第10話 開かずの部屋
窓の下の連中は、いつまでも動かなかった。
ただこっちを見上げて立っている。
その静けさが、悲鳴より怖かった。襲ってくれたほうがまだましだ。何を考えているのかわからない人形が何十も、無言でこっちを見上げている。
最初に動いたのは黒鉄だった。
「裏口だ。来い。音を立てるな」
低く、短く。
俺たちは息を殺して、根城の奥の非常階段へ回った。レンがしんがりだ。銃口を後ろに向けたまま、じりじり下がってくる。澪の手を引いて階段を降りた。
一階の勝手口を出た、そのときだった。
背後でざわっと空気が動いた。
振り返らなくてもわかった。あいつらが、いっせいに首をこっちへ向けた。気づかれた。
「走れ!」
黒鉄が怒鳴った。
路地を抜けて塀を越えて、俺たちは無我夢中で走った。背中からたくさんの足音が追ってくる。揃いも揃って、同じリズムで。大勢の人間が走る音とは、何かが決定的に違った。
角を曲がるたびに、新しい人影が湧いて出た。
会社員風の男。買い物袋を提げた主婦。みんな同じ無表情で、同じ歩幅で、俺たちのほうへ寄ってくる。まるで街そのものが、ひとつの意思を持って俺たちを追っているみたいだった。
それでも俺たちは振り切った。
黒鉄が知っていた、古い排水路の入り口。そこに飛び込んで、重い鉄蓋を内側から落とす。
追っ手の足音が、蓋の向こうでぴたりと止まった。
誰もしばらく、口をきけなかった。
排水路の中は、ひんやりと暗かった。
懐中電灯の明かりだけが、濡れた壁を照らす。みんな肩で息をしていた。海は壁にもたれて、ずるずる座り込んでいる。
助かった。
でも、ちっとも安心できなかった。
俺の生まれ育った街が、まるごと一つ入れ替わっていた。煙草屋の婆さん。パン屋の店主。近所の子ども。全部、別の何かに中身を抜かれていた。本物はもう、どこにもいない。
あとどれだけ残ってるんだ。海は。識は。黒鉄は。
考えかけてぞっとして、その先を慌てて振り払った。
「澪」
俺は暗がりの澪に声をかけた。
自分でも驚くくらい低い声が出た。
「教えてくれ。俺は、何なんだ」
「真」
「ずっとはぐらかしてきただろ。俺が鍵だとか、一族最後の生き残りだとか。でも肝心なことは何も言わない。お前は知ってるんだろ。俺が本当は何なのか」
逃げてばかりは、もう終わりにしたかった。
守られて運ばれて、わけもわからないまま走らされる。そういうのはもう沢山だった。
長い沈黙のあと、澪が口を開いた。
「……言っても、たぶん真は信じられない」
「いいから言え」
「言葉で説明できるなら、とっくにそうしてる。でもこれは違う。教わって信じられる類いの話じゃない。真が自分で思い出すしかないの」
澪の声がわずかに震えていた。
いつも氷みたいに静かなこいつが、初めて見せる揺れだった。
「答えは、最初から真の中にある。あなたのご先祖が、いちばん大事なものを真の記憶のいちばん奥に封じた。誰にも盗めないように。真自身にも簡単には開けられないように」
「記憶の、奥に」
「あの地下の装置は、その鍵を少しずつ開けるための仕掛け。真が見てきた白い部屋の夢も、知らない声も、封印の隙間から漏れた本物の記憶」
俺の見ていた、あの夢。
子どものころからずっと繰り返し見てきた、知らない部屋と知らない声。あれが作りものの夢じゃなかった。俺自身の、忘れさせられた記憶だった。
「澪。お前、その鍵の開け方を知ってるんだな」
「……知ってる。でも」
「でも?」
「一度開けば、真は知る。この世界が本当はどうなってるのか。私がずっと隠してきたことも。それを知って、真が前の真でいられる保証はどこにもない」
「それでも、知りたい」
迷いはなかった。
怖くないと言えば嘘になる。でも、何も知らないまま守られているほうがずっと怖かった。
「やるよ。鍵を開ける」
「真。マジで言ってんのか」
海が青い顔で立ち上がった。
「やめとけよ。そんな得体の知れないものに頭を突っ込むのか。無事に戻れる保証なんて、ないんだろ」
「海」
「いや。止めても、お前もう行くんだろ」
海がくしゃっと笑った。
泣きそうな顔で、無理やり笑った。
「わかったよ。やれ。そのかわり、ぜったい戻ってこいよ。一人で勝手にどっか行くなよな」
黒鉄が俺の肩を一回叩いた。
何も言わない。でもその手が、行ってこいと言っていた。
レンは入り口へ銃を構えて、無言で背中を預けてくれた。見張りは任せろ、ということだ。
識が、自分の機材を澪の隣に並べ始めた。
「生体反応をモニターする。数値がヤバくなったら、強制的に引き戻す。それくらいの保険はかけさせろ」
胸の奥が熱くなった。
こいつらは誰も俺を止めなかった。代わりに全員が、それぞれのやり方で俺の背中を支えてくれた。
不思議だった。
ほんの少し前まで、俺は一人で何もできない荷物だった。誰かに守られて運ばれて、それが当たり前だと思っていた。なのに今は、こんなにたくさんの背中が俺の後ろにある。
怖さが、少しだけ薄まった。
澪が先に立って歩き出した。
排水路は、奥でもっと古い区画に繋がっていた。何十年も誰も通っていない、忘れられた地下の通路。その突き当たりに、それはあった。
分厚い、金属の扉。
前に一度、俺の血で開いた扉だった。
手のひらを、扉の中央のくぼみに押し当てる。
ちりっと針みたいなものが刺さる感触。一滴の血が吸い込まれて、低い駆動音とともに扉がゆっくり開いた。
その奥に、装置はあった。
白く光る、棺みたいな機械。
澪に促されるまま、俺はその中に身を横たえた。冷たい。背中から、得体の知れない何かがじわじわ染み込んでくる。頭の奥が、しびれるみたいに重くなっていく。
意識が、底のない水に沈んでいくみたいに、ゆっくり下へ引きずられた。
「目を閉じて。引っぱられる感覚があっても、抗わないで」
「ああ」
「真。怖くなったら、いつでも言って。すぐに止めるから」
目を閉じる。
最初は、ただの暗闇だった。
でも、すぐにその奥で何かが滲み始めた。
白い部屋だった。
夢で何度も見た、あの部屋。
窓のない、真っ白な空間。やわらかい光がどこからともなく満ちている。俺はその真ん中に立っていた。いや、立っているのはたぶん俺じゃない。もっと小さな、子どもの手をしていた。
誰かが俺の名前を呼んだ。
「真」
優しい、少しだけ掠れた声。
女の人の声だった。
顔は見えなかった。光が逆光になって、輪郭しかわからない。長い髪。細い肩。その人が、こっちへ手を伸ばしている。
聞いたことがあるようで、思い出せない。それなのに胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。懐かしさと、寂しさと、それから名前のつけられない強烈な何か。
声のほうへ振り向こうとした。
その瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。
白い部屋が剥がれ落ちた。
壁の向こう。床の下。空気そのものの裏側。
そこに、見えてはいけないものが見えた。
数字。文字。記号。
世界が、びっしりと数えきれない記号で織り上げられていた。机も椅子も、俺の手さえも。その下ではぜんぶ、流れ続ける文字列でできていた。これは現実じゃない。少なくとも、俺が現実だと思っていたものは、そういうふうに書かれていた。
文字列は、止まらずに流れ続けていた。
俺が手を動かせば、手の形をした記号の塊がそれに合わせて書き換わる。俺が息を吸えば、空気の場所の数字がふっと値を変える。何もかもが、誰かの計算の上で動いている。気持ち悪い。なのに、どこか腑に落ちる感覚もあった。ずっと感じていた違和感の正体に、ようやく触れた気がした。
目を上げれば、空のあるはずの場所にも継ぎ目が走っていた。世界はどこまでも、誰かの手で引かれた線で囲われている。識の言ったとおりだった。この世界は、造られたものだ。
頭の奥で、何かが弾けた。
もっと深く。もっと奥へ。あと一歩で、とてつもなく大きなものに手が届く。世界の正体。俺の正体。澪がずっと隠している、全部の答え。
もう少し。
あと、ほんの少しで。
それの正体が、輪郭を結びかけた。世界の仕組み。俺が背負わされたもの。澪が泣きそうな顔で隠してきた、その理由。全部が、一つの像になろうとして――。
ばちん、と。
目の前で、扉が閉じた。
跳ね起きた。
心臓が、痛いくらいに脈打っていた。
全身が汗でぐっしょりで、鼻の下が生温かい。手の甲で拭うと赤かった。鼻血だ。
目の前がぐらぐら揺れている。それでも頭の芯だけが、やけに冴えていた。さっき見たものが焼きついて離れない。
世界が、数字でできていた。
馬鹿げてる。寝言みたいな話だ。でも、あの感覚は本物だった。夢なんかじゃ説明のつかない、生々しいリアリティがあった。識が見つけた継ぎ目も箱も、嘘じゃなかったんだ。
モニターを睨んでいた識が、低く呻いた。
「今の、ほんの数秒だぞ。なのに生体反応が、振り切れる寸前まで跳ね上がった。これ以上踏み込んだら、本気で命に関わる」
澪が、俺の顔を覗き込んでいた。
その手が頬に伸びかけて――途中で止まった。
「……どこまで、見えたの」
澪の声が固まっていた。
その目が、信じられないものを見るみたいに揺れている。
「お前は」
俺は掠れた声を絞り出した。
「あの声、知ってるんだろ。俺を呼ぶ、あの女の人の声」
澪の肩がびくりと跳ねた。
それが、答えだった。こいつは知っている。あの声が、誰のものなのか。
「教えない」
「澪」
「今は、まだ。これだけは、私が言っちゃいけないこと。真が自分の力で思い出さなきゃ、意味がないから」
わかった、とは言えなかった。
でも、こいつが意地悪で隠してるんじゃないのは、痛いくらい伝わってきた。澪はずっと一人で、抱えきれないものを抱えてきた。それを俺に背負わせまいとしている。
俺は、震える自分の手を握りしめた。
あと一歩だった。あと一歩で、全部に手が届いた。次はきっと届く。そう思うと、怖さの奥から奇妙な高揚が湧いてきた。
俺はもう、運ばれるだけの荷物じゃない。
自分の足で、答えのところまで歩いていける。そう信じられた。
「真」
澪が、そっと俺の手に自分の手を重ねた。
「ありがとう。戻ってきてくれて」
初めてだった。
こいつが俺に礼を言ったのは。
胸が、じんと熱くなった。
なのに。
重ねられた澪の手は、ぞっとするほど冷たかった。
まるで、これから来る何かに怯えているみたいに。




