第09話 笑わない目
訓練が終わるころには、シャツが絞れるくらい汗を吸っていた。
黒鉄の朝の特訓は、四日目に入っていた。
相変わらず一ミリも手加減はない。地面に這いつくばって、息も絶え絶えになって、それでも俺は最後まで立っていた。少し前の俺なら、初日で逃げ出していたはずだ。
拳が痺れていた。膝が笑っていた。それでも倒れずに済んだのは、四日前より少しだけ体が動きを覚えたからだ。
黒鉄はいつも同じことしか言わない。
「考えるな。体で覚えろ」
最初は意味がわからなかった。今は、ほんの少しだけわかる気がする。頭で怖がる前に、体が動く。そういう瞬間が一日に一度くらい、訪れるようになっていた。
強くなった実感なんてない。
でも、逃げ出さなくなった。それだけは確かだった。
水を浴びて根城に戻ると、空気がいつもと違った。
海が青い顔で立っていた。いつものへらへらした感じが、どこにもない。
「真。ちょっと、聞いてくれよ」
「どうした」
「角のばあちゃん。覚えてるだろ。煙草屋の」
覚えていた。
俺と海が子どものころから、店先に座っていた婆さんだ。皺だらけの顔で、いつも飴をくれた。この街に残った数少ない、生きた人間の一人。
「さっき挨拶したんだ。そしたら、なんか変で」
「変?」
「目だよ。目が、笑ってなかった」
その一言で、背筋が冷たくなった。
澪に最初に教わったことを思い出す。あいつらの見分け方。口は笑っていても、目だけは笑わない。人間のふりをした、何か別のものの目。
「行ってみる」
俺がそう言うと、海がぎょっとした顔をした。
「は?行くって、確かめにか?」
「このまま放っとけないだろ。本物だったら、助けなきゃ。違ったら――」
「違ったら、やばいだろ!」
「だから一緒に来い。澪に習った見分け方、お前より俺のほうが覚えてる」
無茶を言ってる自覚はあった。
でも、確かめずにいられなかった。少し前の俺なら、こんなことは絶対に言わなかった。誰かが動くのを、隅っこで待っているだけだった。黒鉄にしごかれた四日間が、俺の中の何かを前に押し出している。
煙草屋は、根城から歩いて数分の商店街の角にあった。
近づくにつれて、足が重くなる。
商店街は、しんと静まり返っていた。
昼間だってのに、人っ子一人いない。シャッターの下りた店が並んで、風が空き缶を転がしていく。前はこんなじゃなかった。ここはもっと、うるさくて、生活の匂いのする場所だった。
いつのまにか、街そのものが死にかけている。
その実感が、足を一歩ずつ重くした。
婆さんは、いつもの場所にいた。
古い丸椅子に座って、店先でこっちを見ている。皺だらけの顔。曲がった背中。何もかも、記憶のとおりだった。
「ばあちゃん。久しぶり」
海がおそるおそる声をかけた。
婆さんがゆっくり顔を上げる。
そして、笑った。
「あらあ。海ちゃんと、真ちゃん。大きくなって」
声も同じだった。
しわがれた、優しい声。昔と何も変わらない。
なのに、全身の毛が逆立った。
目だ。
口元はくしゃくしゃに笑っているのに、こっちを見る両目だけがガラス玉みたいに動かない。何の温度もない。笑顔の形をした皮の下から、まったく別の何かがじっと俺たちを観察していた。
「飴、食べるかい。いつものを」
婆さんが椅子から立ち上がった。
その動きが、人間のそれより、ほんの少しだけ滑らかすぎた。
「海。下がれ」
俺は海の腕を掴んで、後ろへ押した。
婆さんの笑顔は崩れない。一歩、また一歩と、こっちへ近づいてくる。手には、いつもの飴の缶。中身は、たぶん飴じゃない。
「逃げるぞ!」
踵を返して、俺たちは走った。
背中で優しい声が追いかけてきた。
「真ちゃん。どこ行くの。飴、あげるのに」
振り返らなかった。
振り返ったら、終わる気がした。
商店街を抜けるまで、二人とも一言も喋らなかった。
息が上がって、脇腹が痛い。
あれは、俺が知ってる婆さんじゃなかった。
頭ではわかる。中身は別物だ。でも顔も声も思い出も、全部あのままだった。本物はもう、どこにもいない。なのにあいつは本物の顔をして、飴をくれようとした。
その気持ち悪さが、いつまでも背中に貼りついて剥がれなかった。
根城に駆け戻った俺たちの話を、澪は黙って聞いていた。
壁にもたれたまま、ゆっくり顔を上げる。表情は動かない。でも、その目の奥がわずかに沈んだ。
「増えてる」
「増えてるって」
「この区画への、すり替えが。一人、また一人。人間のふりをしたものに置き換わってる」
「じゃあ、あの婆さんも」
「たぶん、もう中身は別物。本物は、とっくに消えてる」
淡々とした声がよけいに怖かった。
飴をくれた婆さん。あの皺だらけの手。あれが、もう人間じゃない。中身だけ入れ替わって、同じ顔で笑っている。
吐き気がした。
「なんで、すり替えなんかを」
「狙いは、たぶんここ。私たちを外側から、少しずつ囲ってる。逃げ道を、人で塞いでる」
包囲。
戦って攻め込んでくるんじゃない。人の顔をした壁を、ゆっくり街じゅうに立てていく。そういう、いちばんたちの悪いやり方で。
澪は、それきり黙ってしまった。
膝を抱えて、暗い窓の外を見ている。
こいつは、最初から全部知っていた。すり替えのことも、包囲のことも。たぶん、もっと深いところの何かも。それを一人で抱えて、ここまで来たんだろうか。
「澪。お前は、平気なのか」
俺が訊くと、澪は少しだけこっちを見た。
「平気じゃない。でも、慣れてる」
慣れてる、という言葉がなぜか胸に刺さった。
こんなものに慣れなきゃいけなかった人生って、どんなだ。
俺は何も言えなかった。ただ、こいつを一人にしちゃいけない。そう思った。
その夜から、根城の空気が変わった。
誰も口に出しはしない。
でも、みんなが少しずつ、隣のやつの目を見るようになった。こいつは本物か。さっき外に出たとき、入れ替わってやしないか。馬鹿げてる。わかってる。それでも一度芽生えた疑いは、根を張って離れない。
最初に空気を悪くしたのは、識だった。
「論理的に考えれば、いちばん怪しいのはレンだ」
低い声で、淡々と。
全員がその名前に固まった。窓際で銃の手入れをしていたレンが、手を止める。でも振り返らない。
「あいつが来てから、ファントムの動きがやけに正確だ。俺たちの居場所も、行動も、読まれすぎてる」
「識。それは言いすぎだ」
「事実を並べてるだけだ。あいつは自分のことを何も話さない。どこから来たのかも、何が目的かも」
俺は反論したかった。
でも、できなかった。識の言っていることは、一つ一つが筋の通った事実だった。レンは確かに、凄腕すぎて、無口すぎる。あのとき俺たちを救った一射も、見方を変えれば、信用させるための芝居だったのかもしれない。
「やめなって、二人とも」
海が、引きつった笑顔で割って入った。
こんなときでも場を和ませようとするのが、こいつの悪い癖で、いいところだ。
「疑いだしたらキリないって。じゃあ識、お前は本物だって証明できんの?」
「……それは」
「できないだろ。俺も無理。誰も無理なんだよ。だから疑い始めたら、こっちが先に壊れる」
海の言うとおりだった。
疑心暗鬼は、ファントムが一発も撃たずに俺たちを内側から崩す武器だ。あいつらは、たぶんそれを狙っている。
部屋の空気が、ぴんと張り詰めた。
そのとき。
「くだらん」
でかい声が全部を断ち切った。
黒鉄だった。腕を組んで壁にもたれて、ずっと黙って聞いていた男。
「敵の思うつぼだぞ、お前ら」
黒鉄がゆっくり立ち上がった。
でかい体で部屋の真ん中に立つと、それだけで張り詰めた空気が少し緩む。
「いいか。仲間を疑い始めたら、その時点で負けだ。あいつらが狙ってるのは、まさにそれだ。銃で殺せねえなら、心から崩す。内側から腐った砦は、必ず落ちる」
「でも黒鉄さん。識の言ってることも」
「事実だろうな。だがな、真」
黒鉄が、俺の肩に手を置いた。
ごつくて、重くて、不思議と安心する手だった。
「事実をどう並べるかで、人はいくらでも悪者を作れる。俺はレンを信じる。ここまで一緒に戦ってきた。それで充分だろうが。証明できねえのは、お前も俺も同じだ」
その言葉に、部屋の空気がほどけていった。
レンがほんの少しだけ振り返って黒鉄を見た。何も言わない。でも、能面みたいな顔の奥で、何かがわずかに動いた気がした。
俺は黒鉄という男に、また一つ救われた。
この人がいれば、俺たちは壊れない。そう、本気で思った。
黒鉄は、それ以上は何も言わなかった。
ただ、海の頭をがしがし撫でた。識の肩を一回叩いた。それだけだった。
不器用な男だ。
でも、その不器用さが、ばらばらになりかけた俺たちを縫い直していた。
その夜は、久しぶりに少しだけ笑い声が起きた。
海がくだらない冗談を飛ばして、識が呆れて、レンの口元がほんの少しだけ緩んだ。たったそれだけのことが、やけに尊く感じられた。
守りたい、と思った。
この、ぎりぎりで保たれている温度を。
張り詰めた夜が、ようやく緩んだ。
そう思った、そのときだった。
窓際のレンがすっと身を低くした。
声は出さない。ただ、外を指さす。その鋭さに、全員が息を呑んで窓に寄った。
俺は、カーテンの隙間から外を覗いて――固まった。
通りに、人が立っていた。
一人や二人じゃない。十人。二十人。もっと。明かりの消えた通りに、ぼうっと人影が並んでいる。みんな、こっちを向いていた。動かない。喋らない。ただ、根城の窓を見上げて、静かに立っている。
知った顔も、混じっていた。
よく行ったパン屋の店主。バス停でいつも一緒になった女。近所の子どもまでいる。みんな、知っている顔だ。みんな、もう中身がいない。本物は一人残らず消されて、皮だけがそこに立っている。
その先頭に、見覚えのある小さな影があった。
煙草屋の、婆さんだった。
皺だらけの顔で、こっちを見上げて、笑っていた。
口だけで。
目は、どこも、笑っていなかった。




