おとうさま
公爵が学園に来たのは、午後の授業が終わった頃だった。
受付の使用人が「お父上がいらしています」と言った時、セレスティアの足が一瞬止まった。
手紙には「一ヶ月以内に結論を出す」と書いてあった。まだ三週間しか経っていない。
面会室に向かいながら、心臓が静かに速くなっていた。
◇
父は立っていた。
窓際に。腕を組んで。いつもの黒い外套。白髪が増えた気がした。最後に会ったのは入学の日だから、もう半年以上前になる。
「おとうさま」
振り返った。その顔を見た瞬間、何かが緩みそうになった。
セレスティアは堪えた。泣いてはいけない。理由がない。父は元気そうだ。危機でも何でもない。
「座れ」
父が椅子を引いた。セレスティアが座ると、向かいに腰を下ろした。
しばらく、何も言わなかった。
父はセレスティアの顔を見ていた。じっと。診るように。
「……痩せたか」
「そんなことないです」
「嘘をつくな。目の下が窪んでいる」
セレスティアは黙った。
「特別教育プログラムの件は、来週の貴族院で片がつく。お前は何もしなくていい。それだけ伝えに来た」
「ありがとうございます」
「礼はいい」
また沈黙が落ちた。
父の手が、テーブルの上に置かれた。大きな手。公爵の指輪がある。幼い頃にその指輪の冷たさが好きだった。夏の暑い日に、父の手を握ると、指輪だけが涼しかった。
◇
「セレスティア」
父が、珍しく名前を呼んだ。
「はい」
「お前が学園でどんな思いをしているか、父は全部は知らない。手紙に書いてあることの、半分も分かっていないだろう」
「そんなこと——」
「聞け」
静かな声だった。セレスティアは口を閉じた。
「お前は三歳の頃から、父の想像を超えたことを言う子だった。今もそうだ。宰相のスパイの名前も、薬の種類も、侍従の出身まで、八歳の娘が調べて手紙に書いてくる。父は誇りに思う。同時に——」
父の声が、かすかに低くなった。
「申し訳なく思っている」
セレスティアは顔を上げた。
父の目がそこにあった。いつも凪いでいる目。感情の読めない公爵の目。だが今は、その奥に何かがあった。
「お前にそんな思いをさせているのは、父が守りきれていないからだ」
「おとうさまのせいじゃ——」
「父のせいだ」
言葉が落ちた。
「宰相の手が学園の中まで入った。食事に薬を混ぜられた。お前の部屋に監視者を置かれた。父が防ぎきれなかった。それはお前の失敗ではない。父の政治力が足りなかった」
セレスティアは何も言えなかった。
前世の記憶が浮かんだ。
処刑台。父は来なかった。来られなかったのか、来なかったのか、今でも分からない。貴族院の決定だった。公爵家でも覆せなかった。セレスティアは一人で台に上がった。誰も呼ばなかった。誰も来なかった。
今、父がここにいる。
「おとうさま」
声が震えた。
堪えようとした。堪えられなかった。
「わたし、こわかったです」
言うつもりはなかった。
「ごはんにくすりがはいってた時。カスパルさまと廊下ですれちがった時。こわかった。でも、おとうさまへてがみをかいたら、ちゃんとへんじがきた。だから、こわくなかった。こわかったけど、こわくなかったです」
うまく言えなかった。
でも父は黙って聞いていた。
「おとうさまが『かならずまもる』ってかいてくれたから。それだけで、ねむれました」
◇
父がテーブル越しに手を伸ばした。
セレスティアの頭に、大きな手が乗った。
子どもの時のように。三歳の時のように。
「必ず守る」
手紙と同じ言葉。でも声で聞くのは違った。重さが違った。温度が違った。
セレスティアは俯いた。
涙が落ちた。膝の上に。小さな染みができた。
泣くつもりはなかった。八歳の少女には泣く理由なんてなかった。父は元気で、ここにいて、手が頭の上にある。
だから泣くのがおかしかった。
だから止まらなかった。
父は何も言わなかった。手だけが、頭の上にあった。面会室の窓から、夕方の光が差し込んでいた。廊下で誰かの足音がして、遠ざかっていった。
セレスティアはしばらく、そのまま泣いた。
八歳の身体で。前世の十八年と、今世の八年と、その全部が混ざったものを。
◇
しばらくして、父が手を引いた。
懐から布巾を取り出し、セレスティアに渡した。公爵が布巾を持ち歩いているのが、少し可笑しかった。涙を拭いながら、笑いそうになった。
「おとうさまって、ハンカチ持ち歩いてるの」
「マルガレーテが入れる。余計なお世話だと思うが、こういう時に役に立つ」
「こういう時って、むすめがなくとき?」
「知らん」
父が窓の外を向いた。夕日が外套の肩を赤く染めている。
セレスティアは布巾を握ったまま、父の横顔を見た。
前世でも、この横顔があったはずだ。ただ、見ていなかった。見る余裕がなかった。いつも何かに追われていて、怯えていて、父の顔をちゃんと見ていなかった。
今は見られる。
「おとうさま」
「なんだ」
「また、きてください」
父は窓の外を向いたまま、答えた。
「ああ」
それだけだった。
でもそれだけで、十分だった。




