第14話 初対面
路地に立ち尽くしたまま俺はしばらく動けなかった。
戻った。
時間が本当に巻き戻った。
頭ではわかっても、心がついてこない。ついさっき、俺はあの地下道で黒鉄に腹を貫かれて死んだはずだった。仲間が目の前で次々に消えていったはずだった。
なのに今俺の体には傷一つない。
空は青くて街は静かで、どこにも血の匂いなんてしない。
悪い夢から覚めたあとみたいに、世界はけろりとした顔をしていた。
覚えているのは俺と、目の前のこいつだけ。
「澪」
「うん」
「説明してくれ。何が起きたのか、全部」
「わかった。ちゃんと、全部話す」
澪が静かにうなずいた。
あれだけ何を訊いてもはぐらかしてきたこいつが、今は逃げなかった。
でも、その前に。
俺にはどうしても確かめたいことがあった。
「その前に、一つだけ」
俺は震える声で言った。
「海に、会ってくる」
海の家は俺のアパートから歩いて十分の、古い一軒家だった。
走って向かった。
息が切れても、止まらなかった。
会って、どうするのか。自分でもわからなかった。ただ、この目で確かめたかった。あいつが本当に生きているのかを。
チャイムを鳴らす前に、玄関の戸が開いた。
海が出てきた。
生きていた。
肩に傷一つない。血も流れていない。へらへらした、いつものしまりのない顔でそこに立っていた。
「お、なんだよ真。連絡したのに無視しやがって。昼めし――」
最後まで、言わせなかった。
俺は海に抱きついていた。
自分でも、何をやってるのかわからなかった。ただ、体が勝手に動いた。
「うわっ、なんだよ。きもいぞ、お前」
海が戸惑った声を上げる。
でも、振りほどかなかった。
温かかった。
ちゃんと生きてる体温だった。地下道で俺の腕の中から消えていった、あの感触が嘘みたいに。
「お前、生きてんな」
「は?当たり前だろ。何言ってんだお前、寝ぼけてんのか」
当たり前。
そうだ。海にとっては当たり前なんだ。
こいつは、覚えていない。
俺を逃がすために、自分の身を盾にしたことを。影に呑まれる寸前にへらっと笑って、「よかった、お前が無事で」と言ったことを。
全部こいつの中には、無い。
あんな顔で死んでいったのに。俺のために命を投げ出したのに。
それを覚えているのは、世界でたった一人俺だけだった。
「なあ、海」
「なんだよ」
「お前はいいやつだよ。ほんとに」
「……気持ち悪いって。熱でもあんのか?」
海が本気で心配そうな顔をした。
俺は笑った。
泣きそうになるのを、必死でこらえながら。
じゃあな、と手を振って、俺は海に背を向けた。
歩きだしてすぐ、こらえていたものが目尻からこぼれた。
よかった。
ほんとに、よかった。お前が生きてて。
たとえお前が何も覚えてなくたって。あの夜のことを知ってるのが俺だけだって、それでいい。お前が、こうしてのうのうと昼めしの心配なんかしてられるなら。
海と別れて、俺は澪のところへ戻った。
近くの寂れた公園のベンチ。
誰もいない。ブランコが風で少しだけ揺れていた。
俺は澪の隣に腰を下ろした。
「確かめてきた。海は生きてた。何も覚えてなかった」
「うん」
「なあ、澪。そろそろ、教えてくれ。全部だ」
俺はまっすぐこいつを見た。
「あの夢みたいなことが、なんで起きたのか。なんで、俺とお前だけが覚えてるのか。この世界が本当はどうなってるのか」
「長い話になる」
「かまわない。何時間でも聞く」
澪は、しばらく黙っていた。
膝の上で両手をぎゅっと握りしめて。
やがて、覚悟を決めたみたいに口を開いた。
「まず、いちばん信じられないことから言う」
澪の声は静かだった。
「この世界は、本物じゃない」
「本物じゃ、ない?」
「正確に言うと、現実じゃない。全部計算で作られた世界。真が立ってる地面も、吸ってる空気も、見上げてる空も。ぜんぶ、どこかの機械の中で数字として動いてるだけ」
ダイブのときに見たあの景色がよぎった。
世界の裏側を織り上げる、数えきれない文字の流れ。机も椅子も、俺の手さえも、その下では数字でできていた。
あれは、比喩でも幻でもなかったのか。
俺たちは本当に、作りものの世界の中で生きていた。
「識が言ってただろう。世界が計算され尽くしてるって。継ぎ目があるって。あいつは正しかった。気づいちゃいけないものに、気づいてしまっただけで」
頭がくらくらした。
じゃあ、と俺は思う。
俺は。海は。この街のみんなは。
「待ってくれ。それじゃ、俺たちは何なんだ。作りものの世界の、ただの人形ってことか?」
「違う」
澪は、はっきりと首を振った。
「真たちは人形なんかじゃない。ちゃんと心がある。痛みも喜びも、ぜんぶ本物。年を取って誰かを好きになって、死ねば二度と戻らない。中身はまぎれもなく人間。ただ、住んでる場所が現実じゃないってだけ」
その言葉に少しだけ、救われた気がした。
海は、人形じゃない。
あいつの優しさも、あの最期の笑顔もぜんぶ本物だった。
でも同時に、もっと怖くなった。
本物なら。
本物の人間なら、あいつが死んだのは本物の死だったってことだ。
「だから、なんだな」
「うん?」
「だからお前は前に言ったんだな。電脳世界では、死は本当に取り返しがつかない、って。地下道で死んだ海も、識も、レンも。あれは、夢でも演技でもなくて本物の死だった」
「……そう」
澪の目が少しだけ伏せられた。
「あの子たちは本当に死んだ。あの時間の中で。それは、消えない事実」
俺は街のほうに目をやった。
遠くで、誰かが洗濯物を干している。子どもが自転車で走っていく。みんな、自分が作りものの世界にいるなんて思ってもいない。俺がついさっきまでそうだったように。
この当たり前の景色の一つ一つが、誰かの計算の上で動いている。
考えると、足元が崩れそうになった。
「でも」
澪が顔を上げた。
その目には、かすかだけど光があった。
「死は、取り返しがつかない。それがこの世界のルール。でも私たちには、そのルールを丸ごとひっくり返す、たった一つの例外がある」
「例外?」
「さっき、真が使った力。世界を巻き戻す力」
心臓が跳ねた。
あの、死ぬ間際に触れた世界の設計図。あれを書き換えた感覚。
「真のご先祖が、真の記憶の奥に封じたもの。それが、世界そのものを書き換える鍵。お前が死にかけたとき、その力が暴走して、世界の時間を巻き戻した。みんなが、まだ生きてる地点まで」
「それが、この朝、ってわけか」
「そう。私が、真と初めて会った日。あの瞬間が、巻き戻りの基準点になってる」
じゃあ、と俺は思った。
あの絶望は。みんなの死は。
「やり直せる、ってことか」
「うん。やり直せる」
「何度でも、ってわけじゃないんだな」
「うん。それは、また話す。とにかく、無限に巻き戻せるわけじゃない。それだけは、頭に入れておいて」
その言い方に、何か、嫌な引っかかりを感じた。
でも、今はまだ、深く訊かなかった。
息が、止まりそうになった。
海が、生きてる理由。
それは、奇跡なんかじゃなかった。
俺が、この手で、世界を巻き戻したからだ。
「ただし、もう一つ条件がある」
澪の声が少し低くなった。
「巻き戻った時間のことを覚えていられるのは、私と、真だけ。ほかのみんなにとってさっきまでの時間は、最初から無かったことになる。海も識も、レンも黒鉄も。あの地下道のことは、誰も覚えてない」
「だから、海は」
「うん。真のことを、ただの幼馴染としか思ってない。あの子がお前のために死んだことも、あの子自身知らない」
胸が締めつけられた。
さっきの海の不思議そうな顔。
あれは、そういうことだったのか。
俺は、ぎゅっと拳を握った。
つまり、こういうことだ。
海たちは確かに一度死んだ。でもその死は今この世界から消えている。俺が巻き戻したからだ。みんなはその死を経験すらしていない。覚えてるのは俺と澪だけ。
残酷な話だ。
でも見方を変えれば、これはとんでもないことでもあった。
誰も死なせない結末を、俺たちはゼロから選び直せる。何度でも最善を探せる。そういうカードを握らされてるんだ。
しばらく、何も言えなかった。
頭の中でいろんなものが、ぐるぐる回っていた。
この世界が、作りものだということ。海たちが、本物の人間で、本物の死を死んだこと。そして、俺の中の力が、それを巻き戻したこと。
でかすぎて、重すぎて、すぐには受け止めきれなかった。
作りものの世界。本物の人間。巻き戻る時間。覚えてるのは二人だけ。
どれ一つとっても、昨日までの俺なら鼻で笑った話だ。
でも、この体がぜんぶ覚えてる。あの地下道の冷たさも、海が消えた瞬間の手のひらの感触も。だから信じるしかなかった。信じた上で、前に進むしかなかった。
でも。
全部を聞き終わって、俺の中に残ったのは絶望じゃなかった。
「澪」
「うん」
「もう一回、確認させてくれ。やり直せるんだよな。海も、識も、レンも。誰も死なない結末に、たどり着けるんだよな」
「理屈の上では。でも、簡単なことじゃない。同じ失敗を、何度も繰り返すかもしれない。それでも、真は」
「やる」
迷いはなかった。
「あんな結末、二度と見たくない。海が、俺のために死ぬとこなんて、もう二度と。やり直せるなら、何度だってやり直す。今度こそ、全員で、生き残る」
言いきった俺を、澪がじっと見ていた。
その目がゆっくりと、見開かれていく。
いつも凍りついていたこいつの顔に、見たことのない表情が浮かんだ。
それは、たぶん、希望だった。
ずっと一人で絶望を抱えてきたこいつが初めて、誰かと同じ方向を向けた。そんな顔だった。
「……うん」
澪が小さく、でも確かにうなずいた。
「やろう。今度こそ。私も、もう一人で抱えない」
風が、吹いた。
ブランコが、きい、と鳴る。
何も知らない街は、相変わらず、のんびりとした昼下がりの顔をしている。
でも俺の中では、何かがはっきりと切り替わっていた。
守られるだけの荷物はもう、とっくに卒業した。
今度は、俺が世界を書き換える番だ。
あの白い光を、今度は自分の意志で起こしてみせる。
何度でも。みんなを生きて連れて帰る、その日まで。
たとえ何度、この朝に戻されたとしても。
全員を連れて、必ず、その先へ行く。




