リディアの価値
石段の昼食は、三日目から会話が生まれた。
最初の二日間は、ほとんど無言だった。セレスティアが隣に座り、干し果物やチーズを石段に置き、リディアが食べたければ食べる。それだけの時間。
三日目。リディアが先に口を開いた。
「あなた、毎日来るのね」
「来ます、って言いましたから」
「律儀ね」
「やくそくは守るほうです」
リディアが鼻で笑った。だが嘲笑ではなかった。どこか呆れたような、だが不快ではない笑い方。
「この国の子は、約束を守らない。王宮で保護されていた時、何人かの貴族の子が『遊びに来る』と言って、来なかった」
「リディアさまの国のことを教えてほしいです」
「何を」
「なんでも。リディアさまが話したいことを」
リディアはパンを千切りながら、少し考えた。
「アルカディアは海の国よ。大陸の南端。港が三つあった。東港、西港、王港。王港は王宮に面していて、毎朝、漁師の船が帰ってくると、魚の匂いが王宮まで届いた」
声が変わった。硬い警戒の声ではなく、記憶の中に沈んでいく柔らかい声。
「母上は毎朝、バルコニーに出て港を見ていた。『今日は豊漁かしら』って。王妃が漁の心配をする国なんて、この大陸では笑われるでしょうね」
「笑いません。すてきだとおもいます」
「……そう」
リディアの目が遠くなった。港の風景を見ているのだろう。もう存在しない港を。
「アルカディアは小さかった。この国の十分の一もない。軍も弱かった。だから外交で生き延びてきた。周辺国の間に立って、調停役をして、どこにも敵を作らない。それが父上の政治だった」
「リディアさまのお父上は、外交がお上手だったんですね」
「上手だったわ。でも——外交では戦争は止められなかった。エルディアが武力で来た時、どんな言葉も通じなかった」
リディアの手がパンの上で止まった。
「父上は最後まで交渉しようとした。剣を取らなかった。王として、最後の最後まで対話を信じた。結果——」
声が途切れた。
セレスティアは何も言わなかった。この沈黙に言葉を差し挟んではいけない。
十秒。二十秒。
「……処刑されたわ。広場で。民の前で」
リディアの目に涙はなかった。枯れたのだろう。泣き尽くした後の、乾いた目。
セレスティアの胸が痛んだ。
「リディアさま」
「何」
「わたしは——処刑という言葉を聞くと、胸がくるしくなります。理由は上手く言えないけれど」
リディアがセレスティアの顔を見た。じっと。見透かすような目で。
「……あなた、何か知っているの」
「知っているわけじゃないです。でも——こわいものが、わたしにもあります」
リディアは何も言わなかった。
◇
四日目から、リディアは少しずつ話してくれるようになった。
アルカディアの文化。言語。気候。産業。そして——南方諸国の政治。
「南方には五つの国がある。いえ、あった。アルカディア、エルディア、マリノーヴァ、テッラ・ロッサ、サフィーラ。五つの小国が連合していた。連合が崩れたのは、エルディアの王が代替わりした時」
「エルディアの新王は拡張主義者だった。まずテッラ・ロッサを属国にした。次にマリノーヴァを脅して中立を強いた。残ったのがアルカディアとサフィーラ」
「サフィーラは?」
「サフィーラは山の国。エルディアは海が欲しかった。だからアルカディアを狙った」
セレスティアは聞きながら、別のことを考えていた。
「リディアさま。エルディアは、アルカディアを併合した後、次はどこを狙うとおもいますか」
リディアの目が鋭くなった。
「あなた、八歳にしては恐ろしい質問をするわね」
「おなじことをリディアさまも考えていませんか」
沈黙。
リディアが答えた。
「北よ。エルディアが次に見るのは北。海路を押さえた後、陸路の交易を求める。レグナシオン王国の南方国境は、山脈に守られているけれど、峠道が三本ある。どれも防衛が薄い」
「この知識は、この国の人間は持っていないわ。南方を気にしている人が少ない。北方の辺境問題にばかり目が向いている」
「リディアさまの知識は、この国の宝です」
リディアが驚いた顔をした。初めて見る表情だった。警戒でも冷笑でもない、純粋な驚き。
「宝? 亡国の姫の知識が?」
「はい。南方の情勢を知っている人が、この国にはいません。リディアさまだけです。それは——とても大きな価値です」
「価値」。リディアがその言葉を噛みしめるように繰り返した。
「あなた、本気で言っているの」
「本気です」
「私を利用したいだけかもしれない」
「利用という言葉を使うなら、わたしもリディアさまに利用されたいです。お互いに必要なものを出し合えるなら、それは友達だとおもいます」
リディアが黙った。長い沈黙だった。
風が吹いた。石段の上の木が揺れ、木漏れ日が二人の上に降った。
「……あなたは、不思議な子ね。変な子、とも思うけど。不思議、の方が近い」
「変な子から昇格しました」
「昇格じゃないわよ。別枠よ」
リディアの口元が、ほんの僅かに——上がった。笑みと呼べるかどうか分からない、かすかな動き。だが確かに、この四日間で初めて見る表情だった。
◇
五日目。
リディアが石段に来ていなかった。
代わりに、大食堂にいた。
入口の近く。一人のテーブル。だが石段ではなく、食堂に来た。
セレスティアがトレイを持って近づくと、リディアが顔を上げた。
「……隣、空いてるわよ」
セレスティアは微笑んで、隣に座った。
フリーデリケが遠くのテーブルから手を振っている。セレスティアは手を振り返し、フリーデリケに「おいで」と合図した。
フリーデリケがトレイを持ってやって来た。
「セレスティアちゃん! あ、リディアさん? はじめまして! フリーデリケです!」
リディアが少し引いた。フリーデリケの明るさに免疫がないのだ。
「……リディアよ」
「リディアちゃんって呼んでいい?」
「好きにすれば」
「やった! リディアちゃん、一緒にごはんたべよ!」
フリーデリケが隣に座った。リディアは困惑している。だが拒絶はしなかった。
三人のテーブル。銀髪の公爵令嬢と、蜂蜜色の髪の伯爵令嬢と、黒髪の亡国の姫。
奇妙な組み合わせだった。だがフリーデリケの無条件の明るさが、場の空気を柔らかくしている。
「リディアちゃん、好きな食べ物なに?」
「……魚。海の魚」
「この学園の食堂、お魚あんまり出ないよね。お肉ばっかり」
「内陸の国だから仕方ないわ」
「こんど厨房にお願いしてみようか。お魚のメニュー増やしてって」
リディアが小さく笑った。苦笑に近い——だが確かな笑顔。
セレスティアは二人の会話を聞いていた。
◇
その夜。ナターシャの部屋で。
「リディアさまは、南方魔術を使えるそうです」
「南方魔術?」
「この国の魔術とはちがう体系だと。詳しくはまだ聞いていませんが——自然との調和を重視する魔術だとおっしゃっていました」
昼食の後、リディアがぽつりと漏らした言葉だった。「この国の魔術は力で制御しようとする。私の国では、魔力と共存する方法を学ぶ」と。
「お嬢様。リディア様は、お嬢様にとって大切な方になりそうですね」
「なるよ。きっと」
窓の外に星が見えた。南方の空には、もっと多くの星が見えるとリディアが言っていた。
いつかリディアの故郷の空を見てみたい。
「ナターシャ。南方の情勢について、おとうさまに報告して。リディアさまから聞いた内容を」
「エルディアの北進の可能性、ですね」
「うん。おとうさまが知っておくべき情報だとおもう」
窓の外に星が見えた。南の空にも、同じ星が見えているだろう。




