第06話 空き家
澪たちが俺を連れてきたのは、皮肉なことに、いやというほど見覚えのある場所だった。
街の外れの、古びたマンション。その三階の、いちばん端の部屋。
親父とお袋と、三人で暮らしていた家だった。
お袋が死んでから、もう誰も住んでいない。俺はしばらく一人でここにいたが、息が詰まって、街の反対側の安アパートに移った。それきり、一度も足を向けていない。
まさか、こんな形で戻ってくるとは。
「……なんで、ここなんだ」
俺の声は、自分でも分かるくらい硬くなっていた。
「あなたの父親が、何か遺してるかもしれない」
澪が静かに言った。
「ファントムに狙われていると知っていた人間が、息子のために何も用意しなかったとは思えない。手がかりがあるとすれば、あんたに一番近かった場所」
黒鉄がぽつりと付け足した。
「あいつなら、やりそうだ」
その一言が、なぜだか胸に刺さった。
親父を知る男にそう言われると、不思議と、足が動いた。
錆びた鍵は、まだ俺の鞄の奥に入れっぱなしだった。捨てられずにいたのだ。
ドアを開けると、よどんだ空気と埃のにおいがどっと流れ出してきた。
時間が止まったみたいな部屋だった。
色褪せたソファ。壁の傾いたカレンダーは、何年も前の月のまま。台所には、お袋が使っていた欠けた茶碗が、まだ伏せて置いてある。
胸が、ぎゅっとなった。
ここで、確かに三人で暮らしていた。
無口な親父が夕方になると黙って帰ってくる。お節介なお袋が、味のうすい煮物を作って、それでも俺は文句を言いながら平らげた。狭くて、古くて、なんてことのない家だった。
あの頃の俺は、それが当たり前だと思っていた。ずっと続くものだと、信じて疑わなかった。
今になって思う。あの当たり前は、親父がたった一人で必死に守っていた、ぎりぎりの平穏だったんだ。
戻れない時間の重さが、肩にずしりとのしかかってくる。
ここに、もう誰もいない。
親父の咳払いも、お袋の小言も。あんなに鬱陶しかった音が、今はひとつも聞こえない。
あるのは、しんとした静けさと埃の積もる時間だけ。
胸の奥を、冷たい手でなぞられるみたいだった。懐かしさと、寂しさと、後悔と。ぜんぶがいっぺんに押し寄せて、息が詰まった。
けれど、感傷に浸っている場合じゃなかった。
「ぼうっとしてる暇はないわよ。手分けして探す」
識の声で、我に返った。
すでに識は、手のひらサイズの機械を片手に部屋のあちこちを調べ始めている。海はおっかなびっくり棚を漁り、黒鉄と澪は窓際に立って、油断なく外を警戒していた。
俺は、奥の部屋へ向かった。
親父が使っていた、小さな書斎だ。子供の頃、ここだけは勝手に入るなと、めずらしく厳しく言われていた場所だった。今思えば、あの厳しさにも、何か理由があったのかもしれない。
古い机の引き出しを、片っ端から開けていく。何の変哲もない書類。古びた工具。インクの切れたペン。
それから、色褪せた写真が一枚。
家族三人で写った数少ない一枚だった。どこかの海辺だろうか。三人とも、ぎこちない顔で笑っている。親父も、こんな顔で笑うことがあったんだな、と思った。記憶の中の親父は、いつも疲れた顔ばかりしていたから。
写真の中の俺は、ふてくされた顔をしていた。
こんな写真、撮りたくないと駄々をこねたんだったか。
もっと、笑っておけばよかった。
今さら、そんなことを思った。
その写真を、ふと裏返したとき。
指先に、わずかな段差を感じた。
写真立ての裏に、何かが仕込んである。
爪を立てて、慎重に剥がす。
薄い金属片が、ぱらりと手のひらに落ちてきた。
俺が触れた瞬間――それは、地下の装置と同じ、淡い光を放った。
「澪!これ!」
駆け寄ってきた澪が、その金属片を見て、息を呑んだ。
「間違いない。あんたの父親が遺した、次の手がかりよ」
その目に、初めてはっきりとした手応えの色が浮かぶ。
親父は、最後の最後まで俺のことを考えてくれていた。会話の少なかったあの不器用な親父が。
ありがとう、と思った。それから、ごめん、と思った。
ろくに口もきかなかった。反抗ばかりしていた。なのに親父は、こんなものを遺してまで俺を守ろうとしてくれていたのに。
もう、礼を言う相手も謝る相手も、どこにもいない。
胸の奥が熱くなったのは、ほんの一瞬だった。
次の瞬間、識が鋭く叫んだから。
「全員、伏せて!!」
窓ガラスが、爆ぜた。
轟音。降りそそぐ破片。
俺は何もできずに、ただ床へ突っ伏した。
何が起きたのか、頭がまるで追いつかない。耳のすぐ横を、空気を裂くような音が立て続けにかすめていく。それが銃弾の音だと気づくのに、たっぷり数秒かかった。
ばちばちと、何かが弾ける音。
壁に天井に、無数の穴が穿たれていく。木くずと埃が、もうもうと舞い上がる。
視界がちかちかした。
耳が馬鹿になりそうなほどうるさい。なのに、自分の心臓の音だけがやけにはっきり聞こえる。
遅れて、恐怖がやってきた。喉の奥が、ひゅっと鳴る。
頭が真っ白だった。
動け。動けよ。何度も自分に言い聞かせる。なのに、体がいうことをきかない。床に張りついたまま、指一本まともに動かせない。
体が、自分のものじゃないみたいだった。
脳みそだけが、危険だ逃げろと喚いている。なのに、手も足もぴくりとも言うことを聞かない。
情けない、なんてものじゃなかった。
これが、戦いか。
映画やゲームで見ていたものとは、何もかもが違った。匂いも音も振動も、ぜんぶが暴力的で容赦がない。
誰かの怒鳴り声。誰かの足音。何かが倒れる音。
ぜんぶが入り混じって、現実感がない。
ただ、床から伝わってくる振動だけが、やけに生々しかった。胃の中身が、せり上がってくる。歯を食いしばって、なんとか押し戻した。
「囲まれてる!」
黒鉄が怒鳴った。いつのまにか、その手には、ごつい拳銃が握られている。
囲まれてる。その一言が、頭の中で反響した。
逃げ道なんて、どこにもない。
ここは俺の家だ。子供の頃、安全そのものだった場所。それが今、殺し合いの檻に変わっている。
ドアが、蹴破られた。
男が一人、踏み込んでくる。
スーツ姿の、どこにでもいそうな中年の男だった。
なのに、その動きは人間のものじゃなかった。無駄がなさすぎる。表情ひとつ変えずに、手にした銃をためらいもなく俺たちへ向けてくる。
その口元が、にたりと笑った。
目は、ちっとも笑っていなかった。
ぞっとする間もなかった。
乾いた音がして、男の額にぽつりと穴が開く。黒鉄が撃ったのだ。男は表情も変えずに、後ろへ倒れた。
「ガキども、頭を下げてろ!」
崩れ落ちる男の向こうから、さらに二人、三人と笑顔の影が湧いてくる。
黒鉄が吼えながら、撃ち続ける。
一体倒すたびに、空いた穴を新しい影が埋めていく。きりがない。
澪も的確に応戦していた。けれど、その横顔にも、初めて険しさが差していた。
まずい。子供でも分かるくらい、まずい状況だった。
地獄だった。
澪が冷静に引き金を引き、黒鉄が低い姿勢で次々と的を仕留めていく。二人とも、明らかに修羅場に慣れていた。銃を撃つ手つきにも、身のこなしにも、まるで迷いがない。
だが、それでも追いつかない。
窓から。ドアから。割れた壁の穴から。化け物が、際限なく溢れてくる。
撃っても、撃っても、湧いてくる。
悪夢みたいだった。
撃たれて倒れた化け物が、もう動かない。それは確かだ。なのに、その向こうから、また同じ顔が現れる。何度でも。終わりが、まるで見えなかった。
しかも、そのどれもが、普通の人間の顔をしていた。
顔は、人間だ。完璧に、人間だ。
だからこそ、おぞましかった。
あの女にも、あの学生にも、ついこの間まで名前があった。暮らしがあった。笑ったり泣いたりしていたはずだ。それが今は、中身だけそっくり別物に入れ替わって、空っぽの笑顔で引き金を引いている。
あの主婦は、今ごろ本物はどこにいるんだろう。
あの学生にも、帰りを待つ家族がいたんじゃないか。
考えると、吐きそうになった。
こいつらは、人の形をした人の不在そのものだ。それが、笑いながら俺たちに銃を向けている。こんなものと、戦わなきゃいけないのか。
澪の言っていたことが、嫌というほど分かった。
こいつらは、見分けがつかない。誰も、味方かもしれない。誰も、化け物かもしれない。
すぐ目の前の床に、銃弾が突き刺さって木片が跳ねた。
ほんの数センチ、ずれていたら。
そう思うと、全身からどっと冷たい汗が噴き出した。
「真、こっち!」
海が俺の腕を引っぱって、転がるように壁の陰へ飛び込んだ。
二人で身を寄せ合って、ただ震えていることしかできない。海の手もがたがたと震えていた。
海の顔は、血の気が引いて真っ白だった。
こいつを、巻き込んでしまった。俺のせいで。
守るって、決めたばかりなのに。いざとなったら、俺は自分の体ひとつ動かせやしない。
歯がゆさで、どうにかなりそうだった。
「なんだよ、これ。なんなんだよ……!」
海が、泣きそうな声で呟く。
俺だって、同じ気持ちだった。
さっきまで親父の思い出に浸っていたこの場所が、今は銃声と硝煙と血の匂いで満ちている。
悪い夢だ。そう思いたかった。けれど、頬をかすめた銃弾の熱が、これは現実だと容赦なく突きつけてくる。
頬に、ぬるりとした感触。触れると、指が赤く濡れた。
破片で切ったのか、かすめられたのか。痛みすら、感じなかった。
それくらい、頭は限界まで張り詰めていた。
壁の陰からそっと顔を出すと、識が机を盾にして応戦していた。普段の気だるげな様子からは、想像もつかない。けれどその識ですら、額に汗を浮かべて表情を強ばらせている。
まずい。空気で分かった。みんな、ぎりぎりだ。
なのに俺は、ここで縮こまっているだけ。守られているだけだ。
握りしめた金属片が、手のひらでじんわりと熱を持つ。
親父が命懸けで遺したもの。こんなところで奪われてたまるか。
そう思っても、体はやっぱり動かない。
悔しかった。情けなかった。じわりと、涙がにじんだ。
こんな自分が、心の底から嫌になった。
戦える奴らは命を削って戦っている。
なのに俺は、ただ見ているだけ。鍵だの末裔だの、ご大層に呼ばれて。その実、こんなときに指一本動かせない木偶の坊だ。
みんなが、俺なんかのために。
その思いが、胸を錐みたいにえぐった。守られるだけの自分が、これほどみじめだとは思わなかった。
「弾が……もたねえ!」
黒鉄の声に、初めてはっきりとした焦りがにじんだ。
敵の数は、まるで減っていない。それどころか、増えている。
じりじりと、追い詰められていく。
部屋の隅へ、隅へと。逃げ場が、ひとつずつ潰されていくのが分かった。心臓が、痛いくらいに暴れている。
澪が小さく舌打ちして、新しい弾倉を叩き込もうとする。
だが、その一瞬の隙を化け物は見逃さなかった。
一体が倒れた仲間の上を踏み越えて――まっすぐ、澪へ向かう。
至近距離で、銃口が持ち上がった。
時間が、ぐにゃりと引き伸ばされた。
やめろ。撃つな。声にならない叫びが、喉でつかえる。
「澪!」
俺は叫んだ。けれど、足がすくんで、一歩も動けない。
助けなきゃ。澪が、殺される。
頭では分かっているのに、体がまるで石になったみたいだった。
情けない。こんなときに、何もできないのか。俺は。
澪が銃を構え直す。だが、遅い。間に合わない。
化け物の指が、ゆっくりと引き金にかかる。
にたりと吊り上がったその口元が、やけにはっきりと目に焼きついた――




