第16話 先回り
二度目の「その日」は、よく晴れていた。
一度目とまったく同じ朝。同じ風。同じ、壊れかけた自販機。
でも俺の中身は、まるで別人だった。
知っている。
これから何が起きるのか。誰が現れて、どこで何が待ち伏せているのか。あの絶望に至る道筋を俺はもう、一本残らず覚えている。
路地の角に澪が立っていた。
一度目は、ここで初めて出会った。お互い、名前も知らない他人として。
でも今は、違う。
「待たせた」
俺が言うと、澪は小さくうなずいた。
「ううん。私も、今来たとこ」
一度目にこの台詞を聞いたとき、俺はこいつをただの不審な女だと思っていた。
今は世界でいちばん俺をわかってくれる相棒だ。
たった二周で、ずいぶん遠くまで来たもんだと思う。
他人のふりは、もう必要なかった。
俺たちは二人で歩きだした。
歩きながら、奇妙な感覚に襲われた。
すれ違う人。流れる雲。どこかの家から漏れてくる、テレビの音。
全部、一度見た光景だった。なのに、誰一人、それを知らない。みんな、今日が初めての今日だと思って生きている。
その中で、俺と澪だけが消えた未来の記憶を抱えて歩いている。
ふと、海の顔が浮かんだ。
今ごろあいつは、何も知らずに昼めしのことでも考えてるんだろう。
今度こそ、守る。
あいつを、あんなふうには死なせない。そのためなら、何だってやる。
その覚悟だけは、絶対に揺らがなかった。
黒鉄だけじゃない。
一度目にやられたことは、ぜんぶ覚えてる。空き家での待ち伏せ。すり替わった近所の人たち。袋小路に追い込まれたあの夜。
起きる場所もタイミングもわかってる。
なら、避けられる。出し抜ける。先に手を打てる。
問題はその先読みをどこまで使いこなせるかだ。
行き先は決めてあった。
まずは、いちばん厄介な問題から片づける。
「黒鉄のことだ」
俺は低い声で切り出した。
「あいつがファントムだってことは、もうわかってる。一度目は、まんまと騙された。親父の戦友だって信じて、戦い方まで教わって。それで最後に仲間を皆殺しにされた」
「うん」
「同じ轍は踏まない。今度はあいつを最初から仲間に入れない。それでいいよな」
「……それだけで、済むかな」
澪の声に、ためらいがにじんでいた。
「あいつの狙いは、お前。お前の中の鍵。仲間に入れなくても、別の手で近づいてくる。一度目みたいに、いい人の顔をして。それか、もっと強引な手で」
「じゃあ、どうする」
「……いっそ」
澪が足を止めた。
「先に、消しておく。あいつが動き出す前に。今のうちに」
その言葉は、やけに重く冷たく響いた。
先に、消す。
頭では、それがいちばん確実だってわかる。
あいつはファントムだ。仲間を皆殺しにした化け物だ。情けをかける理由なんて、どこにもない。一度目の地獄を思い出せば、迷う必要すらないはずだった。
目を閉じれば、今でも浮かぶ。
影に呑まれていく海の最後の笑顔。崩れ落ちるレン。あっけなく消えた識。あいつがにやりと笑って、それを眺めていた光景。
あれをやった相手だ。
迷うほうがどうかしてる。
なのに。
俺の足はなかなか前に進まなかった。
「なあ、澪」
「うん」
「今の黒鉄は、まだ何もしてないんだよな」
澪がこっちを見た。
「この時間軸じゃ、あいつはまだ、誰も殺してない。俺を騙してもいない。これから裏切るって知ってるのは、俺たちだけだ。それなのに先に殺すってのは……それは、なんていうか」
「人殺し、って言いたいの?」
「ああ」
自分でも甘いってわかってる。
相手は化け物だ。人間の理屈なんて通じない、化け物だ。
でも、どうしても引っかかった。
まだ何もしていない誰かを、未来の罪で裁いて殺す。
ファントムは、何の罪もない人間を選んで入れ替える。まだ何もしていない相手を、自分たちの都合で消していく。
俺が今やろうとしてるのは、それと同じじゃないか。
たとえ相手が、化け物でも。
その一線を越えたら、俺はもう俺じゃなくなる気がした。
「優しいね、お前は」
澪がぽつりと言った。
責めるような響きじゃなかった。どこかまぶしそうな声だった。
「私は、もっと割り切れる人間だと思ってた。みんなを救うためなら、化け物の一匹や二匹ためらわず消せるって。でも、お前のそういうところを見てると、ちょっと自信がなくなる」
「悪い意味でか?」
「ううん。たぶん、いい意味」
澪はしばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「私もね、ずっと考えてた。一度目から、ずっと」
「黒鉄のこと?」
「あいつは確かに裏切った。許せない。でも、あいつがお前を貫いた、あの一瞬。私、見てたの。あいつの顔」
俺も、覚えていた。
あの瞬間の黒鉄の声。
ほんの一瞬だけ、揺れた。何やってんだ、坊主、って。あれは、芝居には聞こえなかった。
「ただの仕事だって、あいつは言った。お前は器でしかないって。でも、もし本当にそうなら、あの一瞬に声が揺れる理由がない。私には、あいつがぜんぶを割り切れてないように、見えた」
「俺も、同じことを思った」
口に出すと、その迷いはもっとはっきりした形になった。
黒鉄の中には、化け物の論理と、それだけじゃない何かが混じっている気がする。
もしかしたら。
あいつは、味方に引き込めるかもしれない。
そんな馬鹿げた考えが頭の隅をよぎった。
いや、と俺はすぐに打ち消した。
甘すぎる。あいつは現にみんなを殺したんだ。揺れた声一つで絆されるほど、俺は子どもじゃない。
打ち消しても打ち消しても、その考えはしぶとく頭にこびりついて離れなかった。
もし、あいつを敵じゃなく、味方にできたら。
あの強さが、こっち側にあったら。
どれだけ、心強いだろう。
黒鉄がどこにいるか、澪は知っていた。
ファントムはずっと前から俺を見張っていたという。
俺の住む街の、外れ。古い倉庫が立ち並ぶ、人気のない一角。
その物陰から俺たちは、そいつを見た。
黒鉄だった。
あの見慣れた、ぶっきらぼうな大男。
一度目に、親父の話をしてくれた、あの顔。最後に俺を貫いた、あの顔。
今はただ、倉庫の壁にもたれて煙草をふかしていた。
なんてことのない、退屈そうな横顔で。
胸の奥が、ぐちゃぐちゃになった。
憎い。あいつは海も識もレンも、みんな殺した。
でも同時に、あの背中には、見覚えがありすぎた。毎朝、俺をしごいてくれた背中。下手な歌を歌っていた背中。
憎しみと、それ以外の何かが、ぐるぐると渦を巻いた。
ポケットの中で俺の手は震えていた。
今なら。
不意を突けば。澪の銃があれば、あるいは。
でも、その最後の一歩が、どうしても踏み出せなかった。
澪が隣で俺を見ていた。
やれとも、やめろとも言わなかった。
決めるのは俺だとわかっているんだろう。
心臓がうるさいくらいに鳴っていた。
あいつの背中は無防備だった。今が千載一遇のチャンスだってことも、頭ではわかっていた。
それでも、指が動かない。
そのときだった。
倉庫の陰から、痩せた野良猫がひょこっと顔を出した。
黒鉄がそれに気づく。
俺は身構えた。あいつのことだ、その辺の猫くらい、平気で蹴り殺すんじゃないかと。
でも、違った。
黒鉄は煙草を地面で消すと、ポケットから何か小さなものを取り出した。
干し肉か何かの欠片だった。
それを猫の前に、そっと置いてやる。
猫が、おそるおそる近づいてかじりついた。
黒鉄は何も言わずに、ただその様子を眺めていた。
その横顔は化け物には、まるで見えなかった。
俺はポケットから手を抜いた。
無理だった。
あんなものを見せられて、引き金なんて引けるわけがない。
あれがファントムの擬態だっていうなら、たいしたもんだ。猫に餌をやる芝居まで、誰も見てないところでやるのか。
それとも。
あいつの中には、本当に、ああいう優しさが残ってるのか。
わからなかった。
わからないまま誰かを殺すなんて、俺にはできなかった。
それに、と俺は思った。
もしあいつを味方にできる道がほんの少しでもあるなら。
その可能性を確かめもせずに潰すのはもったいない。
一度目にはなかった選択肢だ。先を知ってる今の俺にしか選べない道だった。
「行こう」
俺は小声で言った。
「今日は、やめだ」
「いいの?」
「ああ。あいつのことは、もう少し見てから決める。武器にするにしても、消すにしても。少なくとも、今じゃない」
澪は何も言わずにうなずいた。
その顔は、どこか、ほっとしているようにも見えた。
倉庫を離れながら、俺は思った。
先のことを知っているのは、最強の武器だ。
でも、ときどきそれはいちばん重い枷にもなる。
知っているからこそ、簡単には割り切れない。
黒鉄を、どうするのか。
ただ、一つだけ決めたことがある。
あいつをちゃんと自分の目で見極める。化け物なのか、それとも、まだ何かが残ってる男なのか。一度目は、見極める前に全部終わってしまった。
今度は、時間がある。
知っているという武器がある。
その答えは、まだ俺の中のどこにもなかった。




