SS【IFルート】クロエを失った俺は、お嬢様を救えなかった。彼女は他の男の妻になった(後編)
※本編とは異なるIFルートです。
※クロエが存在しない分岐となります。
※侍従として生きることを選んだジェイド視点の、やや切ないお話です。
※大人向けの雰囲気と、ほろ苦い展開を含みますので、苦手な方はご注意ください。
廊下の壁に背を預け、その場にしゃがみ込んでいた。
右手で髪をかき上げ、俯いたまま動けない。
腕から力が抜けてしまい、だらりと床に落ちた。
奥から差し込む月明かりが、輪郭だけを淡く浮かび上がらせていた。
すぐ向こうは、夫婦の寝室だ。
扉一枚隔てた向こうから、かすかな声が聞こえる。
甘く震える吐息。
衣擦れの音。
そして、軋む寝台。
俺は壁に頭をつけて、上向きに目を閉じた。
――聞くつもりはなかった。
だが、ここを離れることもできない。
指先が、床を強く握りしめる。
部屋の明かりが灯り、扉から薄っすらと光が漏れた。
音が遠ざかっていく。
そろそろ呼ばれる時間だ。
だが、中の音は続いていた。――いつもとは違う。
聞き馴染んだ甘い声が耳を苛む。
「遅いな……」
握り込んだ懐中時計を開く。
秒針が歪み、正確な時間は確認出来なかった。
――ぽたり。
雫が落ちる。
さらに、滲んでぼやけていく視界。
「……遅刻ですよ、お嬢様」
自分の言葉に苦笑する。
――約束すらしていないのに。
◇◇◇
そっとノックをすると、中から熱を帯びた声が応える。
一回だけ息を吐く。懐中時計をそっと上着の内側にしまった。
そして扉を開く。口元には軽薄な笑みを浮かべて。
これから、いつも通りの『ジョン』になる。
「どうしました?また俺に抱かれたいんですか」
「……ジョン」
火照った肌で目に涙を浮かべ、安心したように肩の力を抜き俺の名前を呼ぶ。
――さっきは違う名前を呼んでいた唇が。俺の名前を口にする。
少し腫れた唇で、今夜もまた誘われる。
あぁ。罪深いお嬢様。
俺はこれからまた溺れなきゃいけないんだね。
脱ぎ捨てた服から懐中時計がこぼれ落ちた。
暗闇の中、窓からの光で少しだけ光る。
俺は、視線を無理やり引き剥がして腕の中の大切なものに触れた。
「……夜は長いでしょう?お嬢様」
首元にキスを落とすと、いつもよりすぐに反応する。
そこには、薄っすらと残る跡が何個もあった。
――なんで。
溢れそうな言葉を、ぐっと堪える。
俺の反応に気づいたのか。
隠しきれないのに、その細い指で隠そうとするお嬢様。
弱々しい声が俺の耳元で囁く。
肩に滲む涙が、広がっていく。
「ごめんなさい……私はもう、ジョンのものじゃないのかな……」
「……なにを言ってるんですか?あなたはずっと俺のお嬢様ですよ」
彼女の首元にある手首をそっと引き剥がして、色づいたそこに唇を落とした。
懐中時計の秒針がやけに耳につく。
空が白み始め……もう少しで役割が終わる時間だ。
明け方頃。
彼女は、いつも不安気に窓の外を見る。
まるで、朝が来るのを恐れているかのように――。
俺の都合のいい解釈だろうか。
自嘲気味な笑みが浮かんでしまう。
目を閉じた彼女の頬に触れた。
滑らかな肌。
確かに感触があるはずなのに、俺には届かない。
「ねぇ……。ここから逃げてもいいかな……?」
ぽつりと小さな声が呟かれた。
俺から離れるように、ゆっくりと後ろを向く彼女。
彼女の表情は影になって見えない。
俯いたその後ろ姿しか見えなかった。
その答えを求められるのか――。
視線を逸らして掌を見る。
何もない。
(……俺は、何も得ていないんですよ、お嬢様)
『ジョン』は無理やり口角を上げた。
「今度はもっと早く呼んでください。……少しでも、あなたと居られるように」
ここまで読んでいただきありがとうございます。
今回はIFルートということで、ジェイドの「侍従として生きる選択」を軸に書いてみました。
クロエがいない世界線では、お嬢様も精神的に少し弱く育ってしまいます。
懐中時計や『ジョン』の切り替えなども、意識して構成しています。
かなり切ない形になりましたが、こういう関係性も好きなので書いていて楽しかったです。




