リディアへの一歩
リディアが編入してきてから、二月近くが過ぎていた。
南方の小国アルカディア。大陸南端の海沿いに位置した王国。半年前、東の隣国エルディアに併合され、王族は追放された。国王は処刑。王妃は行方不明。王女だけがレグナシオン王国に身を寄せた、という話は、ナターシャから聞いていた。
編入は一週間前に予告され、初日には学園長が自ら教室まで付き添った。それでも、「亡国の姫」とどう接すればよいのか、誰にも分からなかった。教師が示した最後列の席までリディアが一人で歩いた時の静けさを、セレスティアは今も覚えている。
その席は、まだ誰の隣でもない。
「南方の国の子らしいよ」「どこの国?」「アルカディア? 聞いたことない」「亡国って聞いた」……囁きは最初の一週間だけだった。好奇心が八割、同情が一割、残りは品定め。そして飽きられた。今では誰もリディアを話題にしない。
話題にしないというのは、いないことにするということだ。
リディアは真っ直ぐ前を向いて授業を受け、休み時間になると席を立つ。どこへ行くのかは、誰も知らない。
◇
昼休み。大食堂の構図は変わっていなかった。中央にイザベラの一団。窓際にアレクシスとコンラートを中心とした集団。散在する中立派。フリーデリケはセレスティアの傍。ヴィオレッタは一人のテーブル。
ポケットの中で、指先が白い石を探り当てた。
誕生日に石をもらってから、ひと月。あの日は石について数言を交わしただけで、礼も、彼女自身のことも聞けないまま終わった。今度は自分から声をかけようと思いながら、ひと月を過ごしてしまった。リディアの姿を探した。
いなかった。大食堂にいない。セレスティアは食堂を出た。
廊下を歩く。東棟の渡り廊下。中庭を見下ろすバルコニー。図書室の入り口。いない。
礼拝堂の前を通った時、横手の石段に人影があった。
石段の一番下。壁に背を預けて座っている少女。黒い髪。膝の上にパンが一切れ。リディアだった。一人で、冷たいパンを齧っている。
大食堂には行かなかった。セレスティアは石段を降りた。今度は、自分から。
リディアが顔を上げた。黒い瞳がセレスティアを見た。警戒の色。
「リディア様。一緒にお昼をたべませんか」
リディアの手が止まった。パンを持ったまま、セレスティアを見上げている。
沈黙が長かった。石段の冷たさが、二人の間に横たわっている。
「……あなたは、私に何か企んでいるの」
「いいえ。ただ、一人で食事をするのは寂しいと思っただけです」
「寂しい? 私が?」
「はい」
「余計なお世話よ。私は一人で平気。慣れているから」
慣れている。その言葉の重さを、セレスティアは知っている。
「私も、一人に慣れていた時がありました」
リディアの目が微かに揺れた。
「でも、誰かが声をかけてくれて、慣れなくてよかったと思いました」
フリーデリケの顔が浮かんだ。入学初日に「セレスティアちゃん、となりいい?」と聞いてくれた子。あの一言が、どれほど大きかったか。
「……あなた、変な子ね」
ヴィオレッタと同じ言葉。セレスティアはそれを聞いて、口元が緩んだ。
「よく言われます」
リディアは黙ってセレスティアを見ていた。数秒後。リディアが石段の隣を、わずかに空けた。
セレスティアは石段に腰を下ろした。鞄からナターシャが用意した干し果物とチーズを取り出した。
「これ、半分どうぞ」
「……別に、いらない」
「じゃあ、隣に置いておきますね。食べたくなったらどうぞ」
干し杏を石段に置いた。リディアは目だけでそれを見た。
しばらく黙ってパンを齧っていた。セレスティアも黙って干し果物を食べた。会話はなかった。
だが同じ石段に座っている。同じ時間を共有している。
五分ほど経った頃、リディアの手が動いた。石段に置かれた干し杏を、指先で摘んだ。口に運んだ。
「……甘い」
「アルヴェイン領の特産です。ナターシャが……私の侍女が、持たせてくれました」
「侍女つきなのね。公爵家の令嬢だから?」
「はい。セレスティア・フォン・アルヴェインです」
「知ってるわ。魔力量歴代最高の天才令嬢。学園中の噂よ」
「噂はおおげさです」
「あなたの噂は聞いた。編入する前から。王宮の人たちが話していた。『アルヴェイン公爵の末姫は気をつけた方がいい。聡明すぎる』って」
胸の奥がきゅっと縮んだ。
「聡明かどうかは分かりません。でも……リディア様こそ、お気をつけください。この学園には、いろいろな目があります」
リディアが初めて、セレスティアの方を向いた。正面から。
「忠告?」
「はい。亡国の姫という立場は、利用されやすいです。同情を装って近づく人がいます。情報を引き出そうとする人がいます。リディア様の知識……南方の情勢に詳しいということ自体が、ここでは価値になります」
「……それを知っていて、なぜ私に言うの。あなたも私を利用したいの?」
「正直に言います。リディア様の知識が、将来私の役に立つかもしれないとは、思っています」
リディアの目が細くなった。
「でも、それだけじゃないです」
「それだけじゃない?」
「私は……一人で食事をしている人を見ると、放っておけないんです。理由があるかないかじゃなくて、ただ、そういう人間なんです。変だと言われても」
リディアは長い間黙っていた。風が吹いた。南向きの石段に、春の風が通り抜けた。リディアの黒い髪が揺れた。
「あなた、本当に変な子ね」
三度目。今度は棘がなかった。
「変だって言われるのは慣れてます」
「慣れてるのね。いろんなことに」
リディアが立ち上がった。スカートの土を払い、石段を上がりかけて、振り返った。
「明日も、ここにいる。来たければ来れば」
「はい。来ます」
リディアは何も言わず、石段の上に消えた。
◇
その夜、ナターシャに報告した。
「リディア・フォン・アルカディアという子。南方の亡国の姫です」
「存じております。王宮が保護した亡命王族。レグナシオン王国が受け入れたのは、南方諸国への外交的配慮です」
「鋭い子よ」
「お嬢様に似ていますね」
ナターシャの言葉に、セレスティアは息をついた。
「リディア様は外交の知識を持っています。南方諸国の言語も文化も分かる。この国にはそういう人材が少ない。将来、外交の場で必要になります」
「お嬢様。それは……お友達としてですか、それとも……」
「両方」
セレスティアは窓の外を見た。
「利用するだけの関係なら、とっくに見抜かれてる。あの子の目は、嘘を見破る。私が本気で友達になりたいとおもわなければ、あの子は心を開かない」
「本気で……友達に」
「うん。私は……」
言葉を切った。
「私は、この子と友達になりたい。計算とか政治とか関係なく。ただ、あの石段で一人でパンを齧っている子を、放っておけなかった」
ナターシャは微笑んだ。
「お嬢様は、お変わりになりませんね。三歳の時も、五歳の時も、八歳の今も」
「変な子ですか」
「いいえ。優しい子です」
消灯の時間が近づいていた。部屋に戻ると、ヴィオレッタが机に向かっていた。いつもの風景。だがセレスティアが入ると、ヴィオレッタが口を開いた。
「あの編入生と話してたでしょう。亡国の姫」
「うん」
「また拾い物?」
「拾ったんじゃないよ。ただお昼を一緒にたべただけ」
「どうせ明日も行くんでしょう」
「うん」
ヴィオレッタは鼻を鳴らした。不機嫌そうに、だが、それほど不機嫌ではない響きだった。
「あなた、友達が多すぎるわ。いつか首が回らなくなるわよ」
「そうかな」
「そうよ。全員の面倒は見られないわ」
「大丈夫。ヴィオレッタ様のことも、ちゃんと見てるよ」
ヴィオレッタのペンが止まった。
「……誰があなたに見てほしいなんて言ったのよ」
「言ってない。でも見てる」
沈黙。
「……変な子」
四度目。今日だけで三人に言われた。ヴィオレッタのペンが、再び紙の上を走り始めた。
明日もあの石段に行く。リディアが来ていれば隣に座り、来ていなければ一人で待つ。急いで手を引くのではなく、彼女が自分から来られる場所を空けておく。
石段にはまだ、二人分の座る場所があった。




