第21話 天秤
広間は、一瞬で地獄になった。
四方の暗がりから、ファントムが次々と這い出してくる。
その数ざっと数十。
どれも人間そっくりの顔で、にやにやと笑っていた。口は笑い、目は笑っていない、あの不気味な笑み。
まともにやり合えば、勝ち目はない。
わかっていたはずなのに、いざ囲まれると足がすくんだ。
「澪!装置を起動しろ!時間は俺たちが稼ぐ!」
俺はありったけの声で叫んだ。
澪がはっと我に返り、培養装置の端末へと走る。
レンの銃が火を噴いた。
正確無比の射撃が、先頭のファントムを次々と撃ち抜いていく。
頭。心臓。膝。
動きを止めるべき急所を、的確に撃ち抜いていく。
でも倒しても倒しても、後から後から湧いてくる。
きりがない。
俺は足元に落ちていた鉄パイプを拾って、両手で握りしめた。
訓練前のもやしの体。
黒鉄に鍛えてもらった日々も、巻き戻しでなかったことになっている。
それでもただ突っ立っているわけにはいかなかった。
守るんだ。
今度こそ誰も死なせない。そう誓ったじゃないか。
俺は震える足を、無理やり前に出した。
「識!海!澪の後ろに回れ!装置を守るんだ!」
二人が慌てて澪のもとへ駆ける。
俺とレンはその前に立ちはだかった。
識が震える声で、何かを叫んでいた。
「右!右から来てる!」
あいつは戦えない。でもその目は、必死で戦況を読んでいた。誰よりも速く敵の動きを計算して、俺たちに伝えてくる。
海は識の腕を掴んで、自分の体で庇うように後ろへ下がっていた。
みんな必死だった。
全員で生き延びようとしていた。
ファントムが、こちらに襲いかかってきた。
俺は無我夢中で鉄パイプを振り回した。
一発二発。
手のひらが痺れる。
化け物の力は、今の俺とは比べものにならなかった。
受け止めるだけで、腕が悲鳴をあげる。
すぐに組み伏せられそうになった。
そこへレンの一射。
俺に伸ばされた化け物の腕が、撃ち抜かれて止まる。
「無茶をしすぎ」
レンがぼそりと言った。
いつもの能面が、わずかに険しかった。
「真は下がってて。前は私がやる」
「悪い!助かる!」
それでも戦況はじりじりと押されていった。
レンの腕は確かに超一流だ。
でもたった一人で、この数を捌ききれるはずがない。
弾だって無限じゃない。
じわじわと包囲の輪が狭まってくる。
背中に嫌な汗が伝った。
時間が欲しい。
あとほんの少しでいいから。
俺は鉄パイプを盾みたいに構えて、迫る化け物を必死に押し返した。
まともに戦えなくたって、囮にはなれる。一秒でも澪の時間を稼ぐ。
その一心だった。
「澪!まだかかるのか!」
「もう少し!起動シーケンスが、複雑で——」
澪の声が焦りで上ずっていた。
その額には玉のような汗が浮かんでいる。
顔色は紙みたいに真っ白だ。
こんな極限状態で、ダイブの負担まで背負って。
こいつはもうとっくに限界を超えている。
それでも震える指で、必死に端末を操作し続けていた。
永遠にも思える、数十秒だった。
じりじりと削られもう駄目かと誰もが思った、そのとき。
「——起動した!」
澪が声を張り上げた。
培養装置がまばゆい光を放ちはじめる。
俺たちの足元に淡い光の輪が、ぶわりと広がっていく。
全身がふわりと浮くような、奇妙な感覚に包まれた。
視界がみるみる真っ白に染まっていく。
ファントムの群れがその光を嫌うように、たじろいだ。
間に合った。
俺は薄れていく意識の中で、確かにそう思った。
みんなを現実に連れていける。
一人も欠けることなく。
長い旅の最後の一歩だった。
光に包まれながら俺は、確かな手応えを感じていた。
もう少しでぜんぶ、報われる。
次に、目を開けたとき。
最初に感じたのは、重さだった。
体が、やけに重い。
手を握るだけで、ずしりとした手応えがある。
息を吸うと、肺がちゃんと膨らむ感覚があった。
これが、現実の肉体。
電脳世界の軽くて曖昧な体とは、まるで違っていた。
俺たちは薄暗い、金属質の部屋に立っていた。
壁も天井も、無骨な配管が剥き出しになっている。
空気は埃っぽくて油と、古い金属の匂いがした。
どこか遠くで低く、機械が唸る音が響いている。
ここが、現実。
人類が肉体を捨てて何百年も旅を続けてきた、本物の移民船の中だ。
ふと壁の小さな窓に、目が留まった。
その向こうを見て俺は、言葉を失った。
吸い込まれそうな漆黒の宇宙がどこまでも、どこまでも広がっていた。
無数の星が、瞬いている。
これが本物の、外。
電脳世界で見ていた空は全部作りものだったんだと、改めて思い知らされた。
「真。立てる?」
すぐ近くで、澪の声がした。
振り向くとそこに、澪がいた。
でもいつもの澪じゃ、なかった。
電脳世界での姿より少しだけ痩せて頬がこけて、儚げで。
これがこいつの、本当の体。
この体が今この瞬間も、削れ続けている。
胸が、ぎゅっと締めつけられた。
識も海も、レンも無事だった。
みんな初めての現実に戸惑った顔で、自分の手を握ったり開いたりしている。
全員生きて、ここまで来た。
一度目には、たどり着けなかった場所。
込み上げてくるものを、ぐっとこらえた。
ここまでは、完璧だった。
先読みを武器に、一度目では届かなかった現実に全員で立った。
あとは、コアを手に入れてコードを完成させるだけ。
俺は、心のどこかでもう勝った気になっていたのかもしれない。
その油断がいちばん怖いものだと、知りもせずに。
「ここは、どこなんだ?」
俺が訊くと識が、油断なく周囲を見回しながら答えた。
「培養装置の、転送先だ。座標から見てたぶん、目的地のすぐ近くに飛ばされた」
「目的地……?」
「コアだよ」
澪が、静かに言った。
「ここから、そう遠くない。私の一族が現実の研究施設に遺した、世界解析コードのもう半分。あれと、真の中の鍵。二つが揃って、初めてコードは完成する」
コア。
ここまで来た、すべての目的。
長い長い道のりの果てにあと一歩で、それに手が届く。
澪が先導して俺たちは、薄暗い通路を進んだ。
現実のファントムに出くわさないよう、息を潜めて。
ほどなく、目的の部屋にたどり着いた。
古びた、研究室だった。
埃をかぶった機材が、ずらりと並んでいる。
その中央の、小さな台座の上に。
淡い光を放つ結晶のようなものが、ぽつんと安置されていた。
「あれが、コア」
澪が、ささやくように言った。
心臓が、激しく高鳴った。
あれさえ手に入れれば。
俺たちは勝利に、大きく近づく。
ファントムの潜伏を暴く切り札が、すぐそこにある。
もう少しだ。
ここまで、本当に長かった。
二度の絶望を越えて澪の体を削って、仲間を巻き込んで。
その果てに、ようやく勝利の尻尾を掴みかけている。
だからこそ、俺は欲を出してしまったのかもしれない。
俺がコアに向かって一歩、踏み出した。
まさに、その瞬間だった。
部屋の隅の、暗がりから。
一体のファントムが、音もなく躍り出た。
現実にも、奴らはいた。
いや——たぶん、俺たちを追ってきたんだ。
そいつは迷いなく、まっすぐ澪に向かった。
戦う力もない、消耗しきった澪に。
その瞬間、時間が止まったように感じた。
俺の正面には、コア。
手を伸ばせば、すぐに届く距離。
俺の左には、澪。そこへ、ファントムが迫っている。
どっちだ。
頭の中が、真っ白になった。
心臓が、ばくばくと鳴る。
コアを取れば、勝てる。勝てば、澪だって助かる。全員、助かるんだ。
澪に駆け寄れば、その隙にコアは奪われるか壊されるかもしれない。
ここまでのすべての苦労が、水の泡になる。
一瞬で無数の計算が、頭を駆け巡った。
守る、と誓ったはずだった。
澪だけは、絶対に死なせないと。
なのに、いざその場面になると、頭が勝手に天秤をかけはじめた。
任務か、澪か。
その天秤にかけてしまった時点で、俺は間違えていたんだ。
そして。
ほんの一瞬、俺の足はコアのほうへと動いていた。
体が、勝手に動いていた。
ここまで来てコアを諦めるなんて、できなかった。
あと少しなんだ。あと、これさえあれば。
澪のことは、頭の片隅にありながら。
俺は自分にとっていちばん大事なものの順番を、その一瞬見失っていた。
大丈夫だ。
コアを掴んでからすぐに振り返って澪を助ければ、きっと間に合う。
俺は、そう判断した。
戦いの経験が圧倒的に足りない俺の、致命的な判断ミスだった。
俺はコアを掴んだ。
ひやりとした結晶の感触が、手のひらに伝わる。
やった。
そう思って、俺は澪のほうを振り返った。
その、刹那。
ファントムはもう、澪の目の前に立っていた。
俺が思っていたよりずっと、ずっと速かった。
その動きの速さを、俺は完全に見誤っていた。
澪が、こちらを見た。
その目には驚きも恐怖も、なかった。
ただすべてを諦めたような、ひどく優しい色だけが浮かんでいた。
まるでこうなることを、最初から知っていたみたいに。
「真——」
澪の唇がかすかに、俺の名を呼んだ。
その直後だった。
ファントムの腕が、無造作に振り抜かれ。
澪の細い体を、深々と貫いた。
時間が、止まった。
俺の手の中には、勝利の鍵。
俺の目の前ではいちばん守りたかったものが、崩れ落ちていく。
手に入れたものと、失ったもの。
その天秤は最悪の形で、傾いていた。




