第17話 砂時計
二周目に入って、数日が過ぎた。
驚くほど順調だった。
一度目に痛い目を見た場所は、ぜんぶ先回りして避けられた。
ファントムが待ち伏せていた廃ビルには、近づきもしなかった。一度目にすり替わって俺たちを襲った、近所の連中。あいつらがどこにいるかも、わかっている。だから鉢合わせる前に別の道を行けた。
海のことも、それとなく守っていた。
一度目、あいつは俺の居場所を吐かせるために、ファントムに目をつけられた。だから今度は、あいつが一人になる時間をなるべく作らせないようにした。海は何も気づかず、いつも通りへらへら笑って俺の隣にいる。
それだけで、胸の奥がじんと温かくなった。
守れている。
今のところ、誰一人欠けていない。
昨日も、一つ未来を変えた。
一度目に海が怪我をした路地。あそこを通る前に、俺はわざと回り道を提案した。海は不思議そうな顔をしたけど文句も言わずについてきた。
たったそれだけのことで、一つの不幸が起きる前に消えた。
神様にでもなったみたいな奇妙な全能感があった。
知っているというのは、これほどまでに強い武器だった。
先を読んで罠を避けて、いちばんいい手だけを選んでいく。答えを先に見てから試験を受けているようなものだ。
このまま慎重にやれば。
今度こそ、誰も死なせずに、最後まで行けるかもしれない。
そんな手応えが日に日に強くなっていた。
ただ、一つだけ引っかかることがあった。
澪の様子だ。
二周目に入ってから、こいつはどこか元気がなかった。俺がうまく未来を変えるたびに、喜ぶどころかむしろ表情を曇らせることがあった。
最初は慎重なだけだと思っていた。
でも、違ったのかもしれない。
その夜のことだった。
根城にしている空きビルの一室で、俺は缶詰をつつきながら澪に言った。
「なあ、いい感じだよな。このペースなら、なんとかいけそうな気がしてきた」
「うん。順調、だと思う」
「それにさ、最悪今回しくじっても、また巻き戻せばいいわけだろ。何度でもやり直して、全員助かる正解を、じっくり探せばいい。そう考えると、ちょっと気が楽だよな。失敗しても、リセットできるんだから」
ほんの軽い気持ちだった。
肩の力を抜くつもりで言っただけだった。
でも、澪からの返事はなかった。
顔を上げると、こいつは缶詰に手もつけず窓の外をじっと見ていた。
その横顔がぞっとするほど暗かった。
「澪?」
「……ねえ、真」
「ん?」
「一つ、誠にまだ話してないことがある」
澪の声はいつになく硬く沈んでいた。
俺の中で何かがざわりと冷たくなった。
そういえば、と思い出す。
前に世界の正体を聞いたとき、こいつは一度だけ、言葉を濁した。
巻き戻しは、無限じゃない。
あのときの小さな引っかかりが、急に嫌な形でぶり返してきた。
「巻き戻るのは、この世界だけなの」
澪は夜空を見つめたまま、ぽつりと言った。
「電脳世界。真たちが暮らしてる、この演算された世界。私の鍵で巻き戻せるのは、ここだけ」
「どういう意味だ」
「現実の時間は、戻らないってこと。あの船の中の、本物の時間。あっちは、何があっても巻き戻らない。私がこの世界を何度リセットしても、現実の時計は止まることなく進み続ける」
最初は、その言葉の意味がうまく飲み込めなかった。
現実の時間が、進む。
それの、いったい何が問題なんだ。
俺たちのいるこの世界が、ちゃんと戻るなら、それでいいんじゃないのか。
むしろ好都合じゃないか。
現実の時間が進んでくれるなら、巻き戻して稼いだぶん現実の側でも準備が整う。そう楽観的に考えかけた。
だが、澪の顔はまるで逆のことを語っていた。
「待ってくれ。それって、そんなにまずいことか?こっちが戻るなら、別に困らないだろ」
「私は、こっち側の人間じゃないから」
澪がゆっくりとこっちを振り向いた。
その目を見て俺は思わず息を呑んだ。
泣きそうな目だった。
いや。泣くのを、必死でこらえている目だった。
「忘れたわけじゃ、ないよね。私は、現実の世界から来た。研究者の一族の、最後の生き残り。私の本当の体は、今も現実の船の中で生きてる。この世界には、意識だけを潜らせてるだけなの」
ばらばらだったものが頭の中で一気に繋がっていく。
そして、その意味の重さに全身から血の気が引いた。
「じゃあ……お前の、体は」
「そう。この世界がどれだけ巻き戻っても、現実の私の体は戻らない。みんなが"あの朝"に戻るたびに、私の体だけは容赦なく時間を奪われていく。一週間ぶん巻き戻せば、現実の私はその一週間ぶん、ただ歳を取る。二度と、若返ったりしない」
頭の中に最悪の光景が浮かんだ。
俺たちが何十回、何百回とやり直すあいだ。現実の澪は一人だけ、その時間ぜんぶを背負って歳を取り続ける。俺がこの世界で、いつまでも十九歳の顔をしているあいだに。
ぞっとして鳥肌が立った。
声が、出なかった。
今まで俺は、巻き戻しをただの便利なやり直しだと思っていた。
失敗しても、なかったことにできる、魔法のボタン。何度でも押せる、都合のいい力。
とんでもない勘違いだった。
このボタンを押すたびに。
澪が、その身をすり減らしていく。
俺が「また巻き戻せばいい」なんて、気楽に口にするたびに。こいつは、自分の現実の時間を、黙って差し出していたんだ。
「だから、言ったでしょう。無限じゃないって」
澪は力なく微笑んだ。
「巻き戻せる回数には、限りがある。私の体が保ってくれるあいだだけ。それを使い切ったら、もう、やり直しはできない。そのとき迎えた結末が、本当に最後の結末になる」
俺は自分の手のひらをじっと見つめた。
ついさっき、こいつに向かって得意げに言い放った言葉が、頭の中でこだまする。
失敗しても、リセットできるんだから。
最低だ。
俺は知らなかったとはいえ、こいつの命をまるで使い捨ての札みたいに、平気で扱っていた。
あの絶望の一周も。海たちが死んで、俺が巻き戻したあの瞬間も。
あれで澪は、確実に何かを失っていたのに。
あのとき俺は、海が生き返ったことに泣いて喜んでいた。
でもその裏でこいつは、自分の寿命を一つ静かに支払っていた。
俺の喜びは澪の犠牲の上に成り立っていた。
それを、こいつは一度も口にしなかった。
なんて、強いんだろう。そして、なんて優しいんだろう。
俺はこいつの優しさに、ずっと甘えていた。何も知らず、勝手なことばかり言って。
「……ごめん」
ようやく絞り出せたのは、たったその一言だった。
「俺、本当に何も知らないで。お前に、そんなものをずっと一人で背負わせて」
「謝らないで」
澪は静かに首を振った。
「真は、知らなかったんだから。それに、これは私が自分の意志で始めたこと。誰かに無理やり、やらされてるわけじゃない」
強がりだ、とすぐにわかった。
でも、その強がりがよけいに胸を抉った。
ずっと、こいつはたった一人でこれを抱えてきたんだ。
巻き戻すたびに、自分の体が削れていくと知りながら。それでも何度も、俺たちを救うために、世界を巻き戻してきた。
どんな気持ちだったんだろう。
みんなが笑って暮らしてるこの世界が、自分の命と引き換えだなんて、誰にも言えずに。たった一人でその秤を見つめ続けるのは。
俺には想像もつかなかった。
そのとき、ふいにもっと寒気のする考えが頭をかすめた。
「なあ、澪。もう一つだけ、確かめさせてくれ」
「なに?」
「現実の時間が、止まらないってことは。俺たちがこの世界で、のんびり何度もやり直してるあいだも。現実のほうの戦いは、止まらずに、ずっと進み続けてるってことなのか」
澪の表情がはっきりと凍りついた。
その反応だけで、もう答えはわかってしまった。
「惑星に着くまでの、カウントダウン。船の中で続く、ファントムとの戦争、真の一族の、研究施設への攻撃。ぜんぶ、こうして俺たちが話してる今も、一秒ずつ進んでる」
澪はゆっくりとうなずいた。
「私たちには、本当は、そんなに時間がないの。のんびり正解を探してる余裕なんて、最初から、どこにもなかった」
時間が、ない。
頭の中がすっと冷えていった。
巻き戻すたびに、澪の体は確実に削れていく。
そしてぐずぐずしているあいだにも、現実の戦いは刻一刻と、最悪のほうへ転がっていく。
二つの時計が、俺の頭の中で、かちこちと嫌な音を立てはじめた。
片方は、澪の命。
もう片方は、現実に迫る、破滅の足音。
どちらも、止められない。どちらも、待ってはくれない。
いつのまにか、俺の足元は薄氷の上だった。
「何度でもやり直せる」なんて、とんでもない思い上がりだったんだ。
知ってさえいれば、勝てると思っていた。
でも、知れば知るほど追い詰められていく。
先読みはたしかに武器だ。だが、使うたびにいちばん大事なものが、削れていく武器だった。
俺たちに残された時間は。
たぶん、思っているよりもずっと、短い。




