2014年 12月1日
二〇一四年 十二月一日
今日は比較的安全な食べ物に当たったようだ。鍋の底にこびりついているグミの残滓を確認して、そう思った。スポンジでこするのを諦めて、アルミたわしに切りかえる。
「のぞみちゃん、なにか手伝うことある?」
夏目さんは最後に食したグミの固まりが胃の中にあるようで、少し顔色が悪い。
「鍋を片づけちゃったら終わりなので、大丈夫ですよ。冷凍庫の中にアイスが入っていますから、よかったら食べてください」
シュウくんが「アイスあんの?」と、キッチンに入ってきた。「俺も食べていい?」
「バニラ、持ってきてください」
憲明の宿題をみていたタミが、会話に割りこんだ。シュウくんは「わかりました!」と元気よく答えて、三人分のアイスとスプーンを持っていった。
「いつもありがとう」と、夏目さんがこっそりと言った。
「いえ、これでお金貰っているので。当たり前ですよ」
洗い終わった鍋の水気を拭きながら、笑いかえす。
キッチンを出ると、学校の教科書とノートを囲んで、なにやらシュウくんが熱弁していた。どうせまたトランプの話なので、憲明とタミはうなずきながらも一心不乱にアイスを食べているだけだ。彼等の横に座って、わたしもアイスのふたを開けた。白い面に、くぼんだ模様が出来ている。
「バニラアイス占いというのがありまして」
タミがこちらを覗きこんだ。すでに一個、空にしたようだ。
「くぼみが上のほうにあった場合は、吉兆。下のほうにあった場合は凶兆とされています」
アイスのくぼみは、右下からうずを描く途中で止まったように、左上へとのびていた。
「将来的な不安、過去からの負債が襲ってくるという解釈がとれますね」
「それ、バニラアイスじゃなきゃダメなの?」
タミは「もちろん、そうですよ」と言って、アイスの表面をごっそりスプーンですくいとった。「占い結果に満足できない場合は、人にそれを食べていただくと良いのです。運勢を人に押しつけるわけですね」
憲明が呆れた目でわたし達を見ている。その視線が向かうべき先は横の男であって、わたしではないはずなのだが。
「のぞみって馬鹿だな」
「うるさいなあ」
話を聞いてもらっていないことに、一向に気づいていなかったシュウくんだったが「人を馬鹿にするのはよくないぜ、憲明」といましめた。
「のぞみんは料理洗濯掃除、完璧なんだぜ? いいお嫁さんになるって、オレ保証するよ」
「そりゃどうも」
正直なところ、彼にフォローされても嬉しくない。
「スペードのエースのところに、嫁に入ってほしいくらいだよ。こいつ最近色気づいたみたいで、クイーンを性的な目で見やがるんだ」
どこの次元で、紙媒体であるトランプのスペードのエースが、ハートのクイーンを性的な目で見るのだろうと思ったが、それは口には出さない。彼にとって、トランプはめくるめくロマンスの舞台なのだ。
「性的な目で見るって言えば、憲明は彼女できねえの? あ、もしかして好きな子でも居んのか。どういうタイプ? 可愛い系か、セクシー系か」
憲明はシュウくんを胡乱気に見上げ、
「居るわけねえじゃん。シュウ兄みたいに暇じゃないから、おれ」
「へえ、結局居ないんだ」
まあ小学生だもんねとつぶやくと、小学四年生の男子児童にジト目で睨まれた。
「のぞみこそ、彼氏作んないのかよ。母ちゃんが言ってたぜ、女は男が居なくなると一か月でアジの干物みたいになっちゃうって」
息子になんてことを教えているんだろう。美しいかんばせを持つ、憲明の母親を思いうかべる。なにかと生意気な彼の恋愛方面の知識は、あきらかに彼女が原因だ。
「なんだ、連れがほしいなら、だれか紹介しようか?」
息子のデリケートな話題にもひるまず、夏目さんが口を挟んだ。
「憲明はともかく、今時女の子も男の子もシャイだからね。俺みたいなおっさんとしてはお節介を焼きたくなるな。のぞみちゃんは、男と女どっちがいいんだっけ?」
細めた目から、あまりにも純粋な親切心が見てとれる。「大丈夫です」という言葉も歯切れが悪くなった。
「夏目が紹介する方々と、のぞみさんみたいな一般人が合うかどうかのほうが、気になりますね」とタミが言うと、
「おいおい、心配しなくても病気は持っていないぞ。みんな検査には熱心だからな」と彼は明るく答えた。心配している点はそこではないのだが、それも口にはしなかった。彼は親切で言っているのだ。
「そうですね、困ったら夏目さんに頼もうかな」
「もちろん。もし紹介してほしかったら、いつでも言ってくれ」
多分一生お世話にはならないだろうが、ここは頷いておく。
シュウくんが「そうだ」と名案を思いついたとばかりに、手を叩いた。
「なあなあ、のぞみんさ、彼氏居ないなら、オレの友達にちょっと手ほどきしてやってよ」
彼はこの家でタミと甲乙つけがたい変人なので、こういった思いつきは大抵常人の思考とかけ離れている。
「手ほどきって、わたし、そんなに恋愛慣れしていないよ」とかわそうとすると、彼は「いやいや、相手は童貞だから大丈夫」と答えた。
「なにも大丈夫じゃないよね、それ」
「なんか知らねえけど、オレの周り、童貞こじらせた奴ばっかりでさ。付きあわなくてもいいから、デートとかして女慣れさせてやってくんね?」
「おい、シュウ。そういう言い方はのぞみちゃんに失礼じゃないか?」
夏目さんは常識人らしきことを言ったが、この問題の本質が言い方にあるのかというと少々疑問だ。タミはとっくに興味を失ったのか、憲明の算数の教科書をぺらぺらとめくって「この新教育要領って、必要なんですかね」と独りごちている。
「言い方はともかく、デートは嫌かな。彼氏が居なくても、デートの相手を選ぶ権利くらいあるでしょ」
やっぱりデートをするならば、スマートな男性としたいと思うのが女心である。童貞の友人には、個人的に頑張ってもらうしかない。
「ああ、イケメンだったらオーケーってことか。そりゃそうだよな。いま写真出すわ」
いまいち意図が通じていないシュウくんが携帯をいじるのを、馬鹿にした目つきで見ながら、憲明が口を開いた。「そんなに彼氏とか彼女とか欲しいのかよ。よごれてんな、おまえら」
「なんだよ、憲明は欲しくないのかよ」と、シュウくんは唇をとがらせる。
「そういうのって、自然発生的に生まれるものだろ。そうですよね、タミさん」
話を振られたタミは、どう見ても心ここにあらずのまま「そうですね」と言った。
「好きなもの、つまり存在が個人における快となるべく定められた個体というのは、無理やり発見しうるものではありません。彼氏、彼女などの役割も、これを曖昧化させる基準と化していますし、個人的には不必要なものかと……そうですね、大切なのは、シンパシー。そう、シンパシーですよ、憲明」
憲明はそれこそ恋する乙女のようにタミを見上げて「シンパシー、すばらしい」とつぶやいた。
いまの発言の一ミリも理解できなかったが、ただただこの子の将来が不安である。しかし、夏目さんが優しげな顔でこの光景を見守っているので、口を出すわけにもいかない。
憲明は父親が離婚してからというもの、ここにちょくちょく預けられている。親権を持っている夏目さんが仕事で忙しい為、友人であるタミが学童保育の代わりとして彼を預かる事になったらしいと、本人から聞いた。
タミに懐いている憲明を見ていると、父親として夏目さんは正しい選択をしたのだろうと思う。わたしから見ても、憲明は他の子達と簡単になじめるような子ではない。
「タミさん、シンパシーというのは、どうすれば感じられるものなのでしょうか」
「そうですねえ。まず、心を豊かにすることです。固定観念に捉われず、広く物事を顧みて、自分の脳みそで考えるクセをつけておけば、いずれ憲明にもビビビッとくるタイミングが……」
タミが適当な説明をしていると「あ、それめっちゃ分かるわ。オレもクイーンと出会ったとき、超ビビビビビビッてきたもん」と、シュウくんが身を乗り出した。タミは彼の頭を押さえつけながら「こういうことです」と言った。
「つまり、憲明がそうだと考えるように自然に生きていれば、いつかシンパシーを感じるときが来るということです」
憲明はその言葉を胸に刻んだかのように、しきりに頷いた。
机の上にからっぽのアイスが置いてあるのを見かねて、ゴミ箱に捨てにいく。まだ彼氏がどうとか彼女がどうとか話している。
この話題になるたびに彼等と静の関係を思いだすのだが、夏目さんもシュウくんも、そしてタミも、決して気まずそうな顔をしなかった。ただの馬鹿話のように語っては、なんの結論もなく話は終わる。
かといって静の話題をタブーのように扱っているわけではなく、みんな当たり前のように、かつて居たメンバーとして彼女の話を持ちだすときもある。のぞみちゃんと静ちゃんの違いについて、なんて話を何気なく夏目さんが話題にしたときは驚いたものだ。
ここで暮らす日々が重なるにつれて、平凡をよそおった生活に慣れていく自分がいた。
静を殺したと主張する男と、その取りまきは、この半年間わたしを陥れようとすることも、のけものにすることもなく、当然のように受けいれた。
どうして、と尋ねることは、やはり出来なかった。
みんなで隠し立てをするでもなく、悲しむでもなく、余計な思いわずらいから解放されている。
わたしを静だと思ってくれているのですか。そう問いたくなるのを、ぐっとこらえる。
彼らは本当に良くしてくれていて、それでもたまにこうやって遠巻きにしたくなるのは、この人たちが真実に、わたしを静とみなしているのか不思議に思うからだ。
それは、ジャングルジムに登らなかった静の気持ちと一緒なのかもしれない。双子は区別がつかないから、あえて登らない。死んだ女だと思いこめ、なんて無茶な願いをしているというのに、我ながらわがままだった。
「のぞみさん、どうかしましたか」
キッチンの入口で立ちすくんでいるわたしに、タミは今さっき気付いたかのように声を掛けた。先程から視線を感じていたことは指摘しない。
「もしかして彼氏が出来ない件について、立ちすくんでしまうほどに悩んでいるのですか。それならそうと言ってくだされば、協力してあげますよ」
どこまで見透かしているのだろう。あんたは静と付きあっていたんじゃないの、と心の中で尋ねてみる。
「俺にも人脈というものがありますから。袖の長すぎず短すぎない、ぴたりとくる一人を紹介してさしあげます」
まるで年の離れた従妹に、自分の人脈を自慢するかのようだ。
「あんたの知りあいなんて嫌だよ」
鼻で笑いとばす。そうする以外にどんな顔をすればいいのか、分からなかった。
禁止されずとも、もうわたしはどうしてとは言えない。それを口にすることで、この日々が壊れてしまうのなら、疑問符なんて燃えるゴミの日に捨ててしまえばいい。




