第07話 一発の銃声
化け物の指が、引き金にかかる。
もう間に合わない。
澪が殺される。誰もがそう思った。その刹那だった。
乾いた音がひとつ響いた。
遠くから。ずっと遠くから。
次の瞬間、澪を狙っていた化け物の頭が、横ざまにはじけ飛んだ。
時間が止まった気がした。
何が起きたのか、まるで分からない。
糸の切れた人形みたいに、化け物がその場に崩れる。澪の、ほんの鼻先で。
誰かが撃った。誰かが間に合わせたのだ。
音のした方を反射的に見やる。
窓の外。割れたガラスの向こう。ずっと遠くの、別の建物の屋上あたり。あんな距離から、この狭い部屋のたった一体を正確に撃ち抜いた。
信じられなかった。そんな芸当が人間にできるのか。
考えている暇はなかった。
二発目。三発目。
乾いた銃声が響くたびに、笑顔の化け物が、また一体と崩れていく。どれも、額のど真ん中を撃ち抜かれて。一発の無駄もない。
化け物が次々と倒れていく。
ついさっきまで、こっちを嬲り殺しにしようとしていた連中が。
誰だ。誰が撃っている。
そう思う余裕すら、なかった。
「援護射撃か!」
黒鉄がぎらりと目を光らせた。
「どこのどいつか知らねえが、ありがてえ! 今のうちだぞ、ひるんでる連中を片付ける!」
形勢が、ひっくり返った。
さっきまで止まらなかった化け物の波が、急に崩れ始める。見えない銃弾に、片端から狩られていく。
黒鉄が前へ出た。低い姿勢で立て続けに撃つ。澪も身を起こした。冷たい横顔のまま、的をひとつずつ落としていく。
外の狙撃手は、まるで全部が見えているみたいだった。黒鉄が撃ちもらした一体も、横から飛んできた一発が、きっちり仕留める。味方の隙間を、正確に埋めてくる。
異常な腕前だった。
「真、今だ!立て!」
海に腕を引かれて、俺はようやく立ち上がった。膝が笑っている。
頭がうまく回らない。
ただ海に引かれるまま、足だけが勝手に動いた。
硝煙のにおい。怒号。背中をかすめる銃声。
全部が遠くて、同時にやけに近い。
崩れた壁の穴を抜けて、転がるように外へ飛び出す。
走った。とにかく走った。
背後では、まだ銃声が鳴り続けている。誰のものとも知れない援護が、俺たちの背中を守ってくれていた。
いくつ角を曲がっただろう。どこをどう走ったのかも、よく覚えていない。
ようやく追っ手の気配が絶えて、俺たちは、薄暗い裏路地で足を止めた。
全員、肩で息をしている。海なんて、壁にもたれて、その場にずるずると座り込んでしまった。
生きてる。
その実感だけで、膝から力が抜けそうだった。
全身がまだ細かく震えていた。汗なのか脂汗なのか、背中がぐっしょりと濡れている。
たった今、本当に死にかけたのだ。
その事実が、後からじわじわと重くのしかかってくる。
手のひらを見ると、指先がまだ震えていた。
戦うというのは、こういうことなのか。容赦も加減も、何ひとつない。
痛くて汚くて、ただただ怖い。その当たり前を、今日、思い知らされた。
隣で海がぼそりと呟いた。
「俺さ、心臓が止まるかと思った」
声が、まだ震えている。
俺は何も言えずに、ただその肩をぽんと叩いた。
慰めの言葉なんて、出てこない。お互い生きてる。今はもう、それだけで十分だった。
黒鉄がぐるりと全員を見回した。
「全員、無事だな?」
怪我人がいないか、ざっと確かめている。さすが場慣れしていた。
誰も欠けていない。それだけで、ほっと胸を撫で下ろした。
あの地獄から、全員が生きて帰ってこられた。それが、奇跡みたいに思えた。
「……助かったわね」
息を整えながら、澪がぽつりと言った。
その視線が、ふと路地の先で止まる。
いつのまにか、そこに人影がひとつ立っていた。
俺はびくりと身を強ばらせた。いつから、いたのだろう。足音も、気配も、まるで感じなかった。
細身の女だった。
年は、澪と同じくらいか。長い黒髪を後ろで無造作に束ねている。背には、不釣り合いなほど長い、黒塗りの狙撃銃。
表情はぴくりとも動かない。よくできた能面みたいだった。
その目だけが、油断なく、俺たちを順に観察していた。
あの狙撃手だ。直感でそう分かった。
危険な女だ。
全身でそう感じた。物腰は静かなのに、隙がまるでない。飼い慣らされていない、猛獣みたいだった。
ただ立っているだけ。なのに、視線がひりつくほど鋭い。
戦い慣れた黒鉄とも、また違う種類の凄みだった。
こいつを敵に回したら。そう考えただけで、背中がうそ寒くなった。味方でいてくれることを、素直に祈った。
海も息を呑んで固まっている。識でさえ、めずらしく口をつぐんでいた。
ただ一人、澪だけが、まっすぐにその女を見返していた。
「あんたが、撃ってくれたのか」
俺が思わず訊くと、女はこくりとわずかに顎を引いた。
それきり、何も言わない。
張り詰めた沈黙が、路地に落ちる。
最初に動いたのは、黒鉄だった。
一歩前へ出る。礼を言うのかと思いきや、その手は、さりげなく腰の銃へ添えられていた。
「助かった。礼を言う。だが、その前にだ」
低い声で黒鉄は言った。
「あんた、何者だ。なんで、おれたちを助けた」
もっともだ、と思った。
どこからともなく現れて、化け物を一方的に撃ち殺していく女。いくら助けられたとはいえ、簡単に味方だと信じられるはずもない。
昨日まで平穏に暮らしていた俺ですら、目の前の人間が本当に人間なのかを、疑わずにはいられなくなっている。
女はしばらく沈黙していた。
それから、ぼそりと言った。
「……あれを、狩ってる」
「あれ?」
「ファントム。見つけしだい、殺す。それだけ」
短い。あまりに短い答えだった。
けれど、その一言の底には、ぞっとするほど冷たいものが沈んでいる。
「あんたたちが、あれと戦ってるのは見てた」
女は抑揚のない声で続けた。
「数が多すぎた。放っておけば、全員死んでた。だから、撃った。それだけ」
言い終えると、女はふいと視線を外した。
もう用は済んだ、とでも言いたげに。
なぜ、そこまでして化け物を狩るのか。
その疑問がよほど顔に出ていたのだろう。
女はほんの一瞬だけ、能面みたいな表情を揺らした。
「……昔。大事なやつが、あれに、入れ替わられた」
ぽつりと、それだけだった。
それ以上は、何も言わない。言う気も、ないようだった。
でも、その短い一言が、やけに重く胸に残った。
俺は、ファントムに、両親を奪われた。黒鉄も、戦友を。そしてたぶん、澪も、誰かを。
この女も、同じなのだ。
あの空っぽの笑顔に、かけがえのないものを奪われて、それでも前を向くしかなかった人間。
背負っているものの重さが、その細い背中から、痛いほど伝わってくる気がした。
不思議と、心がほんの少しだけ軽くなった。
痛みを抱えているのは、俺ひとりじゃない。
ここにいる全員が、それぞれの空っぽを抱えて歩いている。
だったら俺も、まだ立っていられる気がした。
もう、簡単に化け物呼ばわりはできなかった。
ファントムは、ただ人を殺すだけじゃない。
奪うのだ。誰かの居場所を。誰かの帰る場所を。残された者に、こんな冷たい影まで背負わせて。
あらためて、心の底からぞっとした。そして、ほんの少しだけ、この無口な女のことが分かった気がした。
長い沈黙のあと、女は背中の銃を担ぎ直した。
「あんたたちの探してるものが、あれを根絶やしにする役に立つなら」
その目が、ちらりと俺の手の中の金属片に向けられる。
「しばらく、手を貸す」
澪が、黒鉄と目を見交わした。黒鉄が小さく頷く。
その判断を、俺は、黙って見ているしかなかった。だが、不思議と、嫌な感じはしなかった。
「分かった。歓迎する」
澪が言うと、女はこくりと頷いた。
「レン」
「え?」
「名前。レンと、呼べばいい」
それだけ言って、レンはまた口をつぐんだ。
レン。
短い名前だ。彼女みたいに、よけいなものを削ぎ落とした名前だった。
また一人、変わった仲間が増えた。
無口で、物騒で、得体の知れない女。けれど、その背中には、俺と同じ痛みが滲んでいる。
さっきの自分を思い出して、俺は奥歯を噛んだ。
澪が目の前で殺されかけた。
なのに俺は、何もできなかった。ただ縮こまって、震えていただけ。指の一本も、まともに動かせなかった。
守られてばかりだ。
これじゃ、運ばれるのを待つだけの荷物と、何ひとつ変わらない。
それが、どうしようもなく悔しかった。
みんなが命を懸けて戦っている横で、俺だけが、何も背負わずに守られている。そんなのは、もう、まっぴらだった。
ずっと、自分には何もないと思ってきた。
力もない。度胸もない。誇れるものなんて、ひとつもない。
それでも、何かしたかった。守られるだけの自分から、ほんの一歩でも、抜け出したかった。
怖くないわけじゃない。
さっきだって、足がすくんで動けなかった。情けないくらい無様だった。
でも、だからこそだ。
怖いまま何もできないまま、誰かが死ぬのを見ているのだけは、二度とごめんだった。
握った拳に、自然と力がこもった。
歩き出した黒鉄の、広い背中に俺は声をかけた。
「黒鉄さん」
「あん?」
「俺に、戦い方を教えてくれ」
自分でも驚くくらい、まっすぐな声が出た。
「いつまでも、守られてるだけなのは嫌なんだ。少しでいい。自分の身くらい、自分で守れるようになりたい」
黒鉄は足を止めて振り返った。
しばらく、俺の顔をじっと見て――それから、ニッと歯を見せて笑う。
「上等だ。明日から、地獄を見せてやる」
その言葉に、俺は初めて自分からこくりと頷いた。




