第08話 綻び
全身が軋んでいた。
指の一本を曲げるだけで、悲鳴みたいな痛みが走る。黒鉄の言った「地獄」は誇張でも何でもなかった。
あれから三日。
俺は毎朝、夜が明ける前に叩き起こされた。息が上がるまで走らされ、構え方や受け身を、体が覚えるまで反復させられた。覚えが悪いと容赦なく怒鳴られる。それでも投げ出さなかったのは、あの銃撃戦で何もできなかった自分が、心底情けなかったからだ。
黒鉄の稽古は、理屈より先に体に叩き込む式だった。
まず、走る。重い荷物を背負わされて、街の外れの斜面を、何度も何度も登らされる。荷物運びで足腰だけは無駄に丈夫だったのが、せめてもの救いだった。
次に、構え。銃の握り方。間合いの取り方。物陰への隠れ方。どれも頭で分かったつもりになると、すぐに拳骨が飛んでくる。
「考えてから動くな。動きながら考えろ」
黒鉄は口を酸っぱくして、そればかり言った。戦場では、考える時間が命取りになるらしい。あの銃撃戦で固まって動けなかった俺には、嫌というほど染みる言葉だった。
みっともなく転がされ、土を舐め、それでも立ち上がる。その繰り返し。
体じゅう痣だらけだ。我ながら、よく続くものだと思う。
今も床に大の字で伸びたまま、俺は天井のしみをぼんやり眺めていた。
強くなっている実感なんてまるでない。
あるのは増えていく痣と、筋肉痛だけ。
それでも、ほんの少しだけ。昨日より今日のほうが、長く立っていられた気がする。それくらいの、ささやかな手応えだった。
「うわ、また死んでる」
水のペットボトルを片手に、海が呆れ顔で覗き込んできた。
「お前さ、ほんと毎日よく続くな。俺なら三日目で逃げてるわ」
「逃げ場が、ねえんだよ」
「それもそうか」
へらりと笑って、海が俺の隣にどかっと座った。こいつは戦闘の才能がないと黒鉄に早々に見切られて、もっぱら識の手伝いに回されている。情報整理だの雑用だの、地味だが要る仕事だ。
そういうところは、昔から器用なやつだった。
この三日で、工房はすっかり、俺たちの根城になっていた。
昼間は黒鉄の稽古と、識のデータ解析。夜は、誰かが交代で見張りに立つ。ファントムにいつ嗅ぎつけられるか分からない以上、気は抜けなかった。
今も入り口のそばで、レンが一人、壁にもたれて外を睨んでいる。あれから彼女は、ほとんど口をきかない。仲間に加わったというより、たまたま同じ巣穴に潜んでいる猛獣、という感じだった。
その目が常に外を警戒してくれているおかげで、俺たちは夜、わずかでも眠れている。
妙な連中だ。
無口で物騒な狙撃手。寝不足続きの技術屋。気難しい退役兵。胸の内の読めない女。そして、へらへらした幼馴染。
たった数日前まで一人だった俺の毎日に、これだけの顔が、当たり前みたいに並んでいる。
その識はといえば、もう何日も、まともに寝ていないらしかった。
工房の奥の一角。モニターがいくつも積み上がった机に張りついて、データの羅列をにらみ続けている。手元には親父が遺したあの金属片。地下の装置から吸い上げた記録。それを片端から解析しているのだという。
目の下には濃い隈ができていた。
俺は痛む体を引きずって、その背中に近づいた。
「なあ、何か分かったのか」
「邪魔」
画面から目を離さずに識は短く言った。
「……でも、ちょうどいい。あんたにも、関係ある話だから」
識が椅子をくるりと回してこちらを向いた。
いつもの気だるげな顔が、今日はやけに張り詰めている。
「単刀直入に訊くけど。あんた、この世界が本物だって、疑ったことある?」
「は?」
間抜けな声が出た。何を言っているのかまるで分からない。
「本物って、どういう意味だよ。現に、ここにあるだろ」
「あるように、見える。それは認める」
識は金属片を指先でつまみ上げた。淡い光がその横顔をぼんやり照らす。
「でもね。これを解析してから、計算がずっと合わないの。気持ち悪いくらいに」
また、それだ。出会ったときから、こいつはずっとそう言っている。
でも、今度の声にはこれまでと違う重さがあった。
「いい?たとえば空の高さ。地面の硬さ。星の並び。光の速さ。そういう、世界を
成り立たせてる根っこの数字を、片っ端から測り直してみた」
識は画面にずらりと数字を並べた。
俺にはただの数列にしか見えない。
「ぜんぶ、きれいすぎるの」
「きれい?」
「割り切れる。整いすぎてる。自然なら、もっと汚い数字になるはずなのに」
ぞくり、と背筋が冷えた。理屈は分からない。それでも、その言い方には得体の知れない不穏さがあった。
「自然は、こんなに几帳面じゃない。これはまるで――誰かが、定規を当てて引いた線だ」
「……いや、待てよ。たまたま、そういう数字になっただけかもしれないだろ」
「あたしも、最初はそう思った」
識は首を振った。
「だから、何度も測った。場所を変えて、日を変えて、機械も変えて。結果は毎回、ぴったり同じ。誤差の一つも出ない」
「それの、何がおかしいんだよ」
「おかしいの。本物の世界は、測るたびに、ほんの少しずつ揺らぐ。完璧に同じ数字なんて、絶対に出ない。出るとしたら――それは最初から、そう『書いてある』ってことよ」
書いてある。
まるで世界そのものが、誰かの手で打ち込まれた文字列だとでも言うみたいに。
俺は、思わず周りを見回した。
油の染みた工房の壁。埃をかぶった棚。窓の外の、見慣れた街並み。どれもこれも、確かにそこにある。手で触れれば、ちゃんと硬さがある。
これが、作り物?
信じられるはずがなかった。
でも、識の目は、冗談を言っている目じゃない。何日も寝ずに数字とにらみ合って、たどり着いてしまった人間の目だった。
「それだけじゃない」
識は、別の画面を呼び出した。びっしりと並んだ、波形みたいな線。
「世界の端を、調べようとしたことがある。どこまでも遠くを、ずっと観測し続けた。そうしたら、あるところで、データがぷつんと途切れた」
「途切れた?」
「途切れて、また同じ景色が始まる。継ぎ目みたいに。本物の空に、継ぎ目なんてあるわけがないでしょ」
継ぎ目。
まるで、書き割りの裏側を覗いてしまったみたいな話だった。
「測れば測るほど、ぼろが出てくる。この世界は、どこかに必ず『端』がある。果てしないように見えて、その実、きっちり囲われた箱なの」
箱、という言葉が、やけに不気味に響いた。
俺たちは今、その箱の中で息をして、飯を食って戦っている。それが当たり前だと思って。
「この世界の下に、もう一段、何かがある。そういうこと」
識は淡々と続けた。
「あの装置も、あんたの血で開く扉も、ファントムが血眼で追ってるものも。ぜんぶ、その『下の段』に触れるための、取っ手みたいに見える。表の世界の理屈じゃ、どう転んでも説明がつかない」
頭が追いつかなかった。
化け物に追われているだけでも、手いっぱいだったのに。今度はこの世界そのものが、何かのまやかしかもしれないと言う。
冗談じゃない。そう笑い飛ばしたかった。
できなかった。地下で装置に触れたときの、あの疼き。頭の奥の、開かずの部屋。あれが嫌でも思い出された。
「ねえ、前に訊いたよね。夢の話」
識が、ふいに俺を見た。
「知らない部屋。聞いたことのない声。目が覚めると忘れる、変な夢」
「……ああ」
「あれ、たぶん、ただの寝ぼけじゃない」
識の指が、こめかみをとんと叩いた。
「漏れてきてるんだと思う。どこかから。あんたの頭の、いちばん奥の部屋に、別の場所の景色が染み出してきてる」
心臓が嫌な音を立てた。
別の場所。
言われて急に、夢の輪郭が鮮明になった。
真っ白な部屋。どこまでも続く、滑らかな壁。重力すら曖昧な、ふわふわした浮遊感。そして、誰かの声。優しくて、ひどく懐かしい、それなのに思い出せない声。
目が覚めるたび、それは指の間から水みたいにこぼれて消えた。ただの寝ぼけだと、片付けてきた。
でも、もし。
あれが夢なんかじゃなく、本当にどこかに『ある』景色だとしたら。
考えると、足元がすうっと、消えてなくなるようだった。
じゃあ俺は、いったい何を見ているんだ。
俺の中には、何が眠っているんだ。
頭がぐらぐらした。
ファントム。血で開く扉。世界の継ぎ目。漏れてくる夢。ばらばらだったはずのものが、見えない一本の線で、ひとつに繋がろうとしている。その線の先に、俺がいる。
いつもの俺なら、笑い飛ばしていた。こんなの馬鹿げてる、とでも言って。
でも、この体は知っている。地下で装置に触れたあの瞬間の、頭の奥がこじ開けられる感覚を。あれは、気のせいなんかじゃなかった。
知りたくなかった。本当は、何もかも夢だったことにして、逃げ出してしまいたかった。
でも、もう遅い。
一度こぼれた疑いは、頭からもう、消えてくれない。
ふと、視線を感じて顔を上げた。
壁際に澪が立っていた。
いつもの読めない表情。でも、その横顔が、いつになく硬い。識が話を進めるほど、澪の肩に、見えない力がこもっていくのが分かった。
この女は、知っている。
直感で、そう思った。識が手探りで近づこうとしているその答えを、澪はとっくに知っている。知っていて、まだ俺には言わない。
目が合った。
澪は何も言わずに、すっと視線を外した。
その沈黙が、どんな言葉より雄弁だった。
みんなが、俺の知らない何かを、それぞれの形で知っている。
澪は答えそのものを。識はその輪郭を。黒鉄も、たぶん何かを。
その中で俺だけが、いちばん大事なはずの当事者のくせに、何も知らされていない。子供みたいに、守られて、運ばれて。
苛立ちと、心細さが、同時に込み上げた。
俺は、もっと知らなきゃいけない。知らないまま、ただ守られているだけなのが、無性に歯がゆかった。
「おい、識」
奥から黒鉄のしわがれた声が飛んだ。
「あんまり、この小僧の頭を引っかき回すな。今はまだ、体を作るほうが先だ。難しい話は、もっと足腰がしっかりしてからにしろ」
「分かってる。これでも、加減してるほうよ」
識は肩をすくめて、また画面に向き直った。
黒鉄の言い分はもっともだった。今の俺に、世界の裏側の話なんて、抱えきれるわけがない。
なのに、なぜだろう。
その「やめておけ」の一言が、妙に引っかかった。これ以上踏み込ませたくない。そう聞こえてしまって。
考えすぎだ、と俺は頭を振った。あの無愛想な男が、俺を気遣ってくれているだけだ。そうに決まっている。
「ひとつだけ、はっきりしてることがある」
識がぽつりと言った。もう誰に向けてでもない、独り言みたいな声で。
画面の数字を見つめたまま、その横顔からいつもの皮肉が消えていた。
「あたしたちが当たり前だと思って立ってる、この地面は。この空も、この街も、たぶん――」
そこで、識は言葉を切った。
言うべきか、迷っているみたいだった。
やがて、乾いた唇が静かに動いた。
「誰かに、造られたものだ」
工房がしんと静まり返った。
その一言が、足元の地面を、音もなくひび割れさせた気がした。




