公爵の反撃
回答期限の三日前。
王都の貴族院大議場で、臨時の教育委員会が開かれた。
セレスティアはその場にいない。学園にいる。だがナターシャが独自の経路で入手した議事録の写しが、二日遅れで手元に届いた。ヴォルフ経由の密使便。銀の月章の封蝋。
議事録を読んだ。
読みながら、セレスティアは父の政治力を——改めて思い知った。
◇
議事録の冒頭。教育委員会の議題は「高魔力児童に対する特別教育制度の検討」と記されている。
セレスティアの名前は、どこにもない。
父が議題そのものを書き換えた。「セレスティア・フォン・アルヴェインの特別教育プログラム編入」という宰相側の議案を、「高魔力児童全般への教育制度のあり方」という制度論に差し替えた。
個人の名前が議題に載れば、その個人を狙い撃ちにする口実になる。だが制度論にすれば、議論は一般的な方向に流れる。セレスティア一人の問題ではなく、「全ての高魔力児童をどう教育するか」という王国全体の課題になる。
宰相はセレスティアを鳥籠に入れたかった。父は鳥籠そのものの設計を議論のテーブルに載せた。
なお、議事録の補足資料には、特別教育プログラムの予算を財務省が既に仮計上していたと記載されている。財務卿カール・ヴェンデルの署名。委員会の議決前に予算が用意されている。宰相と財務卿の連携が透けて見える。
議事録の中盤。父の発言が記録されている。
『ライナルト・フォン・アルヴェイン公爵の発言:
「特別教育プログラムの趣旨には賛同いたします。高い魔力を持つ児童に対し、より高度な教育を提供することは、王国の将来にとって有益です。
しかし、本プログラムが特定の一名のみを対象とするのであれば、それは教育制度ではなく個人への処遇であり、貴族院の議題として不適切です。
提案いたします。本プログラムを、一定基準以上の魔力量を有する全ての児童に開放すべきです。具体的には、公式魔力覚醒試験における魔力量上位一割を対象とする制度設計が望ましいと考えます。
これにより、制度の公平性が担保されます。また、対象児童は学園在籍のまま、補習的に高度教育を受けられる形が理想的です。学園からの引き離しは、児童の社会性の発達を阻害します」』
セレスティアは何度も読み返した。
◇
議事録の続き。
父の対案に対し、宰相ヴィクトール・ド・ガルニエが発言している。
『宰相ヴィクトール・ド・ガルニエの発言:
「さすが公爵閣下。正論ですな。公平性は教育制度の根幹です。閣下のご提案を踏まえ、制度設計を教育局に差し戻し、再検討とさせていただきましょう」』
たった三行。
宰相はあっさり引き下がった。
セレスティアは議事録のこの箇所を、指先でなぞった。
「さすが公爵閣下」。
余裕のある言い回しだった。引き下がったのではなく、角度を変えただけかもしれない。
「ナターシャ」
「はい」
「この議事録に、アレクシス殿下のことは書いてある?」
ナターシャが議事録を確認した。
「直接的な言及はありません。ただ——」
「ただ?」
「教育局への差し戻しが決まった翌日、カスパルが学園を訪れています。殿下との面会記録があります」
また、カスパルだ。
宰相が貴族院で引き下がった翌日に、カスパルが動く。
「カスパルが殿下に何を伝えたか、分かる?」
「面会室は隔離されていますので、内容は把握できていません。ただ、面会後の殿下の様子が少し変わりました」
「どう変わった」
「翌日の授業で、殿下がセレスティアお嬢様に話しかける回数が減りました。昼休みも、噴水のベンチではなく教室に残っておられました」
心臓が冷えた。
カスパルが何かを吹き込んだ。
ナターシャが静かに言った。
「明日も様子を見ておきます。昼休みの教室の動きも」
「お願い。でも目立たないように」
「承知しました」
窓の外が暗くなっていた。廊下の向こうに夕方の光が滲んでいる。遠くで鐘の音がした。
◇
翌日。昼休み。
セレスティアは中庭の噴水に向かった。いつもの場所。
風が穏やかだった。噴水の音が、石畳の上に広がっている。
アレクシスがいた。
ベンチに座っている。だが普段と違い、手に本を持っていた。政治学の教科書。七歳——いや八歳になったばかりの子供が読むには難しすぎる内容の本。
「殿下」
「……ああ、セレスティア」
視線が本から上がった。だが一瞬遅かった。いつもなら、セレスティアの足音が聞こえた時点で顔を上げてくれた。
小さな変化。だがセレスティアには分かった。
隣に座った。いつもの距離。だがアレクシスの身体が、ほんの数センチだけ遠い。意識しているのか無意識なのか分からない。
「むずかしいご本ですね」
「うん。カスパルが持ってきてくれた。王太子は政治を学ぶべきだ、って」
「殿下。その本、おもしろい?」
「面白くはない。でも、必要だと思う。僕は王太子だから」
「殿下」
「うん」
「きょうは風がきもちいいですね」
政治の話はしなかった。本の内容にも触れなかった。
代わりに、空の話をした。雲の形の話をした。先週の花壇のバラの話をした。フリーデリケが描いた絵の話をした。
アレクシスは最初、ぎこちなく相槌を打っていた。だが十分もすると、本を閉じた。
「……そのバラ、赤と白があったんだ」
「うん。ヴィオレッタさまが花言葉を教えてくれました。赤は情熱、白は純潔だって」
「ヴィオレッタって、あの気が強い子だろう。花言葉なんて知ってるんだ」
「ものしりですよ。ほんとはやさしい子なんです」
少し間があった。
アレクシスが笑った。小さく、短く。だが確かに笑った。
春の日差しが噴水の水面に跳ねていた。
「殿下、また明日」
「うん」
アレクシスが立ち上がった。政治学の本を脇に抱えた。ベンチを離れる前に、一瞬だけ立ち止まった。
「……バラ、今度見てみる」
「ぜひ。ヴィオレッタさまにも教えてあげてください」
アレクシスが少し顔をしかめた。「あの子、怖い」
「怖くないですよ」
そのまま離れていった。背中が遠くなった。
◇
その夜。消灯前。
ナターシャの部屋で、セレスティアは短い手紙を書いた。
父への報告ではない。フェリクスへの手紙だ。薬草の暗号で。
『フェリクスおにいさまへ。
最近、ミントティーの味が変わった気がします。以前は爽やかだったのに、最近は少し苦い。同じ葉を使っているのに。
お兄様の研究で、薬草の味が変わる条件について何かご存じでしたら、教えてください。
セレスティアより』
封をした。
ナターシャに渡した。ナターシャの手が、封筒の端を持った。銀の月章の封蝋が、燭台の光に一瞬だけ光った。
「明日、出します」
「ありがとう」
消灯の鐘が鳴った。
父は今日も守ってくれた。宰相はまだ動いている。でも、今夜は眠れる気がした。月が窓の外にあった。




