第15話 箱舟
公園のベンチで、俺はしばらく自分の手のひらを見つめていた。
この手も、計算で出来ている。
そう思うと、変な感じがした。握ったり開いたりしてみても、感触は今までと何も変わらない。なのに、この下には数字が流れているらしい。
でも、不思議ともう怖くはなかった。
海の体温が本物だったように、俺のこの戸惑いだって本物だ。中身が人間なら、それでいい。
俺は顔を上げた。
「もっと聞かせてくれ。なんで、こんな世界が出来たんだ。誰が、何のためにこんなものを作った」
「……いいの?知れば知るほど、戻れなくなる」
「もう、とっくに戻れないよ」
澪が小さく笑った。
あきらめたような、でも少しだけ嬉しそうな、そんな笑い方だった。
「わかった。じゃあ、全部話す。この世界の、外側のことを」
澪は空を見上げた。
雲一つない、よく晴れた空。
「私たちが本当はどこにいるのか。この空のずっと上、本物の宇宙に、一隻の船が浮かんでる。とてつもなく大きな、古い船。私たちはみんな、その中にいる」
「船?」
「移民船。ずっと昔、人類は住んでた星を捨てた。理由は私も全部は知らない。災害だったとも、戦争だったとも言われてる。とにかく人類は新しい住みかを探して旅に出た。何百年も、何千年もかけて」
俺は思わずもう一度空を見上げた。
いつも見ている、当たり前の空。
その向こうに本物の宇宙が広がっていて、俺たちを乗せた船が星の海をゆっくり進んでいる。
現実感がまるで湧かなかった。
でも、嘘をついている目じゃなかった。
星の海を行く、たった一隻の船。
その中に人類の最後の生き残りが、まるごと詰まっている。
俺の知ってる世界なんて、その船の中の機械の中の、ちっぽけな箱庭にすぎなかった。
「その船は、もうぼろぼろなんだ。何世代も旅を続けて、あちこちが傷んでる。乗ってる人間を全員、生身のまま生かしておくにはとっくに限界が来てた」
「だから、なのか」
「そう。だから人類は体を捨てることにした」
体を、捨てる。
言葉の意味がすぐには飲み込めなかった。
「どういう、ことだ」
「生身の体は、食料も水もいる。場所も取るし、病気にもなる。傷んだ船には、もうそんな余裕がなかった。だから人類は肉体を眠らせて、意識だけを機械の中の世界に移したの。そこなら、ずっと少ない資源でいくらでも人が暮らせる」
「それが、この世界か」
「うん。お前が生まれ育った街も、通ってた学校も、毎日見てた景色も。ぜんぶ機械の中。演算された、電脳の世界」
頭の奥がじんと痺れた。
俺は生まれてから一度も、本物の空を見たことがない。
本物の土を踏んだことも、本物の雨に濡れたこともない。
ぜんぶ、機械が見せていた夢だった。
じゃあ、本物の俺はどこにいるんだ。
この機械のどこかで眠ってるのか。顔も知らない、本物の自分の体が。
考えると足の裏がぞわぞわした。
「でも、さっきも言っただろ。そこに住んでる人間は人形じゃない。みんな本物の心を持ってる。ただ、自分が電脳世界の住人だってことを知らないだけ。生まれたときからそこにいるから、それが現実だと信じてる」
「……俺も、ついさっきまでそうだった」
「そう。気づかないほうが、幸せに生きられる。だから誰も気づかないように、世界は精密に作られてる。識が見つけた継ぎ目は、そのほんのわずかなほころびだった」
しばらく、二人とも黙っていた。
俺は自分の足元の地面を見た。
踏みしめても、ちゃんと固い。これも作りものなのに。
あんまり大きすぎて、悲しいとも怖いともうまく感じられなかった。
ただぽっかりと胸に穴が空いたみたいだった。
「……でも、わからない。それと、あの化け物と、どう繋がるんだ。ファントムは、何なんだ」
澪の表情がすっと硬くなった。
「ファントムは、人類が連れてきたものじゃない。旅の途中で船が拾った、異物。ある隕石にくっついて、宇宙からやってきた別の生き物」
「別の、生き物」
「外見も中身も、私たちとはまるで違う。でも、あいつらにはおそろしい力がある。人間に完全になり代わる力。誰か一人を選んで、その人間とそっくり入れ替わる。入れ替わられた本物は、二度と戻らない」
レンの話を思い出した。
大切な人を入れ替えられた女。
あの能面みたいな顔の下に、そんな過去が隠れていた。
俺はぞっとした。
大切な誰かが、ある日とつぜん中身だけ別物に入れ替わる。見た目も声も同じなのに、もう本物じゃない。そんなことが、この世界では普通に起きていた。
海も識も、気づかないうちに入れ替わってるかもしれない。
いや。今はまだ大丈夫だ。みんなちゃんと本物だ。それも覚えてるから知っている。
「あいつらの狙いは、船の乗っ取り。中身を少しずつ自分たちと入れ替えて、いつか人類の船を丸ごと手に入れる。何十年も何百年もかけて、ゆっくりと。誰にも気づかれないように」
「だから見分けがつかないのか。誰が人間で、誰がファントムか」
「そう。それが、あいつらのいちばんの武器。疑心暗鬼。仲間同士で信じ合えなくなること」
話はだんだん核心に近づいてきた。
「で、最近になって状況が大きく動いた。船がついに見つけたの。何千年も探し続けた、移り住める惑星を」
「惑星。新しい星か」
「うん。人類にとっては、悲願。やっと旅が終わる。やっと本物の体で、本物の大地に降り立てる。でもそれは同時に、ファントムにとっても最高の獲物になった。新しい星の、主導権。それを巡って、人類とファントムの戦いは一気に激しくなった。今が、その山場」
俺はごくりと唾を飲んだ。
話のスケールがでかすぎる。
船。惑星。人類と異星生命の、戦争。
そんなものに、ただの荷物運びの俺がどう関わるっていうんだ。
「ここからが、真に関係する話」
澪がまっすぐ俺を見た。
「二つの世界を繋いで、誰が人間で誰がファントムか、はっきり見分けるための鍵がある。世界解析コード、って呼ばれてるもの。それさえ完成すれば、ファントムはもう人間に隠れられない。あいつらのいちばんの武器が、無効になる」
「それが、戦いを終わらせるってことか」
「うん。でも、そのコードは二つに分かれてる。片方は現実にある、私の一族が遺した研究施設。もう片方は」
澪が俺の胸をそっと指さした。
「真の中。ご先祖がお前の記憶の奥に封じた。お前の家系とうちの家系は、ずっと昔、同じ目的のために手を組んでた。お前はその、最後の生き残り。コードの半分そのものなんだ」
「もう一つ、大事なことがある」
澪が続けた。
「コードを完成させるには、現実にある片割れと、お前の中の鍵を一つにしなきゃいけない。つまり私たちは、いつか現実の世界に渡る必要がある」
「電脳世界から、現実に?そんなこと、できるのか」
「培養装置っていうものがある。眠ってる肉体に意識を戻したり、新しい体を与えたりする装置。それを使えば電脳世界の住人でも、現実の体を手に入れて外に出られる。簡単じゃないけどね」
現実の、世界。
本物の空の下に、出ていく。
気の遠くなるような話だった。
ようやく、全部が繋がった。
なんで、両親が殺されたのか。なんで、俺の血で地下の装置が開いたのか。なんで、ファントムが執拗に俺を狙うのか。
俺は、ただの荷物運びなんかじゃなかった。
この戦いを終わらせる、鍵の半分。
ご先祖が命がけで未来に託したもの。それがずっと、俺の中で眠っていた。
両親の死も、ぜんぶこのためだったんだ。
親父がいつも疲れた顔をしてたのも、母さんが早くに死んだのも。二人は俺の中の鍵を守るために、ファントムと戦って命を落とした。
俺はその意味も知らずに、ただ守られてきた。
もう、守られるだけじゃ駄目だ。
頭がパンクしそうだった。
作りものの世界。捨てられた肉体。星の海を行く船。異星の侵略者。そして、俺の中の鍵。
昨日まで知らなかったことが、いっぺんに雪崩れ込んできて立っているのもやっとだった。
それでも。
すべてを聞き終えて、俺の中に一つの考えが芽生えていた。
「なあ、澪」
「うん」
「俺たち、すごいものを持ってるんじゃないか」
「すごいもの?」
「巻き戻る前のこと。あの一周で、何が起きたか。誰が裏切って、どこで何が待ち伏せてたか。俺たちは、それを全部覚えてる」
澪の目がはっと見開かれた。
「先のことを、知ってるってことだ。これから何が起きるか。どこに罠があるか。誰を信じちゃいけないか。今度は丸腰で飛び込むんじゃない。答えを知った上で、もう一回、最初からやれる」
言葉にして初めて、その意味の大きさに気づいた。
あの絶望は無駄じゃなかった。
みんなの死を覚えていることが、みんなを救うためのいちばんの武器になる。
「そうか」
澪の声がかすかに震えた。
「私、ずっと、覚えてることを呪いだと思ってた。みんなが忘れた地獄を一人で抱えるのが、つらくて。でもお前は、それを武器って言うんだね」
「ああ。最強の武器だ」
俺は立ち上がった。
この世界の正体も、自分の役目も、ぜんぶわかった。
あとは、知ってることを使って一つずつ結末を変えていくだけだ。
「やろう、澪。今度は誰も死なせない。先を知ってる俺たちなら、できる」
言ってからふと、一つの顔が頭に浮かんだ。
黒鉄。
あの、にやりと笑った目の笑わない顔。
あいつがファントムだってことも、俺たちはもう知っている。
今度の周回で、あいつはまた同じように俺たちに近づいてくるだろう。何食わぬ顔で。親父の戦友のふりをして。
知っていれば、出し抜ける。最初から、警戒できる。
でも――。
脳裏にもう一つの記憶がよぎった。
俺を貫いたあの瞬間、あいつの声がわずかに揺れたこと。
あれは、何だったんだろう。
胸の奥に、ちりっと小さな迷いが生まれた。
でも、それを口にするのはまだ早い気がした。
今はただ、前を向こう。
長い、長いやり直しがここから始まるんだ。




