第13話 あの朝
黒鉄が、澪に手を伸ばした。
その動きには何の感情もこもっていなかった。
道端のゴミでも片づけるみたいに、無造作に。立つこともできない澪の細い首へ向かって、ごつい手が伸びていく。
間に合わない。
頭のどこかで冷静にそう判断していた。
それでも考えるより先に体が動いた。
俺はありったけの力で澪を突き飛ばした。
そして、空いたその場所へ自分の体を滑り込ませた。
黒鉄の手は止まらなかった。
熱い、と思った。
一拍遅れて痛みが来た。
腹のあたりに、焼けた鉄の棒を突っ込まれたみたいな感覚。見下ろすと、黒鉄の太い腕が俺の体をまっすぐ貫いていた。
ああ、そうか。
俺は、貫かれたのか。
不思議と、痛みより先に納得が来た。
ずっと守られてばかりの荷物が、最後の最後にこういう役に立てたなら、それでよかったのかもしれない。
息がうまく吸えない。
口の中に鉄の味が広がる。何か温かいものが、喉の奥からせり上がってきた。
「……何やってんだ、坊主」
黒鉄の声が、初めて少しだけ揺れた気がした。
俺を殺すつもりはなかったんだろう。欲しいのは俺の頭の中身だ。器が勝手に飛び込んでくるなんて、あいつの計算にはなかったはずだ。
ざまあみろ。
俺は血の混じった息で、なんとか笑ってやった。
「ばか、が……」
守れた。
たった一人だけど、守れた。
ずっと運ばれて、守られて、隅っこで誰かを待ってるだけだった俺が。最後の最後に、自分の足で立って自分の意志で、誰かの前に立てたんだ。
それだけで、もう充分だった。
悔いなんて、これっぽっちもなかった。
「真!」
澪の悲鳴がやけに遠くで聞こえた。
突き飛ばしたはずの澪が、いつのまにか崩れる俺の体を抱きとめていた。
ろくに力の入らない腕で、それでも必死に。
その顔がぐしゃぐしゃに歪んでいた。
いつも氷みたいに静かで、何を考えてるのかわからなかったこいつが。今は子どもみたいに声を上げて泣いていた。
「なんで。なんで庇ったの。あんた、死ぬよ。こんなの、死んじゃうよ」
「お前を死なせるよりは、ましだろ」
なんてことを言ってるんだ、俺は。
こんなキザな台詞、自分でも笑える。柄じゃない。でも不思議と後悔はなかった。
「やだ。やだよ。今度は私が真を助ける番なのに。私、まだ何も返せてないのに」
「返すとか、いいんだよ。そんなの」
俺はかすれた声を絞り出した。
「お前は、ずっと一人で全部背負ってきたんだろ。その重さを、ちょっとも誰かに分けずに。だったら一回くらい、俺が背負ったっていいじゃねえか」
「よくない。よくないよ。ぜんぜん、よくない」
澪が何度も首を振る。
ぼたぼたと、温かい涙が俺の頬に落ちてきた。
「真が死んだら、私、また一人ぼっちになる。せっかく、せっかく見つけたのに」
その言葉が胸に刺さった。
ああ、こいつはずっと怖かったんだ。
一人になることが。やっと見つけた誰かを、また失うことが。
だからこいつは最初、あんなに冷たかった。誰にも心を開かなかった。近づけば、いつか失うから。
なのに今、こいつは俺のためになりふり構わず泣いている。
それがたまらなく嬉しくて、たまらなく悲しかった。
もっと早く、こうやって笑い合えていたら。
もっと早く、こいつの抱えてるものに気づいてやれていたら。
でも、もう遅い。俺の時間は、ここで終わる。
ごめんな、と心の中でつぶやいた。
海。識。レン。
お前たちのことは、何ひとつ守れなかった。なのに俺だけが、こうして誰かの腕の中で最後を迎えてる。
ずるいよな。ほんとに、ずるい。
視界が端のほうから白く滲んでいく。
ああ、これで終わりか。
そう思った、そのときだった。
体のいちばん奥で、何かがぐにゃりと弾けた。
ダイブのとき、あと一歩で届かなかった、あの感覚。
ご先祖が俺の記憶の底に封じたという、いちばん深い場所。その扉が、死にかけた俺の中でひとりでに開いた。
頭の中にあの景色が一気に広がる。
白い部屋。俺の名を呼ぶ、優しく掠れた女の声。そして、世界そのものの裏側を織り上げる、数えきれない文字と数字の流れ。
でも今度はダイブのときの比じゃなかった。
はっきりと見えた。
この世界が、どんなふうに書かれているのか。
一文字ずつ。一行ずつ。世界を成り立たせている、その設計図のすべてが。
そして、わかってしまった。
その文字をどう並べ替えれば、世界を書き換えられるのか。
怖さは、もう無かった。
ただ、ひとつの確信だけがあった。
この世界は、変えられる。間違ったこの結末を、無かったことにできる。封じられていたこの力は、たぶん、そのためにあったんだ。
死にかけた俺の意識が、その流れにそっと指先で触れた。
現実の、いちばん底。
誰かが書いた、世界の根っこの部分。そこに、消えかけた俺の手がかろうじて引っかかった。
書き換えられる。
今なら。命がこぼれ落ちる、この一瞬なら。
戻れ。
俺はありったけの想いで、そう願った。
こんな結末は間違ってる。みんなが死ぬ世界なんて、こんなもの書き換えてしまえ。
戻れ。あの、何も知らなかった朝へ。
みんながまだ笑っていた時間へ。
海がくだらない冗談を飛ばして。識が計算に合わないって唸って。黒鉄が下手な歌を歌って。レンが無言で夜の見張りに立っていた、あの馬鹿みたいに賑やかな日々へ。
頼む。
頼むから、戻してくれ。
光が、爆発した。
世界が内側から真っ白に塗りつぶされていく。
黒鉄も。群れも。冷たい地下道も。腕の中の、澪の泣き顔さえも。
何もかもが、まばゆい白の中に溶けて消えていった。
音が消えた。痛みも消えた。
澪の泣き声も黒鉄の足音も、何もかもがまっしろな静けさに飲み込まれていく。
意識が、ふっと途切れた。
目を、覚ました。
最初に見えたのは天井だった。
見慣れた、安アパートのしみだらけの天井。
俺の、部屋だ。
心臓がどくんと跳ねた。
弾かれたように飛び起きて、自分の体を見下ろす。
腹に、穴は空いていない。血も流れていない。シャツも破れていない。
どこにも、傷ひとつなかった。
夢。
今のは、夢だったのか。
全身からどっと汗が噴き出した。心臓が、まだ激しく鳴っている。荒い息を必死で整えた。
あんなにリアルな悪夢を見たのは、生まれて初めてだった。
黒鉄が裏切って。レンが斃れて。識が消えて。そして、海が。
仲間が目の前で一人残らず死んでいく、最低最悪の夢。
枕元でスマホが短く鳴った。
まだ震えている手で画面を覗き込む。
海からの、メッセージだった。
『おーい、まだ寝てんのか?昼めしどうする』
いつもの、くだらない用件。
いつもの、海だ。
生きてる。
海が、ちゃんと生きてる。
画面の文字が、じわりとにじんだ。
あいつの間延びした声が、聞こえてくるみたいだった。昨日まで当たり前にそこにあって、もう二度と取り戻せないと思ったもの。それが今、何事もなかったみたいに、俺のスマホの中で生きている。
次の瞬間、涙が勝手にこぼれ落ちた。
なんで泣いてるのか、自分でもわからない。ただの夢を見ただけなら、こんなに泣く理由なんてどこにもないはずだ。
でも、体のほうが覚えていた。
海が影に呑まれた、あの瞬間の空っぽの感覚を。あと数十センチで何も掴めずに空を切った、あの絶望を。
あれが、ただの夢だったなんて。
どうしても、そうは思えなかった。
俺は、スマホの日付をもう一度よく見た。
その瞬間、背筋が凍りついた。
今日は、あの日だった。
俺が、銃を持った澪と出会う、いちばん最初の日。何もかもが始まる、その日の朝に時間は戻っていた。
じっとしていられなかった。
俺は、靴も履かずに部屋を飛び出した。
確かめなきゃいけなかった。これは夢なのか、現実なのか。あの長い悪夢が、本当にただの夢で済むのか。
息を切らして走った。
あの日、澪と出会ったあの場所へ。
壊れた自販機の前。化け物に追われて、銃を構えた女と初めて鉢合わせた、あの薄暗い路地へ。
そこに、澪がいた。
まだ、出会ってすらいないはずの澪が。
俺の名前も知らないはずのこいつが、路地の真ん中に立って、まっすぐ俺を見ていた。
その顔を見た瞬間、何もかもわかってしまった。
澪の目は、真っ赤だった。
ついさっきまで泣きはらしていた、人間の目だった。
地下道で俺を抱きしめて、声を上げて泣いていた、あのときのままの目で。
俺はふらふらと澪に近づいた。
まだ一度も出会っていないはずなのに、こいつのことを俺は全部知っていた。名前も。声も。抱えこんだ痛みも。
澪もまた、同じ目で俺を見ていた。
言葉なんて、いらなかった。
お互いの目を見れば、それで全部わかった。同じ地獄を見て同じものを失って、二人だけがここに取り残された。
夢じゃ、なかった。
もしこれが夢なら、こいつのこの顔の説明がどうやってもつかない。
澪も、覚えてるんだ。
あの地下道を。仲間が死んでいったことを。俺が黒鉄に貫かれたことを。
ぜんぶ、覚えてる。
俺たちはしばらく、一言も発せずに見つめ合っていた。
やがて、澪の唇が震えながら開いた。
「……戻った、の」
それは問いかけじゃなかった。
答えをもう知っている、人間の声だった。
「澪」
俺は、ようやく声を出した。
「お前も、覚えてるんだな。あの地下道のこと。みんなが死んだことも、全部」
「覚えてる」
澪が、小さくうなずいた。
「夢でも、見間違いでもない。私たちは本当にあの先まで行って、そしてここに戻ってきた」
その声は震えていた。でも、まなざしだけはまっすぐだった。
戻った。
あの、何も知らなかった朝に。
みんなが、生きている。
海も。識も。レンも。あの絶望の夜が、まるごとなかったことになっている。
でも、それを覚えているのは、この広い世界でたった二人きり。
俺と、澪だけだ。
何が起きたのか、まだ何ひとつわからない。
どうして時間が巻き戻ったのか。どうして俺たちだけが覚えているのか。これから、いったい何が起きるのか。
わからないことだらけだった。
それでも、不思議と絶望はしていなかった。
あの最悪の夜を、俺たちは一度くぐり抜けた。そして、ここに戻ってきた。仲間は、まだ誰も死んでいない。やり直せる場所に、俺たちは立っている。
今度こそ、守ってみせる。
海も識もレンも。隣で震えてるこいつも。もう、誰一人として失わない。
そのために、俺はこの力の正体を、ぜんぶ突き止めてやる。
ただ、一つだけはっきりしていることがある。
俺たちの本当の戦いは、まだ終わっていない。
いや。
本当の意味では、たった今、ここから始まったんだ。
これで第一楽章は終わりになります。ここまで読んでいただきありがとうございます。
第二楽章からは毎日22時に1話を終わりまで投稿予定です。
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