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電子に眠る未来 〜昨日までの日常はすべて偽物だった世界で、仲間を救う生存ルートを導き出す〜  作者: トンエリア
第一楽章

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第02話 人間の見分け方

 澪がようやく足を止めたのは、古い集合住宅のいちばん奥の一室だった。

 埃と黴のにおいがこもった、がらんとした部屋だ。家具らしい家具もない。誰かがここを、こういう時のための隠れ家として使っているのは一目で分かった。

 ドアを後ろ手に閉めて鍵をかけ、澪は窓の隙間から外を一度だけ確かめる。それからやっと、張りつめていた肩の力をほんの少しだけ抜いたように見えた。

 俺はといえば、立っているのもやっとだった。


 膝に手をついて、焼けつく肺に空気を押し込む。

 脚が笑っている。胃の底から酸っぱいものがせり上がってきて、俺はずるずると、その場にしゃがみ込んだ。

 立っていられなかった。膝が、自分の体重を支えるのを拒否している。歯の根が合わない。指先が冷たい。心臓だけが、まだ馬鹿みたいに早鐘を打っていた。

 頭のどこかでは、まだあの光景が再生され続けている。胸に開いたふたつの穴。糸を切られたみたいに崩れ落ちた男。額を撃ち抜かれて、それでも笑ったまま倒れていったエプロンの女。

 あんなものを、俺は今日まで一度も見たことがなかった。

 俺の世界はもっと退屈で、もっと安全なはずだった。こんな血なまぐさいものとは、いちばん遠いところにあったはずなのに。

 今朝、いちばんの問題は金を返さない自販機だったんだぞ。

 それが、どうだ。


「……なあ」


 声がかすれた。喉がからからだった。


「説明、してくれるって言ったよな。さっきの。あれ、いったいなんだったんだ」


 澪は壁際の椅子を引き寄せて、俺の前にことりと置いた。座れ、ということらしい。自分は窓を背に、立ったままだった。


「落ち着いて聞いて」


「落ち着けるかよ。目の前で人が二人、頭を撃ち抜かれたんだぞ」


「あれは人じゃない」


 澪の声は低くて、平らだった。感情の温度がまるで感じられない。


「ファントム、って呼ばれてる」


 聞いたこともない言葉だった。


「見た目も声も、人間と区別がつかない。指紋も、体温も、たぶん血の一滴まで人

 間そっくりにできてる。だから普通のやり方じゃ、絶対に見抜けない」


 絶対に、というところに、妙に重たい実感がこもっていた。

 あの秒針みたいなまばたきの男。トマトを潰しながら笑っていた、近所のおばさんにしか見えない女。

 背筋にまた、あの冷たいものが這い上がってきた。


「ひとつ、覚えておいて」


 澪が続けた。


「ファントムは、ただ人間に化けるだけじゃない。誰かに成り代わるの。本物の人間を消して、その席にそっくり座る」


 澪は一度言葉を切って、俺の目を見た。


「あんたの隣にいる誰かが、ある日から中身だけ別物になってる。そういうことが、平気で起こる」


 その意味が、じわじわと胃に染み込んでくる。

 成り代わる。本物を消して。

 あの主婦みたいな女にも、きっと元の人生があったはずだ。家族がいて、名前があって、行きつけの店だってあっただろう。それがある日まるごと、あの笑う化け物に乗っ取られた。

 そして誰も、それに気づかなかった。

 考えれば考えるほど、ぞっとした。

 入れ替わりは、誰にも分からない。葬式も出ない。誰も泣かない。本人はもう消えたのに、世界は何ごともなかったみたいに回り続ける。

 いちばん恐ろしいのは、そこだった。

 奪われたことにすら、誰も気づけない。


 訊くのが怖かった。それでも、訊かずにいられなかった。


「成り代わられた、本物のほうは、どうなるんだ」


 澪は短く答えた。


「消える。二度と戻らない」


 それきり、部屋がやけに静かになった。


 ふいに、ぞっとした。

 じゃあ俺の周りは、どうなんだ。

 いつも無愛想な仕立て屋の婆さん。バイト先の連中。アパートの大家。あいつらの中に、もう入れ替わったやつがいたとして、俺に見抜けるか。

 無理だ。

 たぶん、ひとりも。


「なあ、ひとつ訊いていいか」


 俺は乾いた唇を舐めた。


「見分けがつかないんだろ。指紋も、体温も、中身まで人間そっくりなんだろ。だったらあんたは、どうやって、さっきのふたりがファントムだって分かったんだ」


 澪の手が、ほんの一瞬止まった。


「経験。それと、勘」


「それだけかよ」


「それだけじゃない。でも、今は言えない」


 また、それだ。

 核心に触れようとするたびに、澪は貝みたいに口を閉ざす。苛立ちと、それを上回る不安が、胸の中でぐるぐる回っていた。


 俺はただの荷物運びだ。

 喧嘩だってまともにしたことがない。銃なんて触ったこともない。人が死ぬところを見たのも、今日が初めてだった。

 そんな人間が、見分けもつかない化け物に命を狙われている。得体の知れない女に手を引かれて、わけも分からないまま逃げ回っている。

 現実感がまるでなかった。

 悪い夢なら、いいかげん覚めてくれと思った。

 頬をつねってみた。痛い。当たり前だ。

 夢じゃない。どれだけ願っても、これは覚めない。

 俺は膝のあいだに顔を埋めた。せめて少しのあいだ、何も見ずにいたかった。暗闇だけが、今はやさしかった。


「……もういい」


 俺は乱暴に頭をかきむしった。


「もう、たくさんだ。なあ、俺、帰るよ。家に帰って、いつもどおり寝て、明日もいつもどおり荷物を運ぶ。それでいいんだ。化け物も、大統領も、俺には関係ない」


 分かっていた。口に出した端から、それが無理だってことくらい。

 澪は俺を見て、静かに、けれどはっきりと言った。


「帰れない」


「なんで」


「あんたの家は、もう見張られてる。バイト先も。あんたが今日までいつもどおりだと思ってた場所は、もう全部、あいつらに知られてる」


 言葉が出なかった。

 帰る場所がない。たった半日で、俺は自分の居場所をまるごと失ったらしい。

 膝を抱えた腕に、力がこもる。怖いというより、ただ呆然としていた。いろんなことが一度に起きすぎて、感情がどこか追いついてこない。


 そして、その疑いは当然、目の前の女にも向く。


「……あんたは」


 俺は顔を上げた。震える声をなんとか押し殺す。


「あんたが、ファントムじゃないって、どうやって信じればいいんだよ」


 澪はすぐには答えなかった。

 責めるでも傷つくでもなく、ただ静かに俺を見返してくる。その目の奥に、何かがちらりとよぎった。痛みみたいなものだった気がする。


「信じなくていい」


 やがて澪は、そう言った。


「少なくとも今は。──そのうち嫌でも分かる。わたしが人間だってことも、もっと厄介なことも、全部」


 その横顔を、俺は改めて見た。

 よく見れば、澪もぼろぼろだった。コートの裾は破れ、頬には細い擦り傷が走っている。化粧っ気のない顔には、隠しきれない疲れが滲んでいた。年は俺と変わらないはずなのに、その目だけが、ずっと長いあいだ戦い続けてきた人間のものに見える。

 こいつも、と俺は思った。

 好きでこんなことをやってるわけじゃないのかもしれない。


 澪は壁際の古いリュックを引き寄せると、中から金属のボトルを取り出して、無造作に俺へ放った。

 受け損ねて、膝の上で慌てて抱える。


「飲んで。喉、渇いてるでしょ」


 言われて初めて、自分がどれだけ渇いていたかに気づいた。蓋を開けてひと口含むと、ぬるい水が、砂みたいに乾いた喉に染み渡っていく。

 うまい、と思った。

 こんな状況なのに、ただの水が、ばかみたいにうまかった。

 生きてる。その実感が、水と一緒に喉を通っていく気がした。


 水を飲み干すと、ようやく少しだけ頭が回りはじめた。

 窓の外は、いつのまにか薄暗くなっている。梁の隙間から落ちる光が、夕暮れの色に変わっていた。今朝あの壊れた自販機の前に立っていた自分が、もう何日も前のことみたいに遠い。

 たった半日だ。

 たった半日で、俺の世界はひっくり返ってしまった。


「さっき、言ったよな」


 俺は口を開いた。


「俺が、初代大統領の末裔だって。なんで知ってるんだ。そんなこと、親父とごく一部の身内しか知らないはずだ。俺だって、ガキの頃に一度聞かされただけで、半分忘れかけてたくらいなんだぞ」


 澪は答えなかった。

 答えないことが、答えみたいなものだった。

 こいつは俺について、俺自身が知らないことまで知っている。その事実が、ファントムよりもよっぽど不気味に思えた。


「なあ」


 俺はもう一度、声を絞った。


「なんで俺なんだ。借金もない。コネもない。誇れるものなんか何ひとつない。ただの荷物運びだぞ。そんな俺を、なんであんな化け物どもが、命がけで狙うんだよ」


 長い沈黙があった。

 澪はしばらく黙り込んで、それから、ひどく言いにくそうに口を開いた。


「それを話すには、あんたが思ってるより、ずっと長い話になる」


「いいよ。聞く。どうせ眠れる気がしない」


「だめ。今夜は休んで。体力、もう限界まで削れてる」


 はぐらかされた、と思った。

 でも澪の横顔は、はぐらかしているというより、何かを口にするのを怖がっているように見えた。それが余計に、俺を落ち着かなくさせる。


 澪は窓の外へ目をやったまま、静かに続けた。


「明日、あんたに見せたいものがある」


「見せたいもの?」


「あんたが、何者なのか」


 その声は慰めるみたいに優しくて、だからこそ、ぞっとするほど不吉に響いた。


「たぶんあんたは──自分が何なのかも知らないまま、今日まで生きてきたんだと思う」


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