2014年 12月1日
二〇一四年 十二月一日
今日は鍋にしよう。
そう決めたのは、窓を激しく雨が打ちつけていたからでも、今日という日が非常に寒かったからでも、はたまた、手のこんだ夕飯を準備する充分な時間が無かったからでもない。
レシピサイトを閉じて、ひとり頷く。そうと決まれば事は早い。一刻も早く、面倒にならないうちに、近所のスーパーまで買い出しに行かなければならない。
寝室へ移動し、部屋着からジーンズに着替えて、リップクリームを塗る。リビングに戻ると「買い物ですか」と、ソファに座っていた男が声をかけてきた。
「そうだけど」
「アイス、買ってきてくださいよ」
パソコンの画面には、意味不明な英語と数列が並んでいる。骨と皮のような指先が、キーボードに叩きつけられる。
「さっき食べてなかったっけ」
とっくに死んだスプリングを軋ませながら、無表情きわまりない顔で振り向いた。
「糖分が必要だと思うんです」
壁に掛かったカレンダーを忌々し気に眺めて、つぶやく。
「のぞみさんも食べたいですよね、アイス」
呪いをかけるような口調だ。「分かったよ」と、机に放りっぱなしの財布を手にとる。上着をはおって、玄関に向かうと彼も後を着いてきた。
「それ、俺の服じゃないですか?」
珍しく見送りに来たかと思ったら、壁に寄りかかって出た台詞がこれだ。
「しょうがないでしょ、着る服ないんだよ」タートルネックのセーターを人差し指でつまみあげる。「どうせこれ着てないし、いいでしょ」
「買えばいいのに」
「どこに出かけるわけでもないし、別に要らない。それよりも、荷物持ちのほうが必要なんだけど」
彼は窓の外を確認すると、優しくわたしの肩を叩いた。
「いってらっしゃいませ」
きびすを返して外に出る。手を振る男の目の前で、思いきり扉を閉めた。
雨のせいで人通りは少なく、ねずみ色のダウンに身を包んだ主婦と、おじさんしか居ない。駅周辺に向かえば、こんな天気でもたくさんの人が居るだろうが、滅多にそちらへは行かない。こんな状態で、万が一にでも知りあいに会いたくないのだ。
ビニール傘の向こう側を見ながら、灰色一色の世界に溜息をついた。雨は好きではない。
くすんだ黄色の屋根が見えた。スーパーに入って、傘をたたむ。
カゴを腕にかけて、ふと野菜売り場の上に付いている、小さな鏡を見上げた。
女子大学生というよりは、生活に疲れた主婦のような雰囲気だ。クマがひどく、指先でつねって、なんとか血色を生もうとしてみたが、野菜についた泥がそのまま付着しただけだった。
つむじから毛が飛び出しているのをなでつけ、白菜やしいたけをカゴに入れた。続いて、りんご、バナナ、豚肉、鶏肉、絹豆腐、しらたき、冷凍の餃子、はんぺん、と選んでいく。
ポテトチップス、チータラ、ウィンナー。チョコレートを手に取りかけて、グミにしておいた。溶けた時のことを鑑みるに、チョコはよろしくない。最後に箱入りのアイスを買って、おしまいだ。
かさばる食材を片手に傘を差すのは、結構な重労働なのだが、なにぶん車どころか自転車すら持っていない。原始的な手段に頼らざるをえないのだ。
ビニール袋のひもが手に食いこむのに耐えていると、ふっと重みが消えた。傘同士がぶつかって、ふらつく。しっかりした手が、腰を支えてくれた。
トレンチコートを着た男性が「おつかれさま」とほほえんだ。
「夏目さんこそ、おつかれさまです」
そっと手を外すと「ああ、ごめん」と申し訳なさそうに謝られた。
「紳士ですね、さすが」
「タミの奴よりはね」彼は神経質そうに眉をひそめた。「この荷物で雨じゃ、大変だったろ」
「納期前みたいですし、仕方ないですよ。夏目さんは、今日はどちらに?」
彼が「渡辺さんのところ」と答えたので、目を丸くしてしまった。
「まだ付きあっていたんですね」
「あれ、別れたなんて言ったっけ?」
思いかえすと、そのような事は話していなかった。ただ半年近く音沙汰がないようだったので、別れたのではないかと勝手に思いこんでいたのだ。
「いえ。でも、だいぶ長いこと会っていなかったですよね」
「ああ、まあね。今日も、本当は大宮さんのところに行こうと思っていたんだが、家族で出かける予定だから無理って言われちゃって。それで仕方ないから佐々木君に連絡したら、なんとインフルエンザで家から出られないときた。だから、半年ぶりの渡辺さん」
「そういうの、向こうは怒らないんですか?」
「そういうのって?」
「半年間、連絡とってなかったんですよね」
彼は苦笑いを浮かべて「それはない」と言いきった。
「元気にやっているかどうかだけ知れるくらいが丁度いいとお互いに思っている、と思う」
「そういうもんですかね」
「人によるけどね。多くを知っていると、楽しめないやつも、世の中には居るってこと」
大人な発言だ。事実として、彼は今年三十六歳になる立派な社会人である。
平日はスーツを着て会社へ赴き、時には地方や海外を飛び回る、絵に描いたようなサラリーマンだ。
「夏目さんは、知りたくない人なんですか」
彼はしばらく考えた後に「そうかもしれない」と答えた。
「俺にとっては、みんな夢の世界の住人みたいなものだから」
地に足の着いた人間が言うと、奇妙な説得力がある。
「現実も夢も、それぞれ独立して必要だからね。俺には家族と、みんなが居る場所が現実だ。向こうだって、夢の中に居る人物の現実を知りたくはないだろう?」
夢と現実にそれほど違いがあるだろうか。それは口に出さない。彼にとって、それほどあの場所はかけがいのないものなのだ。
見慣れた道に戻る頃には、雨脚がもっと強くなっていた。
ずぶぬれになった鉄筋コンクリート製のアパートは、築四十四年の歴史ある建物である。家賃は四万八千円。階段の老朽化が非常に激しい。
どうしてこんな場所に住んでいるのかと尋ねると、家主は「安いし、便利だからです」と答えた。いわく、都心に近すぎると会社からお呼びが掛かりやすくて嫌だし、だからといって遠いと出勤日に面倒なのだそうだ。
家を出入りするたびに階段が抜けないか不安に思う事にも、すっかり慣れてしまった。
玄関を開けて「ただいま」と声をかけると、パソコンと格闘し続けていたらしき男は、こちらをちらりと見て「おかえりなさい」と返した。
買い物袋を受けとって、キッチンに置く。靴下が濡れて気持ち悪かったので、脱衣所に投げ捨てた。
「おい、タミ。切羽詰まっているとはいえ、買い物くらい付き合ってやれよ。のぞみちゃんに甘えるのも、たいがいにしないと」
冷蔵庫に物を入れながら、夏目さんが文句を言った。
「晴れの日だったら」と、まるで響いていなさそうな答えが返ってくる。
「それじゃあ意味ないだろう。そうやって出不精だから、貧相な体つきのままなんだぞ。大学時代を思いだせよ、もっとこう、昔はましだったのに……」
夏目さんは腰に手を当てて嘆いているが、タミは「週二で出ているじゃないですか」と悪びれない。
「車でだろうが」と、ため息をつく。
彼の言う通り、キッチンから見える背中は薄く、神社の片隅に放置されている、いわくつきの柳の木のようだと常々思う。
「別に買い物に付き合わなくてもいいから、パソコン片づけて。鍋出してきてよ」
指示を出すと、これ以上根を詰めても無駄だと考えたのか、ようやく重い腰をあげた。手足が重力に負けている姿が、いつか動物図鑑で見たナマケモノのようだ。
「俺もなにか手伝おうか」
「ううん、大丈夫です。野菜切るだけなので、テレビでも観ていてください」
リモコンを手にとって、夕方のニュースを付ける。夏目さんは「ありがとう」と言って、ソファに座った。
食材を切っている間に、テレビの画面は美味しそうな都内のグルメを紹介している。赤味が残るハンバーグが、鉄板の上に肉汁をこぼしている映像を眺めながら、しいたけのカサを取る。
「こういう物が食べたいですね」
いつの間にか横にいたタミは、並べられた食材をしげしげと眺めて「あれですか」と、うんざりしたように言った。
「なにか文句でも?」
「いつのまに、わが家では定期的な闇鍋会をすると決まったのでしょうか」
「あのね、あんたが言いだしたんでしょう」
今年の春先、急に「闇鍋がやりたい、闇鍋こそが時代のジェノサイドだ」などと、のたまい始めたのは彼である。
ここにいる人間はなぜか、大抵の場合はこの男に従うので、わたしもやらざるをえなかった。昆布だしと林檎の奇妙なコンビネーションを発見したのは、その時だ。
「毎日やっているわけじゃないし、たまには良いじゃない」
「たまにどころか、一月に一回はやっていますけれど」
肩をすくめて、今度は肉に取りかかる事にした。背後で冷凍庫を開いた音が聞こえたので「アイスは後」と注意する。
それから十分ほど経って、がちゃんと玄関の扉が開いた。
「ただいま。あー、腹へった」
「ちょっと、床が濡れちゃう」
慌ててタオルを渡す。塾用のカバンをびしょぬれにした少年は、馬鹿にした目つきでこちらを見た。
「のぞみはこれだから。良い女は、風邪ひいちゃうわよとか、嘘でも言うんだぜ」
「また真理子さんの受け売りを……」と、言っている間にも、床にはぽたぽたと水滴が落ちていく。
「憲明。さっさと拭け」
夏目さんが一喝すると、憲明は大人しく従った。
「外はそんなに降っているんですか」
鍋のセッティングが終わって、再びパソコンと睨めっこを始めたタミが問うと、憲明は嬉しそうに「そうなんですよ」と口を開いた。
「気象庁の予報によれば、明日の朝には台風が関東圏直撃だそうです」
そして「学校も休みになるかもしれません」と顔を輝かせた。
「そうですか。じゃあ明日は家でじっとしていないといけませんね」
おまえはいつも家でじっとしているだろう、という突っこみは心の奥にしまっておく。
「塾はどうだったんだ」と、夏目さんが尋ねた。
「まあまあじゃない? 少なくとも、うちの先生のなかで、まともな脳みそ持ってんのは、山崎先生くらいだって分かったけど」
生意気を具現化したような口の利き方なので、
「憲明、先生に対して、そういうこと言うのは良くない」と注意する。
「はあ? 先生ったって、ただの大学生だろ」
憲明はびしょびしょの頭をふきながら、鼻で笑う。この少年の前で講義をしなければならない大学生が、若干不憫だ。
「のぞみちゃんの言う通りだ。上の人間に、そういう口の利き方はしない方が良い。心の中で舌を出しておけば、充分」
「はーい」それこそ心の中であっかんべーをしているだろう少年は、父親の隣に座った。
二人が並んでいると、顔こそ似ていないが、雰囲気に独特の似通うものを感じる。彼の小憎たらしいことに整っている顔面は母親似だが、頭の中身は父親似だ。
雨音がどんどん激しくなっている。食材はすべて切り終えた。昆布だしを鍋にそそぎ、沸騰するのを待っていると、乱暴に玄関が開いた。
「やばい、雨、まじでやばい」
大声で「やばい」を連呼しながら、どかどかとリビングに立ち入って来たので、
「ちょっと、濡れたまま入ってこないでってば」
川に飛びこんだかのような金髪頭をはたくと「いてえ!」と悲鳴をあげた。
「のぞみん、その扱いはない。まじで、雨やばかったんだって。アレ、映画のさ、なんかあったじゃん。クソでかいハリケーンが来て、皆死ぬやつ。アレみたいな感じ。まじで死ぬかと思った」
マシンガンのように話す青年は、憲明が使っていたタオルで乱暴に体を拭いて、どっかりとカーペットの上に座った。
「ていうかさ、店長がうざいんよね。台風だし客なんて来ないんだから、さっさと店閉めて、帰るべきだって言ったらさ、めっちゃ怒られて。まじ意味判らねえ。客が来るから店なんだって。二時間も店員しか居ない店なんて店じゃねえよ」
「それはシュウが悪いだろう。バイトの分際で文句言うもんじゃない」
「じゃあ夏目さんは、そういうとき店閉めないんすか? 個人経営なんだから、チャッチャとバイトは帰して、人件費削減すんのがフツーじゃないっすか」
「それが店の方針なら従うべきだろう。金もらってるんだ」
仕事を進めることを諦めて、鍋の様子を見ていたタミが「雨の日は、なにもしないに限りますよ」と言った。
「特にこんな冬の嵐に、外に出る人の気が知れませんね」
「ほんと、タミさんの言う通りっすよ」
シュウくんはうんうんと頷いて、タオルを振り回しながら熱弁する。
「こんなどしゃ降りなんだから、家で大人しく、トランプでもしているべきなんよ。ああ、そうだ、聞いてくださいよ。このあいだ、大学でクイーンの良さに目覚めはじめた奴がいて、もうなんていうか、同志か? って思ったんですけど、でも、やっぱ嫉妬するじゃないですか。クイーンの魅力は、オレだけが知っている方がいいかもって」
「シュウくん、コート脱いだら?」
濡れた服のまま、喋り出そうとするのを止めると、彼は今気づいたかのような顔で真っ赤なダウンコートを脱ぎすてた。その後に「あれ、オレどこまで話したっけ」と、尋ねてくるので、なにも話していなかったよと皆で返した。
鍋がぐつぐつと煮えてきたところで、食材を並べていく。タミが皿にかけられたキッチンペーパーをめくって顔を歪ませた。「今日もセレクトが最高ですね」
「お褒めの言葉、どうも」と言うと、彼は引きつった顔で席についた。
憲明が鍋の横にロウソクを立てようとしたのを、夏目さんが「気をつけろよ」と見守る。
「なんでロウソク?」と、シュウくんが尋ねる。
「雰囲気出るじゃない」
「あれだよな、のぞみんも、結構好き者」
シュウくんはにやつきながら、ロウソクに火をつけていく。
タミは鍋の火を見ていた。コンロの調整をしている。ふと目が合った。
「のぞみさん、電気」と、壁のスイッチを指さす。
嫌がっていたわりに、乗り気のようだ。
「はいはい」
パチッと電気が消えると、狭い部屋は、さながら怪しげな集まりのようになった。ロウソクの火が揺れて、昆布だしの良く出た黄金色のスープを照らしだす。
鍋を囲んでいる顔のどれもが、この世のものとも思えないくらい青ざめているように見えた。父親は息子を見守り、息子は目をきらきらさせて、青年は待ちきれないように鍋の中を覗きこんでいる。誰もなにも言わない。
黙って待っているのだ。彼らが信望する神の言葉を。
「それじゃあ、いただきましょうか」
わたし達の神様は、煮え立つ鍋の上でグミの袋をひっくり返した。




