リディアとの出会い
編入生が来る、という噂は朝の教室で広まった。
「南方の国の子らしいよ」「どこの国?」「えーと、アルカディア? 聞いたことない」「亡国って聞いた」「えっ、国が滅んだの?」
子供たちの囁きが飛び交う。好奇心が八割、同情が一割、残りは——品定め。
セレスティアは窓辺の席で、噂を聞き流していた。
南方の小国アルカディア。大陸南端の海沿いに位置した王国。半年前、東の隣国エルディアに併合され、王族は追放された。国王は処刑。王妃は行方不明。王女だけがレグナシオン王国に身を寄せた——という話は、ナターシャから聞いていた。
一時間目の授業が終わった後、学園長が教室の扉を開けた。
「皆さん。本日より編入する生徒を紹介します」
学園長の後ろに、少女が一人立っていた。
八歳。セレスティアと同い年。だが雰囲気がまるで違った。
黒髪。この国では珍しい、深い漆黒の髪が肩の下まで真っ直ぐに流れている。褐色がかった肌。南方の日差しを浴びて育った肌の色。切れ長の黒い瞳。顔立ちは端正だが、この国の貴族子女とは系統が異なる。異国の美。
だが何よりも目を引いたのは、立ち方だった。
背筋が一本の線のように伸びている。顎が僅かに上を向いている。両手は身体の前で軽く組まれ、足は揃えられている。どこからどう見ても——王族の立ち方だ。
国を奪われ、家族を失い、知らない国の学園に放り込まれて、なおこの姿勢を保てる。
気高い子だ、とセレスティアは思った。
「リディア・アルカディアです。南方のアルカディア王国から参りました。よろしくお願いいたします」
声は落ち着いていた。だが微かに震えていた。耳を澄まさなければ気づかない程度の、かすかな震え。
教室が静まった。子供たちは反応に迷っている。亡国の姫。どう接すればいいのか分からない。
「リディアさん、席はこちらです」
教師が窓際の空席を示した。最後列の端。教室の隅。
誰の隣でもない席。
リディアは黙って歩き、席に着いた。真っ直ぐ前を向いた。誰とも目を合わせなかった。
◇
昼休み。
大食堂の構図は変わっていなかった。中央にイザベラの一団。窓際にアレクシスとコンラートを中心とした集団。散在する中立派。フリーデリケはセレスティアの傍。ヴィオレッタは一人のテーブル。
リディアの姿を探した。
いなかった。大食堂にいない。
セレスティアは食堂を出た。
廊下を歩く。東棟の渡り廊下。中庭を見下ろすバルコニー。図書室の入り口。
いない。
礼拝堂の前を通った時、横手の石段に人影があった。
石段の一番下。壁に背を預けて座っている少女。黒い髪。膝の上にパンが一切れ。
リディアだった。
一人で、冷たいパンを齧っている。
大食堂には行かなかった。
セレスティアは石段を降りた。
リディアが顔を上げた。黒い瞳がセレスティアを見た。警戒の色。
「リディアさま。一緒にお昼をたべませんか」
リディアの手が止まった。パンを持ったまま、セレスティアを見上げている。
沈黙が長かった。石段の冷たさが、二人の間に横たわっている。
「……あなたは、私に何か企んでいるの」
「いいえ。ただ、一人でごはんを食べるのは寂しいとおもっただけです」
「寂しい? 私が?」
「はい」
「余計なお世話よ。私は一人で平気。慣れているから」
慣れている。その言葉の重さを、セレスティアは知っている。
「わたしも、一人に慣れていた時がありました」
リディアの目が微かに揺れた。
「でも、だれかが声をかけてくれて、慣れなくてよかったっておもいました」
フリーデリケの顔が浮かんだ。入学初日に「セレスティアちゃん、となりいい?」と聞いてくれた子。あの一言が、どれほど大きかったか。
「……あなた、変な子ね」
ヴィオレッタと同じ言葉。セレスティアはそれを聞いて、口元が緩んだ。
「よく言われます」
リディアは黙ってセレスティアを見ていた。
数秒後。リディアが石段の隣を、わずかに空けた。
セレスティアは石段に腰を下ろした。鞄からナターシャが用意した干し果物とチーズを取り出した。
「これ、半分どうぞ」
「……別に、いらない」
「じゃあ、となりに置いておきますね。たべたくなったらどうぞ」
干し杏を石段に置いた。リディアは目だけでそれを見た。
しばらく黙ってパンを齧っていた。セレスティアも黙って干し果物を食べた。会話はなかった。
だが同じ石段に座っている。同じ時間を共有している。
五分ほど経った頃、リディアの手が動いた。石段に置かれた干し杏を、指先で摘んだ。口に運んだ。
「……甘い」
「アルヴェイン領の特産です。ナターシャが——わたしの侍女が、持たせてくれました」
「侍女つきなのね。公爵家の令嬢だから?」
「はい。セレスティア・フォン・アルヴェインです」
「知ってるわ。魔力量歴代最高の天才令嬢。学園中の噂よ」
「噂はおおげさです」
「あなたの噂は聞いた。編入する前から。王宮の人たちが話していた。『アルヴェイン公爵の末姫は気をつけた方がいい。聡明すぎる』って」
心臓が跳ねた。
「聡明かどうかは分かりません。でも——リディアさまこそ、お気をつけください。この学園には、いろいろな目があります」
リディアが初めて、セレスティアの方を向いた。正面から。
「忠告?」
「はい。亡国の姫という立場は、利用されやすいです。同情を装って近づく人がいます。情報を引き出そうとする人がいます。リディアさまの知識——南方の情勢に詳しいということ自体が、ここでは価値になります」
「……それを知っていて、なぜ私に言うの。あなたも私を利用したいの?」
「正直に言います。リディアさまの知識が、将来わたしの役に立つかもしれないとは、おもっています」
リディアの目が細くなった。
「でも、それだけじゃないです」
「それだけじゃない?」
「わたしは——一人でごはんを食べている人を見ると、放っておけないんです。理由があるかないかじゃなくて、ただ、そういう人間なんです。変だと言われても」
リディアは長い間黙っていた。
風が吹いた。南向きの石段に、春の風が通り抜けた。リディアの黒い髪が揺れた。
「あなた、本当に変な子ね」
三度目。今度は棘がなかった。
「変だって言われるのは慣れてます」
「慣れてるのね。いろんなことに」
リディアが立ち上がった。スカートの土を払い、石段を上がりかけて、振り返った。
「明日も、ここにいる。来たければ来れば」
「はい。来ます」
リディアは何も言わず、石段の上に消えた。
◇
その夜、ナターシャに報告した。
「リディア・アルカディアという子。南方の亡国の姫です」
「存じております。王宮が保護した亡命王族。レグナシオン王国が受け入れたのは、南方諸国への外交的配慮です」
「鋭い子よ」
「お嬢様に似ていますね」
ナターシャの言葉に、セレスティアは息をついた。
「リディアさまは外交の知識を持っています。南方諸国の言語も文化も分かる。この国にはそういう人材が少ない。将来、外交の場で必要になります」
「お嬢様。それは——お友達としてですか、それとも……」
「両方」
セレスティアは窓の外を見た。
「利用するだけの関係なら、とっくに見抜かれてる。あの子の目は、嘘を見破る。わたしが本気で友達になりたいとおもわなければ、あの子は心を開かない」
「本気で——友達に」
「うん。わたしは——」
言葉を切った。
「わたしは、この子と友達になりたい。計算とか政治とか関係なく。ただ、あの石段で一人でパンを齧っている子を、放っておけなかった」
ナターシャは微笑んだ。
「お嬢様は、お変わりになりませんね。三歳の時も、五歳の時も、八歳の今も」
「変な子ですか」
「いいえ。優しい子です」
消灯の時間が近づいていた。
部屋に戻ると、ヴィオレッタが机に向かっていた。いつもの風景。だがセレスティアが入ると、ヴィオレッタが口を開いた。
「あの編入生と話してたでしょう。亡国の姫」
「うん」
「また拾い物?」
「拾ったんじゃないよ。ただお昼を一緒にたべただけ」
「どうせ明日も行くんでしょう」
「うん」
ヴィオレッタは鼻を鳴らした。不機嫌そうに——だが、それほど不機嫌ではない響きだった。
「あなた、友達が多すぎるわ。いつか首が回らなくなるわよ」
「そうかな」
「そうよ。全員の面倒は見られないわ」
「だいじょうぶ。ヴィオレッタさまのことも、ちゃんと見てるよ」
ヴィオレッタのペンが止まった。
「……誰があなたに見てほしいなんて言ったのよ」
「言ってない。でも見てる」
沈黙。
「……変な子」
四度目。今日だけで三人に言われた。
セレスティアは微笑んで、ベッドに潜り込んだ。
明日もあの石段に行く。リディアが来ていれば隣に座る。来ていなければ一人で待つ。
目を閉じた。石段の少女の姿が、瞼の裏に残っていた。




