序章
すばる新人賞2018に出した作品です。
雨だった。
窓に水滴が付いているかどうか見てみたが、曇り空はまだ堪えている。だが、音はどこからか聞こえている。
どんよりした空をカーテンで隠し、耳をすました。
雨が落ちる音とは、どのような音だろうか。
ふだん考えもしないような事が頭をよぎった。実のところ、自分が知っているものは、しっとりした空気が肌にまとわりつく、この感覚だけだ。
ポケットの中が震えた。携帯の画面にメッセージが届いていた。吐いた嘘が罪悪感を募らせる。優しい子だ。ふと心から思う事に、やるせなくなる。
リビングには白いソファと、ガラステーブルが置いてあった。
確かソファが八万三千円で、テーブルが四万八千円だったと思う。あれでもないこれでもないと選んでいたから、よく覚えている。こだわりの強い子だから、さんざん悩んだあげく、独り暮らしの女の子にしては高級なお気に入りを購入した。
ソファに座って、スプリングを確かめてみた。座り心地は良くない。
壁にカレンダーが掛かっている。十二月二十五日。時計の針は真夜中を指そうとしている。もう二時間近く入っている。まさか溺れてはいないだろうか、と不安になる。
裸足で歩くと、廊下がぺたぺたと鳴った。戸を引くと、むっとした蒸気が顔にかかった。
ドラム式の洗濯機の上に、下着とルームウェアが積み重なっている。プラスチックのタンス、曇った鏡とシンクは平常どおりだ。
「起きてる?」
吸いこんだ空気は、のどの側面を伝う。唇が渇いていたのか、皮がかすかに引きつる。気配を感じなかった。曇りガラスの向こう側を覗こうとする。なにも動いていない。戸を叩くが、返事は無い。
「もしもし」もう一度、叩いてみる。やはり返事は無く、浴槽に沈んだ彼女の姿が脳裏に浮かんで、鳥肌が立った。
「入るよ」と、声を掛けて扉を開く。
ぬるい湯気が、シャンプーの匂いと共に襲ってきた。
彼女は浴槽のふちに両足をつっかけていた。足の裏が乾いている。目が少しだけ見開いて、そして、優しげに緩んだ。
知恵の実を食べる前のイヴみたいに、堂々としている。どうにも情けなかった。足の親指に光る赤い色が安っぽく、再び彼女の策略に嵌ったと知るには充分だった。
彼女は上半身を曲げて、こちらの腕を掴んだ。灰色のスウェットが濡れる。
その視線が誘う先へ、つまり、浴槽のふちへ腰かけた。水面の下で、確実に存在している体が揺らいでいた。
なにか声をかけようかと逡巡するが、しっくりくる言葉が見つからない。腹に付いた肉だとか、胸のふくらみだとか、濡れた髪だとか、言うべきことは、たくさんあるはずだった。
ためらっているうちに、彼女はたどたどしい言葉使いで口を開いた。
それは自分も思っている事だったけれど、頷く事は出来なかった。首を横に振る。浮かべたほほえみが、無知な子供をよそおっていた。
背中に腕が絡みつく。また水を吸って重くなる。身をよじって離れようとしたが、上体が傾くと、あっと言う間もなく湯船の中に落下した。
銃声のような音をたてて、水が弾ける。
ぼやけた薄緑色の視界に、彼女の顔が紛れこんでいた。手を伸ばした。叫び声が遠くから聞こえる。
首に手をかける。




