第01話 壊れた自販機と、銃を持つ女
この物語は最後まで執筆完了しています。
十七番街の自販機は、その朝も壊れていた。
コインは飲み込んだ。缶は落ちてこない。パネルだけが「ありがとうございました」と無駄に明るく光っている。礼を言う暇があるなら金を返せ。
俺は釣り銭口を二度叩いて、すぐに諦めた。
管理局に苦情を入れたところで、直るのは来週か、運が悪けりゃ再来週だ。この街のものはだいたいそんな調子で動いている。古くて薄汚れていて、直す人間の手がいつも足りていない。
天城真、十九。職業、万屋。
誇れるものなんて何ひとつ持っていない。
まあ、今日も無事に目が覚めた。誇るならそのくらいか。
路地を抜けると、いつもの蒸し暑さが顔に張りついてきた。
配管の継ぎ目から漏れる蒸気のにおい。どこかの店の揚げ物の油。生乾きの洗濯物。安っぽくて生活くさい空気を肺いっぱいに吸い込むと、ああ今日も生きてるなと妙に納得してしまう。
頭の上には鉄骨の梁が何重にも走っていて、その隙間から青っぽい光が落ちてくる。あれを空と呼んでいいものか、俺は昔から少しだけ疑っている。
でも誰もそんなことは気にしない。
空は空だ。雨も降るし夜にはちゃんと暗くなる。それで充分だろう。文句があるなら自分で星でも作れって話だ。
仕事の中身は、説明するのも面倒なくらい単純だった。
区画の端から端まで、頼まれた箱を担いで歩く。それだけ。
重い。腰にくる。給料は安い。
数えはじめたらきりがないから、俺はたいてい途中で文句を数えるのをやめる。今日もそうだった。三つ目あたりでやめた。
届け先は、五区画ほど離れた仕立て屋だった。
婆さんが一人で切り盛りしている、看板の傾いた古い店だ。
戸を開けるなり、
「遅い」
開口一番それだった。おはようもない。
「自販機に金を取られてたんだよ。十七番街の、あの壊れたやつ」
「あれはもう三年前から壊れてる。いいかげん学習しな」
婆さんは皺だらけの手で箱を受け取ると、中身も確かめずに奥へ引っ込んでいく。釣りもなければ愛想もない。
それでも俺がこの仕事を辞めずにいるのは、この婆さんが月末にきっちり金を払う、数少ない客のひとりだからだった。口は悪い。でも払いだけは確かで、俺にはそれがいちばんありがたかった。
「気をつけて帰りな」
暖簾の奥へ消える寸前、背中越しにそれだけ投げてきた。
婆さんなりの気遣いらしい。柄にもないことを言う。おかげで少しだけ、毒気を抜かれた。
その男に気づいたのは、店を出て四つ目の角を曲がったときだ。
最初はただの通行人だと思った。グレーのコートを着た、痩せた男。俺と同じ方向へ歩いている。それだけなら何でもない話だった。
でも、ひとつ前の角でも同じ男を見た気がする。
距離も歩く速さも、まるきり同じ。
気のせいだろう。たぶん。
俺は手ぶらの肩を回して、わざと歩調を変えてみた。少し速く。それから、急に遅く。
男も変えた。
俺の真後ろで、ぴったりと。
背筋に冷たいものが走る。
心臓が勝手に走りだす。汗が、さっきまでの蒸し暑さとはまるで別の汗が、首筋を伝い落ちた。
考えろ。なんで俺なんかが尾けられる。借金はない。揉め事も、たぶんない。ただの荷物運びだぞ。
届けた箱の中身か?
知るかよ。中身なんて一度も見たことがない。
角を曲がる。早足で。
息を吸って、勢いよく振り返った。
男はいた。
さっきより、ずっと近い。
顔を見て──俺は息を止めた。
目が笑っていない、とかそういう生やさしい話じゃない。
その男の顔は、よくできていた。よくできすぎていた。鼻の形も肌の質感も、生え際の一本一本まで人間そっくりに作られている。
なのに何かが決定的にずれていた。
まばたきをしない。
いや、している。けど間隔が等間隔すぎる。生き物のまばたきじゃない。秒針みたいなまばたきだ。
「天城真」
男が、俺の名前を呼んだ。
知らない声だった。聞いたこともない声で俺のフルネームを、荷物の伝票番号でも読み上げるみたいに口にした。
逃げろ、と体の奥で誰かが叫んだ。
考えるより先に足が動いていた。
全力で路地を駆ける。
背後で何かが地面を蹴る音。
速い。人の足じゃありえない速さで、距離がみるみる詰まってくる。
角を曲がりざま、積み上げた空き箱に肩がぶつかった。崩れる音。構わず走る。肺が焼ける。心臓が喉のあたりまでせり上がってくる。
もうひとつ角を曲がって──突き当たった。
くそ。行き止まりだ。
錆びついた金網が、頭ひとつ分高く道をふさいでいる。よじ登る時間なんてどこにもない。
振り返ったときには、男はもう手の届く距離にいた。
その手の中で、刃物が鈍く光っていた。
ああ、死ぬんだ。
唐突に、それも妙に冷静に、俺はそう思った。十九年も生きて、朝っぱらから自販機に金を取られて、こんな薄汚い路地で殺されるのか。最悪だ。最低の幕引きだ。せめて最後に一発くらい殴ってやろうと、俺は震える拳を握りしめ──
乾いた音が、二回。
男の動きが止まった。
胸のあたりに、黒い穴がぽつりとふたつ開いている。男はそれを不思議そうに見下ろして、それから糸を切られた人形みたいにその場に崩れ落ちた。
俺の後ろから、足音がひとつ近づいてくる。
振り返ると、女が立っていた。
年は俺と同じくらいか、少し上か。煤けたコートの裾を翻して、片手に黒い拳銃を提げている。撃ったばかりの銃口から、細い煙がひと筋立ちのぼっていた。
その目がまっすぐ俺を捉える。
綺麗な顔だな、と俺はこの状況で思った。我ながらどうかしている。そして同時に、こいつも普通の人間じゃないと直感した。
女は倒れた男を一瞥して、俺に向き直った。
「無事?……まあ、立ってるならいいか」
「あんた、誰だよ。今のは、なんなんだ」
「説明はあと。ここはもう危ない」
女は拳銃をコートの内側にしまうと、俺の腕を掴んだ。指は細いくせに、振りほどけないほど強い力で。
「ちょっ、待てって。話がぜんぜん見え──」
「天城真。初代大統領の、最後の末裔」
心臓が、跳ねた。
なんで。なんでこいつが、それを知ってる。
初代大統領の血筋だなんてのは、家族とごく一握りの人間しか知らないはずの俺の出自だ。
問い詰める間もなかった。
歩きだして、十歩も行かないうちだ。前方の角から、もう一人ぬっと現れる。
今度は女だった。エプロン姿の、どこにでもいそうな中年の女。買い物帰りみたいにレジ袋を提げている。
なのに、俺の腕を引く澪の足が、ぴたりと止まった。
「下がって」
短くそう言うと、澪は俺を背中で庇うように半歩前へ出た。
エプロンの女が、にこりと笑う。
その笑顔のまま、提げていた袋を取り落とした。中からトマトが転がり出て、ぐしゃりと潰れる。
女の手には、いつのまにか細長い銃身が握られていた。
乾いた音。一回。
女の額に小さな穴が開いて、笑った表情のまま、後ろへ倒れていった。
俺はその場から動けなかった。声も出ない。
今のは。あの、どこにでもいる主婦みたいな女は。
「言ったでしょ。ここはもう危ない」
澪は銃口を下げもせず、低い声のまま続けた。
「この街じゅうが、あんたを狙ってる」
走るよ、と澪が俺の腕をまた引いた。
今度はもう、抵抗する気も起きなかった。
頭の中がぐちゃぐちゃだった。
さっきのエプロンの女。あれはどこからどう見ても普通の人間だった。買い物帰りの、近所のおばさんだった。なのに笑ったまま俺を撃ち殺そうとして、笑ったまま死んだ。
じゃあ、あの仕立て屋の婆さんは。さっきすれ違った連中は。この街にいる人間は、どこまでが本物でどこからが──
考えかけて、やめた。
考えたら足が止まる。足が止まったら、たぶん死ぬ。
口の中が鉄くさかった。さっき思いきり舌を噛んだらしい。痛みなんて、今はどうでもよかった。
澪は迷いなく路地を選んでいった。右、左、それからまた右。まるでこの街の裏側を頭に叩き込んでいるみたいだった。配管の下をくぐり、崩れた塀の隙間を抜けて、人気のない通りへ俺を引っぱっていく。
追ってくる足音は、いつのまにか聞こえなくなっていた。
それでも澪は速度を緩めない。
どれくらい走ったのかも分からない。五分か、十分か。時間の感覚なんてとっくに溶けていた。
もつれる足を必死に動かしながら、俺はやっとのことで声を絞り出した。
「あんた……何者なんだよ。なんで俺なんかを助ける」
「久遠澪。あんたを探して、ここまで来た」
「ここまでって……どこからだよ」
「この世界の、外から」
外。
その一語が何を意味するのか、俺の頭はまだ何ひとつ理解できていなかった。
ただ、腕を掴む彼女の指の冷たさだけが、これは夢でも冗談でもないとはっきり告げていた。
「面白い」「続きが気になる」と思ってくださったら、ぜひブックマーク応援していただけると非常に励みになります!
※カクヨムにも同時投稿しています。




