第11話 袋小路
地下に、ずっといるわけにはいかなかった。
鼻血はいつのまにか止まっていた。
でも頭の芯はまだ鈍く重い。さっき見たものが、瞼の裏にこびりついて離れない。世界が数字でできているなんて、寝言みたいな景色だった。それでも今は、ゆっくり考えてる場合じゃない。
澪もまだ本調子じゃなかった。
壁に手をついて、ようやく立っている。さっき俺の鍵を開けるために、こいつも何かを使い果たしたんだろう。二人そろってふらふらだ。
それでも、ここに長居はできなかった。
窓の下に集まったあいつらは、まだ街のどこかにいる。じっとしていれば、いずれ嗅ぎつけられる。動けるうちに、別の場所へ移らなきゃいけない。
「東の地下道が、隣の区画まで繋がってる」
黒鉄が古い地図を広げて言った。
「ここを抜ければ、いったん連中の網の外に出られる。立て直すのは、それからだ」
「歩けるか、真」
「ああ。問題ない」
強がりだった。
膝にまだ力が入りきらない。でもここで、足手まといになるわけにはいかなかった。澪に肩を借りる側からは、もう卒業したんだ。
地図を畳む黒鉄の、ごつい手を見ながら思う。
この人がいてくれて、本当によかった。親父の戦友で、無愛想で、歌が下手で。だけどいざというときは、必ずいちばん危ない場所に立ってくれる。こいつがいるかぎり、俺たちはきっと大丈夫だ。
地下道は、黴くさくて暗かった。
一列になって黒鉄を先頭に進む。澪を真ん中に挟んで、しんがりはレン。誰も無駄口を叩かない。自分の足音と呼吸の音だけが、濡れた壁に低く反響していた。
懐中電灯の光が照らすのは、せいぜい数メートル先まで。
その光の輪の外は塗りつぶしたみたいな闇だった。一歩進むごとに、闇が後ろで口を閉じていく気がする。
順調すぎる。
そう思った、その瞬間だった。
前を行く黒鉄が、ぴたりと足を止めた。
「……止まれ」
押し殺した声に、全身が凍りついた。
黒鉄の懐中電灯が照らす、地下道の分岐。
そこに、ぼうっと人影が立っていた。
一つじゃない。
暗がりの奥から、ぞろぞろといくつもの影が湧き出してくる。みんな同じ無表情で、こっちをまっすぐ見ていた。煙草屋の婆さんの小さな影もその中に混じっている。挨拶したパン屋の親父も。よく一緒のバスに乗った女も。全員、もう中身は別物だ。
嫌な予感がして、振り返る。
来た道のほうにもいつのまにか影が満ちはじめていた。
前と、後ろ。両方から、ぴったりと挟まれていた。
「嵌められた」
黒鉄が唸るように言った。
待ち伏せだ。この地下道に追い込むために、連中はわざと逃げ道を空けておいた。俺たちは網の外に出るつもりで、いちばん深い網の中へ、自分の足で歩いて入ってきたんだ。
逃げ込んだ通路が、そのまま墓穴だった。
影は、急がなかった。
もう逃げられないと、わかっているみたいに。揺れる懐中電灯の光の中を、ゆっくりと両側から距離を詰めてくる。その静けさが、何より恐ろしかった。
悲鳴も雄叫びもない。
ただ、たくさんの足が同じリズムで近づいてくる音だけがした。
ぞわっと鳥肌が立った。
「真!澪を連れて、横の通路へ走れ!」
黒鉄が叫ぶと同時に、レンのライフルが火を噴いた。
乾いた銃声が狭い地下道に何度も反響する。先頭の影が膝から崩れ落ちた。でも止まらない。倒れた仲間を平気で踏み越えて、残りが一気に距離を詰めてくる。
黒鉄が前に出た。
鉄塊みたいな大剣を低い姿勢から薙ぎ払う。迫っていた一体が上半身ごと吹き飛んで壁に叩きつけられた。返す刃で、もう一体を斬り伏せる。その動きには一切の無駄がなかった。
退役兵。
親父の戦友。その肩書きが伊達じゃないことを、初めて目の当たりにした。
その背中はでかくて頼もしい。いつもの俺なら、そこに隠れていればよかった。
でも、今日は違った。
横合いから、一体が海に飛びかかった。
戦いの素人の、データ整理しかできない海に。
考えるより先に、体が動いた。三日間、黒鉄に叩き込まれた動き。半分も身についていない、不格好な踏み込み。それでも俺は海の前に割り込んで、拾った鉄パイプを相手の側頭部に叩き込んだ。
鈍い手応えが腕の芯まで返ってくる。
相手がよろめいた。倒せはしない。でも、ひるませた。
空き家で固まっていたときの俺なら、ここで何もできなかった。海が引き裂かれるのを、ただ見ていることしかできなかった。
今は、違う。
怖い。手は震えてる。それでも、動ける。
「海!識から離れるな!」
「真、お前――」
「いいから動け!」
怒鳴ってから、すぐに自分の限界を思い知った。
守れたのは、ほんの一瞬だけ。
次の瞬間、別の一体の爪が海の肩を裂いた。布が破れて、血が滲む。海が短く悲鳴をあげて、たたらを踏んだ。俺は手を伸ばす。届かない。間に、もう一体が割り込んでくる。
黒鉄が割って入らなければ、海はそこで終わっていた。
でかい腕が海をひっつかんで、後ろへ放り投げるように下がらせる。
「ガキども、固まるな!一人ずつ食われるぞ!」
識は震える手で機材を抱えたまま、壁際にうずくまっていた。
戦えない。こいつにできるのは、世界の数字を読むことだけだ。今この瞬間、その頭脳は何ひとつ役に立たない。
一体がその識へ手を伸ばした。
すかさず、レンの銃声が走る。
ファントムの頭が弾けて、識のすぐ手前で崩れ落ちた。レンは表情ひとつ変えず、もう次の標的へ銃口を流していた。たった一人で、入り口の半分を押さえている。
でも、それでも足りなかった。
倒しても倒しても、影は減らない。一体の向こうに二体、その奥にまた、数えきれない影が暗い通路を埋め尽くしている。じりじりと俺たちは奥の壁際へ追いやられていった。
俺の二の腕にも爪が掠った。
焼けるみたいに熱い。けど、痛がってる暇はなかった。
「こっちだ!走れ!」
黒鉄がしんがりで食い止めて、その隙に、全員で横の通路へ走り込む。
走って、すぐに後悔した。
行き止まりだった。
突き当たりは、崩れ落ちた瓦礫の壁。天井まで土砂が詰まって、よじ登れる隙間もない。
完全な、袋小路だった。
「くそっ……!」
識が悲鳴みたいな声をあげた。
壁を、必死で叩いている。びくともしない。
背後の通路からは、影がじわじわと押し寄せてくる。狭い道だから、一度に来られるのは数体ずつ。レンが入り口に銃口を向けて、来る端から正確に撃ち落としていく。それでも、数が違いすぎた。一体倒すあいだに、二体湧く。レンの弾だって、もう無限じゃない。
カチ、と乾いた音がした。
弾切れの音だ。レンが無言で予備の弾倉に手をやる。その一瞬の隙にも、影は迫ってくる。
澪を背中にかばって、俺は鉄パイプを握り直した。
手のひらが、汗で滑る。心臓がうるさい。怖い。素直に、死ぬほど怖い。
でも、足はもう、逃げる方向を探していなかった。
「真」
背中で、澪がかすれた声を出した。
振り向くと、こいつは壁にもたれて、ずるずると崩れ落ちるところだった。顔は紙みたいに白い。もう、立っていることすらできなくなっていた。
「澪!?」
「平気。ちょっと、力が入らないだけ」
平気なわけが、なかった。
さっきのダイブ。途切れない逃走。こいつの中の何かが、とっくに限界を越えている。俺を答えへ導くために、澪はずっと、自分自身をすり減らし続けていたんだ。
その横顔を見ていたら、胸が締めつけられた。
こんなに小さくて、ぼろぼろなのに。それでもこいつは、最後まで俺を突き放さなかった。
「ごめん」
澪が消え入りそうな声で言った。
「私が、お前をここまで連れてきた。なのに守れなくて、ごめん」
「謝るな」
俺はその冷たい手を握った。
「逆だろ。ずっとお前が、俺を守ってくれてた。今度は、俺の番だ」
言いながら、自分でも少し笑えてきた。
こんな状況で、何を格好つけてるんだ。届く保証なんて、どこにもないくせに。それでも、この手だけは、絶対に離したくなかった。
もう、逃げ場はどこにもなかった。
前には、崩れた瓦礫の壁。
後ろには、迫りくる人の顔をした化け物の群れ。
レンの弾も、そろそろ尽きる。黒鉄も、さすがに息が上がりはじめていた。何十体いるのかもわからない影が、じりじりと、確実に距離を詰めてくる。
海が痛む肩を押さえながら、それでも俺の隣に並んだ。
識も震えながら、折れた鉄筋を拾って構える。
全員、絶望していた。それでも、誰一人、背中を見せなかった。
だから俺も、澪の前に立った。
震える手で、鉄パイプを構える。
守られるだけの荷物は、もう卒業したはずだった。だったら、ここで証明するしかない。たとえこの手が、最後まで何にも届かなくても。
地下道に、一瞬、奇妙な静寂が落ちた。
俺たちの荒い息と、滴る水の音だけ。
たくさんの目が、こっちを見ていた。人間のものじゃない、空っぽの目が。
先頭の一体が、にたりと笑った。
口だけで。
目は、まるで笑っていなかった。
そして、群れがいっせいに、こっちへ動きはじめた。




