? それなら大丈夫ですよ」と言った。
なにも答えられなかった。時折カサノバみたいなことを言うこの男が、一番嫌いだと思った。そして、猿よりも嫌いな生物が彼であることに安心した。




