第03話 最後のひとり
結局、ほとんど眠れなかった。
固い床の上で浅い眠りと覚醒を行き来しているうちに、気づけば窓の外がうっすら白んでいた。隣を見ると、澪は壁にもたれたまま膝に銃を置いて目を閉じている。眠っているのか、ただ休んでいるだけなのか、俺には判断がつかなかった。
声をかけようとした瞬間、澪の目が開いた。
「起きた?なら行くよ」
「……どこへ?」
「昨日言ったでしょ。見せたいものがある」
澪が俺を連れていったのは、街の地下だった。
古い保守用の昇降機に乗り込んで、何層も下へ降りていく。降りるほどに空気は冷たく、重たくなった。鼻をつくのは、錆と、よどんだ水のにおい。配管は赤茶けて崩れかけ、通路の照明はほとんどが死んでいる。
昇降機が止まり、扉が開く。剥き出しのコンクリートの通路が、暗がりの奥へ延々と続いていた。足音だけが、やけに大きく響く。世界のいちばん底に置き去りにされた場所。そんな感じがした。
こんなところがあるなんて、十九年この街で暮らしてきて一度も知らなかった。
地下というより、墓の底みたいだった。
人の気配がまるでない。あるのは自分の足音と、滴る水の音だけ。
ここまで来る人間は、何十年もいなかったんじゃないか。
なのに澪の足取りには、迷いがなかった。何度も来ているみたいに、暗がりをまっすぐ進んでいく。この女は、いったいどれだけのものを、背負ってきたんだろう。
「なあ、こんなとこに、いったい何があるんだよ」
俺は前を行く澪の背中へ声を投げた。声が湿った壁に反響して、やけに頼りなく響く。
澪は振り返らなかった。
「見れば分かる。というより、見ないと、あんたは信じない」
その言い方が、また不安をかき立てた。一歩進むごとに、自分の知っている世界から、どんどん遠ざかっていく気がする。
通路の突き当たりに、分厚い金属の扉があった。
見るからに古い。けれど、まわりの朽ちた配管とは違って、その扉だけは妙に手入れが行き届いて見えた。誰かがずっと、これを守り続けてきたみたいに。
澪は扉の脇のパネルを指し示すと、こちらを振り返った。
「触って。あんたの手で」
「は?なんで俺が」
「いいから」
わけが分からないまま、俺はパネルに手のひらを押し当てた。
次の瞬間――
扉が、低く唸って動いた。
ずっと閉ざされていたはずの分厚い金属が、俺の手に応えるように、ゆっくりと内側へ開いていく。
ぞわり、と腕の毛が逆立った。
「なんで、開くんだよ。俺が触っただけで」
「あんたにしか開けられないからよ」
澪は静かに言った。
「正確には――あんたの、血筋にしか」
その一言が、やけに重く響いた。
ただの偶然で化け物に追われているわけじゃない。生まれたときから、俺はこの場所とこの扉に、見えない糸で繋がれていた。
知らなかっただけで。ずっと、ずっと前から。
扉の奥は、小さな部屋だった。
埃ひとつない。外のあの朽ちようが嘘みたいに、そこだけ時間が止まっているように見えた。中央に、古い装置がひとつ。机ほどの大きさの、用途のわからない機械だ。
壁には、見たこともない文字や図がびっしりと刻まれていた。意味は読み取れない。それでも、それを彫った人間の執念みたいなものだけは、不思議と伝わってくる気がした。
外のあの崩れようと、まるで別世界だった。
誰かが、この部屋だけを必死に守り続けてきたんだ。何のために、誰のために。
答えは、たぶん俺だ。
そう思うと、ぞくりと鳥肌が立った。
俺が足を踏み入れると、装置の表面に、ぽつりと淡い光が灯った。
まるで、この瞬間をずっと待っていたみたいに。
心臓が、嫌な感じに鳴った。
「天城真」
澪が俺の名を呼んだ。さっきまでとは、声の重みが違った。
「あんたの先祖は――初代大統領は、この世界を造った人間のひとりだった。そして、あるものを遺した。世界の行く末を、根っこからひっくり返せるだけの、あるものをね」
「あるものって、なんだよ」
「それは、まだ言えない。今のあんたには、たぶん受け止めきれない」
また、それだ。だが今度は、苛立ちより別の感情のほうが勝っていた。
怖さだ。
「ただ、ひとつだけ確かなことがある」
澪は淡く光る装置を見つめながら続けた。
「それを遺した一族の血は、代を重ねるごとに細っていった。そして今、残ったのはたったひとり。あんただけ」
たったひとり。
その言葉が、やけに重たく胸に落ちてきた。
家族も、親戚も、もういない。気づけば俺は、文字どおり世界にひとりきりだった。その理由が、まさかこんなところにあったなんて。
ひとりきり。
その意味を、これまで深く考えたことはなかった。家族がいないのは、ただ運が悪かったからだと思っていた。
でも違った。俺がひとりなのには、理由があった。一族が、ひとりまたひとりと狩られてきたからだ。
その最後の生き残りが、俺。
背筋に、冷たいものが走った。
「ファントムが、何世代もかけてあんたの血筋を狩り続けてきたのも、そのためよ。先祖が遺したものへ手を伸ばせるのは、その血を引く人間だけ。だから連中は、ひとり残らず消そうとしてきた」
「……じゃあ」
声がうわずった。
「俺の親父も、母さんも。事故で死んだって聞かされてたけど、あれって、まさか」
澪は答えなかった。
答えないことが、何より雄弁だった。
膝から、力が抜けそうになった。
親父は、俺が十二のときに死んだ。母さんはその二年後だ。どっちも事故だと聞かされて、俺は何の疑いもなく、そういうものだと受け入れてきた。運が悪かったんだ、と。
違ったのか。
あれは事故なんかじゃない。あの笑ったまま死んでいく化け物どもに、消されたっていうのか。
知らないうちに、奥歯を噛みしめていた。
親父の、あの疲れた顔が浮かんだ。母さんの寝顔も。
二人とも、ただ運が悪かったんじゃなかった。
俺を、この血を守ろうとして、あの笑う化け物に命を奪われたんだ。
知らずにいた十数年が、どっと重みを増して肩にのしかかる。
怒りなのか悲しみなのか、自分でも分からない。ただ、目の奥が焼けるように熱かった。泣くのとは、違う熱だった。
頭が真っ白になった。
俺はただの荷物運びだ。誇れるものなんか何ひとつない、その辺にいくらでもいる、つまらない男のはずだった。
それが、世界をひっくり返す何かの最後の鍵だって?
冗談だろ、と笑い飛ばそうとした。
だができなかった。淡く光る装置を前にしたとき、頭の奥の、ずっと触れたことのない場所がかすかに疼いた。何かが思い出されようとしている。けれど形にならないまま、それはすぐに霧の向こうへ溶けていった。
なんだ、今のは。
自分の頭の中に、自分の知らない部屋があるみたいだった。鍵のかかった、開けたこともない部屋が。
怖かった。化け物に追われていることより、もしかしたら、こっちのほうがずっと怖いのかもしれない。
ずっと空っぽで退屈なだけだと思っていた人生の底に、得体の知れない何かが沈んでいた。それが今、ゆっくりと浮かび上がってこようとしている。胸の奥を内側から掴まれて、ぐっと持ち上げられるような、落ち着かない感覚だった。
怒りと戸惑いと恐怖が、全部いっしょくたになって渦を巻いている。整理なんてつくはずもなかった。
ただ、ひとつだけはっきりしているのは――俺の世界は、もう元には戻らないということだった。
俺は、いったい何者なんだ。
天城真。
その名前すら、今は他人のもののように遠かった。
俺が信じてきた自分は、薄っぺらな上っ面だったのかもしれない。その下に、ぜんぜん知らない何かが埋まっている。
覗きたい。でも、覗くのが、たまらなく怖い。パンドラの箱を、自分の頭の中に抱えている気分だった。
「ひとつ、訊いていいか」
乾いた喉から、なんとか声を押し出した。
「そいつら、ファントムは。結局なんなんだ。どこから来た。何が目当てで、俺の家族まで殺して、この世界を呑み込もうとしてるんだよ」
澪はしばらく黙って、それから首を横に振った。
「それも、今は話せない。順番があるの。一度に全部知ったら、あんた、たぶん壊れる」
「ずいぶん、信用がないんだな」
「そうじゃない」
澪の声が、ほんの少しだけやわらかくなった。
「わたしも昔、同じように全部いっぺんに知って、しばらくまともじゃいられなかったから」
その言葉には、嘘の匂いがしなかった。
こいつも、どこかで一度、俺と同じように足元をなくしたことがあるのか。そう思うと、得体の知れなさの奥に、初めて生身の人間の輪郭が見えた気がした。
「あんたを探すのに、何年もかかった」
ふいに、澪がぽつりと言った。
いつもの平らな声に、ほんのわずか、疲れみたいなものが混じっている。
「わたしの一族も、ずっとこの一件に関わってきたの。あんたの先祖とわたしの先祖は、昔、同じものを目指してた。だからわたしは、ここまで来た。あんたを見つけて、連れ出すために」
その横顔を、俺は見た。
昨日からずっと、この女は得体が知れなくて、信用していいのかも分からなかった。
でも、たったひとりで、何年も。化け物だらけのこの世界で、顔も知らない誰かのために動き続けてきた。
簡単に切って捨てられる相手じゃ、ないのかもしれない。
「逃げ続けることも、できる」
澪が俺に向き直った。
「でも、それじゃ何も変わらない。ファントムはあんたを諦めないし、この世界も、このまま少しずつ呑み込まれていくだけ」
「……俺に、どうしろって言うんだ」
「まず、知ること。あんたが何者なのかを。それから決めればいい。戦うのか、逃げるのか」
淡い光が、下から澪の頬を照らしている。
その目に宿っていたのは、すがるような色じゃなかった。もっと静かで、まっすぐな、何かを信じきっている目だった。
俺みたいな男に、いったい何を期待してるんだか。
わからない。何ひとつ。
ただ、ひとつだけはっきりしていることがあった。ここで耳を塞いで逃げ出したら、俺はきっと一生、自分が何なのかを知らないまま終わる。それだけは、なんだか無性に嫌だった。
俺は、淡く光る装置に目をやった。
こいつの中に、俺の知らない俺がいる。親父と母さんが、命を懸けて隠してきた何かがある。
手のひらに、じわりと汗がにじむ。
怖い。正直、今すぐ逃げ出したい。
でも、それ以上に知りたかった。この光の向こうに、本当の俺がいるなら。
俺は震えそうになる指を、ぐっと握り直した。
俺は、ゆっくりと一歩、前に出た。
冷たい床を踏むその一歩が、自分でも意外なくらい、すんなり腹に落ちる。
装置に手を伸ばす。
指先が触れる寸前、表面の光が、俺を迎えるみたいにふっと強くなった。




