2014年 4月7日
二〇一四年 四月七日
彼との出会いは、今年の春だった。
駅前に咲く桜のそばを、きょろきょろしながら歩いていた記憶がある。人生で初めて降りた駅は栄えていたけれど、地図に書かれた場所は住宅街のど真ん中だった。
しんみりと建っている古いアパートを見上げて、こんな場所に神様を名乗るやつが住んでいるとは、どういう了見なのだろうと考えたものだ。
おそれ多くも神を名乗っているのだから、もっと立派な場所で風呂敷を広げればいいのに、と考えたその一方で、あえてわざとらしくしない為に、こんな都内のすみで宗教家をやっているのかもしれないと思った。
ぎしぎしうるさい階段を上がって、一番奥の部屋の前に立つ。表札に田宮と書かれていた。本当にここで合っているのか、メモを見て確かめる。
深呼吸をしてチャイムを鳴らした。十秒後、現れた男は春のうららかな陽気に似合わない、毛玉だらけのスウェットを着ていた。完全な寝起きだった。
あんまりにもあんまりな姿だったので、住所を間違えたかとメモを見直す。だが、記された住所は間違えてなどいない。
しばらく男と見つめあった。
彼はしばらく呆然としていた。それは当然の事だった。目を見開いている男は、すらりとしている、と言えば聞こえが良いが、肩は薄く、肌も青白かった。ある種、浮世離れしたような立ち姿が、なるほど、わたしの好みだ。
納得してしまったので、不用意な発言は、冷静な心づもりで転げおちた。
「あの、あなたが神ですか?」
春風の音が寒々しく響いた。男は唖然としていた。廊下にほこりが舞って、くしゃみをした。鼻水をすすったあとに「あー」と、やっと声を発した。
「たしかに、その、俺が神ですけど」奥歯に物が挟まったような口ぶりだ。
「はあ、やっぱり」
頭がおかしいんだな、と思ったことが顔に出たのだろう。彼はどこか戸惑いがちに、
「静ちゃんのお姉さんですよね?」と尋ねた。
首をかしげて、顔をまじまじと見つめられる。
「よく似ていますね」と囁くようにつぶやかれた言葉は、生まれてから何百回も言われたような感想だ。
本当にのぞみちゃんと静ちゃんはそっくりね、なんてみんなが嬉しそうにする事を、わたしも静も決して喜ばしく思ってはいなかった。
どこかに蒸発した母親も、高校一年生のときに詐欺で捕まった父もそうだ。わたし達を見ると、誰もがその類似性にだけ興味を持つ。
「まあ……双子なんで」
口にした言葉は、想像以上に小さかった。
男は観察するようにわたしを眺め、すっと身を引いた。
「片付いていないですけれど」
さびついた扉が大きく開かれる。向こう側は暗かった。扉を支えている手のひらが、とても大きい事に気づく。この手で首を思いきり締められたら、なんて想像して背筋がざわついた。
怯えを顔の裏側にしまいこみ「おじゃまします」と言って、横を通りすぎる。
玄関は異常に陽当たりが悪く、薄暗かった。
彼の後を着いていく途中、廊下をすぐ左に曲がった所に、小さなキッチンが見えた。冷蔵庫にはメモが貼られていて、そのままにしてある洗いものも見えた。
リビングは玄関よりは明るかったが、部屋の半分は影が占めていた。中央に安っぽい丸テーブルがちょこんと置いてあって、彼はその横にあるソファを勧めると、どこかへ立ち去ってしまった。
ソファに腰かけ、部屋を見回す。物が多く、統一性が感じられない部屋だった。
書棚には理系御用達らしき題名の専門書がぎっしりと詰まっているが、下の段には何故か算数のドリルと漢字練習帳が収まっている。その横にはスケッチブックと、ダンベルが落ちていて、ベランダに置かれている花壇には白いチューリップが咲いていた。テーブルにはノートパソコンと文庫本が二冊、そしてトランプが無造作に置かれている。
「たいしたもてなしも出来ないのですが」戻ってきた彼の手には、二つのティーカップがあった。そっと机に置きながら、わたしの視線をたどって、
「汚くて申し訳ないです」と言う。
「ああ、いえ」行儀の悪さをたしなめられたような気がして、気まずくなる。
彼はフローリングの上にあぐらをかいて、紅茶をすすった。カップのふちの、妙に華奢な装飾がこの部屋から浮いている。どこか女性の影を感じさせるこのカップを選んだ真意が知りたかった。単にこれしかカップが無い可能性もあるが、まさか水もコーラもこれで飲むわけではないだろう。
そんな事を考えていると、わたしが手をつけない事を気に留めたのか、彼は「紅茶はお嫌いでしたか」と尋ねた。その言い方が妙に親切そうだったので、思わず礼儀正しく「そんな事はありません」と否定し、紅茶に口をつけてしまった。安物ではない香りがした
「おいしいです」と感想を述べると、彼はわずかにほほえんだ。
しばらくお茶会のような穏やかな時間が流れた。口を開くべきか否か迷っていると、ふいに「静ちゃんは」と、向こうが切りだした。
「俺のことを、タミだと紹介したんですか?」
ゆっくりと、明確な発音だった。視線に、緊張のようなものを感じた。
「たしかに神だと言っていましたけど」
「なるほど」
彼は視線を窓に向けて、しばらく黙っていた。
自分が神だと紹介されることに、なにか問題があるのだろうか。勧誘の方向性として、初めから「俺が神だ」と判明していると、不都合があるのかもしれない。宗教団体の方針なんてまるで知らないが、最初から不都合な事実を知っている状態で遭遇する事は、ひょっとして良くなかったのかもしれない、などと考えを巡らせていたが、次に発せられた言葉で、たいへんな勘違いであることが分かった。
「それなら、改めまして自己紹介をさせて頂きますと、田宮卓と申します。静ちゃん言うところの、タミですね」
「タミ」と繰り返す。神ではなく、タミ。
「友人しかこのあだ名では呼びませんので、さっきは驚いてしまいましたが、静ちゃんがそのように親近感をもって紹介してくれていたとは、ありがたい事です」
滑舌に問題が無さそうな田宮卓さんは、頭をぽりぽりかいた。
「タミなんて、奇妙なあだ名だと思われるでしょう」
「あ、そんな。いえ、良いあだ名かと」
咳払いをして恥ずかしさをごまかした。むなしい。「タミ」と「神」なんて、紛らわしい事この上ない。
だが、確かにあの日の静は、舌ったらずだった。
居酒屋の騒音のなかで、頬を真っ赤に染めあげた彼女は、きらきらとしていた。
ジョッキを片手に夢見るような心地で、口を開く。
「あたしね、ねえさん。すきなひとができたの。そのひと、神っていうのよ」
そのときのわたしは同じ顔の女から怪しさ満点の言葉が出てきたのはもちろん、彼女がこれまでの人生で一度も見たことのない表情をしていたのにも仰天していた。
母親が三つの頃に蒸発し、それきり行方知らずだったせいか、静は昔から相当変わっていた。わたしが平凡すぎたから、よりそう思えたのかもしれない。頭が良く機転に満ちていたが、勉強が大嫌いでいつも妙な事に関心を持っていた。
みんなでジャングルジムで遊ぶとき、静はいつもブランコに乗って、遠巻きにそれを眺めていた。誘っても首を横に振って「見ているほうが楽しい」とのたまうのだ。
「その人ね、すっごい変わっているの。自分が神様だと思ってるのよ。ねえ、笑えるでしょ」
それは変わっているなんてものではなくて、単に頭のおかしな人ではないだろうかと思ったが、どうせ冗談だろうとわたしも笑っていたような気がする。
「でも神様だから、あたしのこと、きっと助けてくれるのよ。いいでしょう」
それが、たしか二年前の春のことだ。
去年の冬、神崎静は自宅のバスルームで発見された。会社に出勤してこない上に、電話にも出なかったことを不信に思った同僚が発見したそうだ。
わたしは静の死体を確認しなかったが、死因は手首の動脈を切ったことによる出血死だと言われた。解剖によると、体内に残留していた睡眠薬と、現場の物証、手首の傷があきらかに自身で付けたものであったことから、自殺であると断定された。
葬式に参列したのは、わたしと、彼女が働いていた保険会社の同僚、五人ほどの友人達だった。白い布が被さった、あの箱の中身をわたしはついに見なかった。
静が死んだことに動揺しなかったのは、それが理由なのだろうか。
学寮の寮母さんが泡をくって、電話の子機を渡してきたときを思いだす。
「落ち着いてね、のぞみちゃん。落ちついて」と、まるでわたしが今にも発狂するのではないかと言わんばかりの対応だった。実際のところ、発狂はしなかった。
だが一か月後、事故物件になったアパートの訴訟について文書が届き、あまつさえ内定先の小さな不動産会社が脱税で摘発されたニュースを観たときは、いち早く線路に飛びこむべきなのかもしれないと思った。
親戚たちが僅かに援助してくれていたお金は、残り三か月を切ったわたしの学費にすでに消え、ささやかな葬式代とお墓でぴったり残高ゼロになっていた。
アパートの大家さんは私の身の上に同情してくれてはいたが、物件ひとつが駄目になった悲しみと、唯一の身内を失った悲しみ、どちらが優遇されるべきだなんて主張する元気は、そのときのわたしにはなかった。泣く泣く新生活に使うはずだった貯金をすべて手渡し、わたしは身一つになった。
行き先の決まらないわたしを抱きしめて、寮母さんは泣きながら話した。
「のぞみちゃん、きっと今はとっても辛いでしょうけれど。でも、大丈夫よ。神様は乗りこえられない試練を与えはしないって、言うでしょう。妹さんの分まで、あなたは生きなくては」
そのヒロイックな発言の代わりにお金と居場所と仕事が欲しいと思った、わたしの不遜な感情は幸いにも一つの事実を思いだした。つまり、自分は神様なんてちっとも信じていないが、静は違ったということだ。
わたしの脳みそが、あの居酒屋での彼女を思いだした。静が足しげく通っていた家の家主、あの子の神様。彼が助けてくれるのではないかと、特に感慨もなく思った。
わたしがそれを知りたいことを先回りして読んでいたみたいに、静の手帳には神様の家の住所が記述されていた。
「どういった御用ですか、などと聞くのは野暮かもしれませんが。静ちゃんのことを聞きに来られたのですよね」
田宮卓は宙を見上げて、考え事をしているようだった。
「彼女が、ここに出入りしていたと聞いたのでしょう」
わたしは黙ってうなずいた。
「俺が殺したと、疑っていらっしゃるんですね」
わたしは黙ってうなずいた後に、物騒な発言に顔を上げた。
「はい?」
「俺が静ちゃんを殺した、と疑っているんでしょう。正解です」
彼は真顔で「俺が彼女を殺しました」と言った。
無機物のかたまりみたいな台詞は、殺風景な部屋をすっかり無音にしてしまった。
口の中のツバを、これまでの人生でどうやって飲みこんでいたのか、思い出そうとする。呼吸の仕方、まばたきの仕方、いろんなやり方が、すっぽり体の中から抜け落ちていた。
彼はじっとわたしを見ていた。殺した女と同じ顔をした人間が訪ねてくると、どのような気持ちになるのだろう。普通の人間なら、おかしくなってしまうに違いない。
「あの、本当ですか」
彼は少し戸惑った様子だったが、神妙な顔で「本当です」と言った。
「俺が静ちゃんを殺しました。ですので、あなたには俺をどのようにでも扱う権利がある」
まるで不動産の権利について話しているみたいだった。
「生かすも殺すも、あなた次第です。なんでも致しますし、今この場で死ねというのなら、そうします」
ふと、この男の声が中学生のとき、好きだった数学の先生の声によく似ていると気づいた。落ちつきはらっているが、どこか危うげな声。確定的な物に縋る、不安定な人の声だ。
静はこの声に惹かれたのだろうか。
声が止まった。彼は困り顔で、反応の薄いわたしを訝しんでいるようだった。それで分かった。この男は変わり者のようだが、少なくとも隠し事をするだけの能はある。
「静とわたしは、一卵性の双子なんですけれど」
「ええ、存じ上げておりますが」
視線を揺らがせて、彼は頷く。
「実は、性格はあんまり似ていなくて。だから、仲もそれほど良くなかったんです」
「なるほど」
「天涯孤独の姉妹だっていうのに、わたしはあの子を避けていました。父の貯金を切り崩してまで大学に行ったのも、それが理由です。あの子と、同じ道を進みたくなかったんです。だから、あの子が死んだっていうのに、悲しくないんです」
彼は不思議な表情をした。憐れみとも同情とも違う、なにかが過ぎった。
「だから、悲しんでいないとでも言うおつもりですか?」
「いいえ、そうではないんです。たぶん悲しいんだと思います。でも、正直今はそれどころじゃないんです」
顔を上げた。
「取引しませんか」
田宮卓は眉をよせて、
「申し訳ありませんが、どういう意味か説明していただけますか?」と聞いた。
「実はお恥ずかしい事に、一文無しな上に、宿無し、職無しの身の上なんです。すごく、困っているんです」
「なるほど」
「ですから、静の代わりとしてで構いません。ここに置いてくれませんか」
再び部屋に沈黙がおりた。しばらくたって、彼が「正気ですか」と尋ねた。
その言い方が、人を殺したと主張する人間にしては、さもまともそうな口調だったので、思わず笑ってしまった。
「正気です。あなたをどのようにでも扱う権利があると言うなら、ここに置いてください」
「どうして」
「どうしてとは、わたしも聞きません」
暗に嘘をついている事を指摘すると、彼は口をつぐんだ。
「料理洗濯掃除、なんでもします。ですから、置いてくれませんか」
頭を下げた。彼はぎょっとした様子で「顔を上げてください」と言った。
「その、静ちゃんについて聞きに来たのかと考えていました」
彼の言葉には予想だにしないことへの、ごくごく平凡なためらいがあった。
「それもあります。静が死んだ動機は、分かっていません。そしてわたしは、あなたが殺したとは思っていない。あなたがそう思わせたいのだとしても」
「それは」彼は言葉を詰まらせる。
「でも、どうしてとは聞かないと言ったので、もう聞きません。ただ、ここに置いてくれるだけで良いんです。あいにく顔は一緒ですから。あの子が居るんだと思ってもらって構いません」
田宮卓は口元に手を当てて、わたしの提案について考えているようだった。その姿を見ながら、わたしもこの男と静の生活について考える。
静と田宮卓の間には男女関係があったのだろうと、わたしは考えている。それは彼女がこの家に頻繁に出入りしていた事実と、彼のどこか怠惰で、それでいて静謐な雰囲気が伝えてくるものだった。
それはなぜか、たやすく想像できる情景だった。わたしと同じ顔をした女が、同じようにこうやって座って、この男と会話する姿を思いうかべる。
想像上の静は楽しそうにしている。声をあげて笑うことが少ない子だったのに。
「ひとつだけ、伺ってもよろしいですか」
彼は言葉を選びながら、話はじめた。
「なんでしょう」
「この部屋には、その、俺だけではなく、男があと三人と女性が一人ほど出入りするのですが、それは知っていますか?」
「彼女が居るから無理ってことですか?」
「ああ、いや、それは違います」と、困惑しながら首を横に振る。
「仮に、わたしに静と同じようなことをしたいと思うなら、それでも構いません。もしここで非道徳なパーティが開かれていようと、それならそれで構いません」
「違うんですよ」
困り顔で天をあおぐ。「そのようなことは、誓ってしません。もちろん、信頼しろとも申しませんが」
「わたしを、静の代わりとして置いてほしいんです。お願いします」
もう一度頭を下げた。目をつむっていると、
「わかりました」と、ため息が聞こえた。
「俺に出来る限りのことをします。職が欲しいというのなら、家事手伝いをしていただいて、きちんとお給料も出すようにしましょう」
彼の言葉に、自分から頼んだ事だったのにも関わらず、唖然としてしまった。駄目で元々といった気持ちだったこともあり「本当ですか」と確認をとる。
「本当です」ふと、ほほえんだ。「どうして、は聞かないでください」
まさにそれを聞こうとしていた自分に気づき、笑ってしまった。そして、涙が出た。
田宮卓は慌てた様子で「どうしましたか」と身を乗り出した。
「ごめんなさい、なんでもないんです。なんでも」
恥ずかしくなって、顔を覆う。だが嗚咽が止まらなくなっていた。胸の中で凍りついていた不安が、初めて溶けたような気がしたのだ。
「ごめんなさい」しか思いつかなくて、そう言い続けた。すると彼はなにも言わずに立ち上がり、どこかへ行ったかと思うと、手になにかを持って戻ってきた。
涙でぐしゃぐしゃになった手で受け取ったそれは、スプーンとカップアイスクリームだった。彼は黙って元の位置に座り、自分の分を食べはじめた。
意味が分からなすぎて、笑ってしまう。涙も止まらないので、変な声が出た。
「どうして、バニラ味なんですか」
一口食べると、塩辛かった。彼は「どうして、は禁句にしましょうか」と言った。




