第12話 擬態
群れが、動いた。
俺は鉄パイプを構えた。
澪を背にかばって、せめて一体でも道連れにしてやると歯を食いしばる。
でも、覚悟した衝撃は来なかった。
先頭の影が、俺たちのすぐ手前でぴたりと足を止めたからだ。
一体だけじゃない。
数十体の群れが見えない壁にぶつかったみたいにいっせいに止まった。
なんだ。
何が起きてる。
わけがわからずに俺は周りを見回した。
そして、気づいた。
黒鉄が剣を下ろしていた。
あれだけ暴れていた男が、だらりと腕を垂らして突っ立っている。息も切らしていない。汗もかいていない。さっきまでの激闘が、まるで嘘みたいだった。
そして影たちは、黒鉄には一歩も近づこうとしなかった。
まるで、味方にそうするみたいに。
いや。
するみたいに、じゃない。
あいつらにとって、黒鉄は本当に味方なんだ。
「……黒鉄?」
俺の声に黒鉄がゆっくり振り返った。
体が動かなかった。
頭が目の前の光景を拒んでいた。
そんなはずがない。これは俺の知ってる黒鉄じゃない。誰かがこいつの顔をして、たちの悪い冗談をやってるんだ。
でも、心の底ではわかっていた。
あいつらの見分け方を、いちばんよく知ってるのは俺だ。澪に最初に教わった。口は笑っていても、目だけは笑わない。
そして今、目の前の男の目は完璧に、その通りだった。
笑っていた。
いつものぶっきらぼうな笑い方じゃない。
口の端だけを、にたりと吊り上げて。
目は、これっぽっちも笑っていなかった。
俺がいちばん最初に教わった化け物の顔。それが、いちばん信じていた男の顔に、べったりと貼りついていた。
「嘘だ」
声が勝手に漏れた。
「嘘だろ。黒鉄。お前、何やってんだよ。何の冗談だよ」
「冗談じゃねえよ、坊主」
黒鉄の声は、いつもと同じだった。
低くてざらついた、聞き慣れた声。
その変わらなさが、よけいに恐ろしかった。
「ずっと、こうしてお前のそばにいた。お前を守ってるふりをしながらな」
「……いつから、だ」
「最初からだよ。お前の親父の戦友なんてのは、とっくの昔にくたばってる。俺はその面を被って、お前に近づいた。それだけのことだ」
頭が真っ白になった。
俺の知らない親父の話をしてくれた、あの夜。地獄みたいにしごかれた、毎朝の訓練。世界は造られてると識が言ったとき、体を作るのが先だと俺を止めた、あの言葉。
ぜんぶ。
最初の一日から、ぜんぶ作りものだったのか。
隣で、澪が小さく息を呑むのがわかった。
こいつでも、知らなかったんだ。黒鉄がファントムだってことを。
これだけ多くを知っている澪が、それでも見抜けなかった。それくらい、こいつの擬態は完璧だった。
「言っただろう。仲間を疑い始めたら、その時点で負けだ、ってな」
黒鉄がにやりと笑った。
「いい教えだろう。おかげでお前らは最後まで、いちばん近くの化け物を疑わずにいてくれた」
「ふざけるな!」
気づいたら叫んでいた。
「親父の話、嘘だったのか。一緒に飯食ったのも、しごかれた訓練も、ぜんぶ!お前、俺たちのこと、ずっと笑って見てたのかよ!」
「笑ってなんかいねえよ」
黒鉄が肩をすくめた。
「ただの仕事だ。お前を逃がさないために、いちばん近くにいる必要があった。お前の頭の中には、俺たちの欲しいものが入ってる。お前は、それを運ぶための器でしかない」
なんでもないことみたいにこいつは言ってのけた。
その軽さが、何より腹立たしくて、何より悲しかった。
俺が憧れて背中を追いかけたものは、最初から、どこにも無かった。
器。
そうか。俺はこいつにとって、ただの入れ物だったのか。
最初に動いたのはレンだった。
無言で銃口を黒鉄に向ける。
迷いはなかった。ためらいもなかった。引き金にかかった指が、ぴくりとも震えていない。
でも、黒鉄のほうがわずかに速かった。
何が起きたのか、目で追えなかった。
気づいたときには、レンの体は背後の壁に叩きつけられていた。
ずるりと崩れ落ちる。
手から離れたライフルが、乾いた音を立てて床を滑った。
「レン!」
俺は駆け寄ろうとした。
でも、足が動かない。群れがまた、じりじりと距離を詰めはじめていた。
壁にもたれたレンが、薄く目を開けてこっちを見た。
いつも能面みたいだった顔に、初めて、人間らしい何かが浮かんでいた。
「……疑って、わるかったな」
俺は思わずそう口にした。
あんなに疑ったのに。仲間じゃないかもって、心のどこかで思ってたのに。
ファントムを狩る、得体の知れない新参者。みんなが一抹の疑いを抱いていた女。でも、ほんとうは逆だった。最後まで戦って、俺たちを守ろうとしたのは、こいつだった。誰よりも人間だったのは、レンのほうだったんだ。
レンは何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ口の端を上げた。
それが、こいつの見せた最初で最後の、ちゃんとした笑顔だった。
そして動かなくなった。
信じられなかった。
あんなに強かったレンが、こんなにあっけなく。
でも、悲しむ時間さえ与えてもらえなかった。
レンの死が、合図みたいだった。
止まっていた群れがいっせいに動き出した。
黒鉄が顎をしゃくる。たったそれだけで、影たちが俺たちに襲いかかってきた。
もう、押さえる銃はない。
前に立ちはだかる剣もない。
俺の鉄パイプ一本で、止められる数じゃなかった。
「識!後ろだ!」
叫んだときにはもう遅かった。
壁際にうずくまっていた識に、二体の影が同時に飛びかかる。
短い悲鳴。
それがぷつりと途切れた。
振り返ったときには、識の姿はもう、影に埋もれて見えなくなっていた。
計算に合わない、が口癖だった男。世界の秘密に、いちばん最初にたどり着いた頭脳。あの夜、地面がひび割れる気がしたあの発見も、もう誰にも語られない。
涙も出なかった。
頭が、現実にまるで追いついていない。
「真!こっち来い、こっちだ!」
海の声がした。
崩れた瓦礫のいちばん端。わずかな窪みに体を押し込んで、海が必死で手招きしていた。肩から、血をだらだら流しながら。さっきファントムに裂かれた傷だ。痛くないわけがない。それでも海は、自分のことなんかそっちのけで俺を呼んでいた。
いつもそうだ。
こいつはいつだって、自分より先に、俺の心配ばかりしてる。
俺は澪を抱えて、夢中でそっちへ走った。
頼む。間に合ってくれ。せめて、こいつだけは。海だけは、絶対に。
あと少し。あと少しで、海の手に届く。
その背後から、音もなく、影が伸びた。
「海、後ろ!」
俺の絶叫に海が振り返る。
でも、もう遅かった。
海は影を見た。それから俺を見た。
逃げようとも、しなかった。
ただ俺を見て、いつもみたいにへらっと笑った。泣きそうなのに、どこか心からほっとしたような、そんな顔で。
「よかった。お前が、無事で」
それが最後の言葉だった。
次の瞬間、いくつもの影が海に覆いかぶさった。
俺の手は、ほんの数十センチのところで、何も掴めないまま空を切った。
届かなかった。
いちばん守りたかったやつに、最後の最後まで、俺の手はまるで届かなかった。
時間が、止まった気がした。
海がいた場所には、もう何もなかった。
さっきまで笑っていたやつが。子どものころから、ずっと一緒だったやつが。俺が、絶対に守るって決めたやつが。
いなくなった。
たった一瞬で。守ることも、できないまま。
ずっと、守るって言ってたのに。
強くなるって、決めたのに。
黒鉄に頭を下げて、戦い方を教わって。それでも、いざというとき、俺は海一人守れなかった。
あの訓練さえ、嘘の男から教わったものだった。
俺が必死で積み上げてきたものは、いったいなんだったんだ。
俺の手は、やっぱり何にも届かなかった。
膝から力が抜けた。
その場に崩れ落ちそうになる。澪が俺の腕を、弱々しく掴んでいなかったら、たぶんそうしていた。
気づけば、立っているのは俺と澪だけだった。
レンも識も海も、もういない。
ついさっきまで、肩を並べて笑っていたのに。あんなに賑やかだった仲間が、ほんの数分で、一人残らずいなくなった。
澪は何も言わなかった。
ただ、俺の腕を掴む手に、わずかに力がこもる。
こいつも、声を殺して震えていた。
二人だけ。
広い地下道に取り残されたのは、ぼろぼろの俺と、立つこともできない澪。それだけだった。
黒鉄がゆっくりと歩いてくる。
群れを従えて。あの、目の笑わない笑顔のまま。
「悪く思うなよ、坊主。俺が欲しいのは、お前の頭の中身だけだ。澪、お前は余計だがな」
逃げ場はない。
戦う力もない。
守るべきだったものは、もうほとんど、何も残っていない。
ただ一つ、腕の中の澪をのぞいて。
俺は、震える腕でその一人を、力いっぱい抱きしめた。
たとえ何があっても、こいつだけは。
もう、ほかに何も残っていないこいつだけは、絶対に渡さない。
そう心に決めて、俺は迫りくる化け物をただ睨みつけた。




