第22話 代償
世界から、音が消えた。
澪の体がゆっくりと傾いていく。
貫かれた腹のあたりから、赤いものがじわりと広がっていく。
その光景を俺はただ呆然と見ていた。
手の中のコアが急にひどく冷たく、重く感じられた。
これを取るために。
俺はこいつを見殺しにしたのか。
信じたくなかった。
ほんの数秒前まで、すべてはうまくいっていたはずだった。
コアを手に入れ現実に渡り、あとは帰るだけ。
そのほんの一手を、俺は間違えた。
たった一手で、世界が地獄に変わった。
「澪!」
叫んで駆け寄った。
崩れ落ちる体を、なんとか両腕で抱きとめる。
ファントムはもう興味を失ったように、すっと闇に溶けて消えていた。
目的は果たした。そう言わんばかりに。
俺の腕の中で、澪がぐったりと力を失っていく。
嘘だろ。
ついさっきまで、隣で俺のルートを頼りにしてくれていたのに。
こんな一瞬で。
現実はあまりにもあっけなかった。
電脳世界なら、巻き戻せばなんとかなった。
でもここは現実だ。
現実で流れた血は現実で失われた命は、そう簡単には戻らない。
その重さが今になってずしりと両肩にのしかかってきた。
澪の体は信じられないくらい軽かった。
削れて削れて、もうこれだけしか残っていなかったんだ。
その軽い体から、命がどんどん零れ落ちていくのがわかった。
「澪!しっかりしろ!目を開けてくれ!」
俺は必死で傷口を両手で押さえた。
でも指の隙間から、温かいものが止めどなく溢れてくる。
止まらない。
どうすればいい。
頭が真っ白で、何ひとつ考えがまとまらなかった。
ついさっき勝った気でいた自分が信じられなかった。
あの油断が。あの一瞬の欲が。
ぜんぶこいつに跳ね返ってきた。
俺のせいだ。
俺がこいつをこんな目に遭わせた。
「識!何とかならないのか!頼む!」
俺は振り返って叫んだ。
でも識は青ざめた顔で、ただ首を横に振るだけだった。
海もレンも言葉を失って立ち尽くしている。
その沈黙が残酷な答えを突きつけてきた。
手遅れだと。
「真」
澪がかすれた声で俺の名を呼んだ。
はっとしてその顔を覗き込む。
血の気の失せた唇が薄く、笑みの形を作っていた。
こんなときに、笑うな。
俺の胸が引き裂かれそうになった。
「そんな顔しないでよ」
「喋るな!傷に障る!」
「いいの。これくらい最初からわかってた」
わかってた、だって。
こいつはこうなることをずっと前から知っていたんだ。
いや、覚悟していた。
自分がいつか、こうやって死ぬかもしれないことも。
それでも俺たちのために何度も何度も、その身を差し出してきた。
その重さを、俺は何も知らずに踏みにじったんだ。
「ごめん」
やっと出たのは、その一言だった。
声が震えてうまく言葉にならない。
「俺がコアなんかに目が眩んだせいだ。お前を守るって、あれだけ誓ったのに。俺がお前を死なせた」
「違うよ」
澪は弱々しく、でもはっきりと首を振った。
「真はよくやってる。ここまで来られたのは、ぜんぶ真のおかげ。誰のことも責めちゃ駄目」
「でも——」
「それにね、私。真と一緒に戦えて、よかったと思ってる。一度目のお前はいつも自分なんてって、うつむいてた。でも今のお前は、まっすぐ前を見てる。その隣にいられたこと。私の誇りだよ」
胸が詰まって、何も言えなくなった。
誇りだなんて。
俺は、こいつの誇りをこんな血の海の中で聞いている。
最低の気分だった。
もっと早く、こいつの想いに気づいていれば。
もっと、こいつを大事にしていれば。
後悔ばかりが、次から次へと押し寄せてくる。
「ねえ、真。一つだけ、お願いがあるの」
澪の手が震えながら持ち上がって、俺の頬に触れた。
氷みたいに冷たい手だった。
いつもの、あの冷たさ。
でも今は、その冷たさがどうしようもなく悲しかった。
「巻き戻して」
その言葉に、俺は息を呑んだ。
「この時間軸を、なかったことにして。そうすれば、私はまた生きられる。みんなも無事になる。真なら、できるよ。もう、その力は目覚めかけてるから」
「でも、それは——」
言いかけて、俺は言葉に詰まった。
わかっている。
巻き戻せば、澪は助かる。
この致命傷も、なかったことになる。
でも巻き戻すたびに、こいつの体はもっと削れていく。
今ここで巻き戻せば。
澪に残されたわずかな命が、さらにごっそりと失われる。
俺は、こいつをこの死から救うために。
こいつを、本当の終わりにもっと近づけてしまうんだ。
なんて選択だ。
助けるために、命を削る。
どっちに転んでも、俺はこいつを傷つけることしかできない。
手のひらが、汗でじっとりと濡れていた。
あれだけ、誓ったのに。
お前の体をこれ以上削らせない、と。
なのに、また俺はお前の命を削る引き金を引こうとしている。
しかも、自分が招いた失敗の尻拭いのために。
情けなくて、吐きそうだった。
でも、それでも。
こいつを、ここで死なせるよりはずっといい。
現実で死ねば、それきりだ。
巻き戻しの力も、そこで途切れる。
澪が、ループの外側にいるただ一人の存在だから。
こいつが死ねば、もう誰も時間を巻き戻せない。
みんなを救う道も、そこで完全に閉ざされる。
だから何としても、こいつだけは生かさなきゃならない。
「ためらわないで」
俺の迷いを見抜いたように、澪が言った。
その声は弱いのに、不思議と芯が通っていた。
「ここで私が現実で死んだら、それは本物の終わり。二度と取り返せない。でも巻き戻せば、まだ続きがある。まだ、戦える。お願い。私を、こんなところで終わらせないで」
こんなところで、終わらせないで。
その言葉が、胸に突き刺さった。
澪は、死を恐れているんじゃない。
ただ、まだ諦めたくないんだ。
まだ勝ちたい。みんなを助けたい。俺と最後まで、戦いたい。
その意志が、消えかけた命を必死で繋ぎ止めていた。
なら、俺の答えは決まっている。
その目を見て、俺は腹を決めた。
澪が、それを望むなら。
まだ終わりたくないと、言うのなら。
俺は、何度だって巻き戻す。
たとえそれがこいつの命を削る、最低の選択だとしても。
生きてさえいれば、またやり直せる。
そして次は、絶対に間違えない。
二度と、こいつにこんな思いはさせない。
もう、迷わない。
次の周回では何があっても、コアより任務よりこいつを最優先する。
世界の命運がかかっていようと、関係ない。
まず、澪を守る。
それを、揺るがない芯にする。
今この瞬間、俺は自分の弱さに別れを告げた。
俺は澪の冷たい手を、両手で強く握りしめた。
「わかった。巻き戻す。だから——」
涙を、必死でこらえながら言った。
「次に目を覚ましたらまた、よろしくな」
澪が、ほっとしたように微笑んだ。
その微笑みを、目に焼きつけた。
今この瞬間の、すべてを。
俺が犯した、取り返しのつかない過ちを。
腕の中で崩れていく、こいつの姿を。
ぜんぶ、忘れない。
この死を覚えているのは、俺と澪だけ。
みんなにとっては、なかったことになる。
海も識もレンも、この時間軸の記憶を失う。
でも、俺は忘れない。
これから始まる新しい時間軸では、海はまた何も知らずに笑いかけてくる。
識は、また一から世界の謎に気づいていく。
レンは、また他人として俺の前に現れる。
そして澪は——また、あの路地で俺を待っている。
今日のことを覚えているのは、世界でただ二人。
俺と、こいつだけだ。
この痛みを抱えて俺は次こそ、すべてを守り抜く。
俺は、静かに目を閉じた。
意識を、自分の奥のほうへと沈めていく。
あの、白い部屋。
封じられた記憶の、いちばん深いところ。
そこに眠る力に、俺は必死で呼びかけた。
戻れ。
この時間を、巻き戻せ。
澪がまだ笑っていた、あの日へ。
体の奥が、かっと熱くなった。
頭の中で、無数の数字と文字が渦を巻きはじめる。
世界が、ぎしぎしと軋む音がした。
足元から、白い光がこみ上げてくる。
この感覚は、二度目だ。
一度目は自分が死にかけて、無我夢中で巻き戻した。
でも今度は、違う。
自分の意志で、はっきりとこの力を呼び起こしている。
澪を、もう一度生かすために。
それだけのために。
腕の中の澪の重みが、だんだん薄れていく。
その輪郭が、光の中に溶けていく。
待ってくれ。
まだ、離したくない。
でも巻き戻しはもう、止められなかった。
「真」
消えゆく意識の中で、澪の最後の声が聞こえた。
「ありがとう。それから——ごめんね」
なんで、お前が謝るんだ。
そう言い返したかった。
でも言葉は、もう声にならなかった。
差し出した手が、白い光に飲み込まれていく。
最後に見えたのは、安らかに目を閉じる澪の顔だった。
まるで、長い悪夢からやっと解放されたみたいに。
その表情を、俺は一生忘れないだろう。
世界が、真っ白に染まりきった。
俺の選択が、一人の少女の残り少ない命を削った。
その重みを、ずっしりと抱えたまま。
俺はまた、あの朝へと堕ちていく。
今度こそ。
今度こそ誰一人、欠けさせないために。




