後期筆記試験の波乱
後期筆記試験の問題用紙を見た瞬間、セレスティアは罠だと悟った。
七歳の秋に入学し、八歳の春に迎えた初等部一年目の後期筆記試験。科目は、入学から二ヶ月で受けた最初の学力試験と同じ四科目、歴史、算術、礼法、魔術理論。だが紙面に並ぶ問題は、前回の基礎問題から明らかに外れていた。
歴史の第一問。「レグナシオン王国第七代国王アルフレート二世の南方遠征が、当時の五カ国同盟体制に与えた影響を、経済的側面から論述せよ」
算術。「三つの異なる利率で複合的に運用された基金の、五年後の総額を求めよ」
礼法。「国王主催の晩餐会において、隣国の王族と宗教指導者が同席する場合の席次を、外交的優先順位と宗教的配慮の双方を考慮して決定せよ。根拠も示すこと」
魔術理論。「光属性と闇属性の魔力共鳴が理論上もたらす効果について、既知の文献を引用しつつ論じよ」
これは罠だ。セレスティアの指先が冷えた。宰相派が試験問題を操作したのだ。
教室の中を見回した。他の生徒たちは困惑している。問題用紙を何度も読み返し、首を傾げている。フリーデリケは目を白黒させている。コンラートに至っては、問題を読む前に既に不機嫌な顔だ。
イザベラだけが平然とペンを走らせていた。アレクシスは眉根を寄せながら、真剣に取り組んでいた。セレスティアの手が止まっていた。
どうする。
魔力覚醒試験で二千八百四十を示した日から、普通の子に見せることは諦めている。今の目的は、注目を避けることではない。周囲の目を「光魔力だけが突出した令嬢」という仮面に集め、その陰に聖魔力を隠すことだ。
だが、巨大な魔力量は生まれつきの資質で説明できる。八歳には難しすぎる歴史や経済、外交判断まで示せば、宰相は別の結論を出す。力が大きいだけの子ではない。その力を政治に使える頭脳まで持っている、と。
前回、ナターシャは「次は歴史の一問を見落とした風にしましょう」と提案してくれた。今朝までは、そのつもりだった。けれど問題用紙を見た瞬間、考えていた手順が頭から抜け落ちた。わざと一問を落とすどころか、どこまで答えれば八歳の授業で身につけた知識に見えるのか、それすら判断できない。
今世で読んだ本や、受けた指導から説明できる範囲だけを書く。それを越える知識は、一行も書かない。そう決めると、少しだけ手が動いた。正解できる問題を解くのではなく、授業で扱った部分だけを拾う。逃げるための線を、答案の上に引く。
魔術理論の最終問題が、頭の中で点滅している。光と闇の共鳴。答えは知っている。オスヴァルトの訓練で実践的に体得している。だが、それを書けば一線を越える。セレスティアは唇を噛み、問題用紙の余白を見つめた。
◇
歴史。南方遠征の背景は知っていた。けれど経済への影響を、八歳の授業で習った言葉だけで説明するのは難しい。前世の知識から補えば書ける。だから、王と同盟の名前、授業で扱った遠征の目的だけを書き、論述の後半を空けた。
算術。複利の最初の計算までは教本にある。三つ目の利率を重ねるところで手を止め、途中式を一つだけ残した。解けないのではない。解けると知られるのが怖かった。
礼法。席次の順番は書けた。だが、宗教的な配慮を外交上の根拠に結びつける部分は、あえて「教師から教わった範囲では判断できません」とした。
そして、魔術理論。光と闇の共鳴については、オスヴァルトの講義で聞いた一般論を二行だけ書いた。具体的な効果も、聖女マリエルの記録も、答案には出さなかった。
答案を見返すと、どの科目も半分ほどしか埋まっていない。前回のように点数を計算して落としたのではない。問題の難しさに動揺し、いちばん安全そうなところへ逃げた結果だった。
それでも、空白の多い答案は目立つ。セレスティアはペンを置いた。今さら取り繕って埋めれば、かえって前世の知識が滲み出る。
◇
試験結果は五日後、大食堂の掲示板に掲示された。人だかりはできていたが、今回の空気は前回とは違う。ざわめきではなく、静寂が広がっていた。
掲示板の前に立った生徒たちが、黙って結果を見つめている。
一位:イザベラ・ド・ガルニエ。
二位:アレクシス・レグナシオン。
四位:ヴィオレッタ・フォン・モンテヴェルデ。
五位:セレスティア・フォン・アルヴェイン。
三位には上級生の名前があった。セレスティアは掲示板を見つめた。順位を落とすために計算した結果ではない。問題を見た瞬間に動揺し、授業で扱った半分ほどしか埋められなかった結果だった。
「前回は三位だったのに、今回は五位?」
「難しい問題が出たから、みんな点が低いんだって」
「それでも、あの子はもっと書けたんじゃないのか」
声が渦巻く。答案の空白が、実力不足にも、意図的な隠し事にも見える。掲示板の前の人だかりが、どんどん膨らんでいく。イザベラが掲示板の前に立っていた。
背筋を伸ばし、結果を見つめている。表情は動かなかった。
イザベラが振り返った。セレスティアと目が合った。
「五位、おめでとう」
「イザベラ様。あの試験は、八歳が解ける問題ではありませんでした」
「異常だった。分かっているわ。問題の難度が初等部の範囲を逸脱していた。誰かが操作した」
イザベラは一度目を伏せ、すぐに顔を上げた。
「ええ。難しすぎた。あなたの答案も、授業で扱ったところまでは正確だったわね」
「後ろは、書けませんでした」
「書けなかったのか、書かなかったのかは、まだ分からないけれど」
その紫の瞳は、答案の空白を見抜こうとしていた。
「次は、私が見落とさないわ」
それだけ言って、イザベラは去った。セレスティアはその背中を見送った。
周りの生徒たちが、まだ掲示板を見て噂していた。「前回三位だったのに」「わざと点を落としたのかしら」「あの空白、変じゃない?」
声がさざ波のように広がっていく。セレスティアは人ごみを抜けた。廊下を歩きながら、石畳の光を見ていた。窓から差し込む昼の光が、床に四角い影を作っている。
疲れた。二千八百四十が出た日に、普通の子へ戻れないことは受け入れた。怖いのは注目そのものではない。前回三位だった答案と、今回の空白の多い答案が並べられ、「本当はもっとできるのに隠している」と見抜かれることだった。
◇
コンラートが走ってきた。
「セレスティア! 五位だってな! すげえ!」
「……ありがとう」
「俺は三十二位だった。ちなみに剣術があったら一位だ」
「剣術の試験はないんだよ、コンラートくん」
「おかしいよな! ないなんて!」
この子の変わらなさに、少しだけ救われた。フリーデリケは二十五位だった。だが順位のことは一言も言わず、セレスティアの手を握って言った。
「セレスティアちゃん、すごいね。でも、疲れてない? 顔色がちょっと悪いよ」
「少し、疲れたかも」
「じゃあ、中庭でお花見よう。お花を見ると元気が出るよ」
フリーデリケに手を引かれて中庭に出た。バラが咲いていた。赤と白。
「先週より咲いたね」とフリーデリケが言った。「ヴィオレッタさんが教えてくれた花言葉、覚えてる?」
「赤は情熱、白は純潔」
「そう。じゃあこっちの白いの、セレスティアちゃんにあげる。純潔だから」
「私、純潔じゃないと思うよ」
「え、なんで」
「いろいろ考えすぎてるから」
フリーデリケがきょとんとした顔をした。それがおかしくて、セレスティアは小さく笑った。
花を見ている間だけ、政治のことを忘れられた。
◇
その夜、ナターシャが問いかけた。
「宰相派は、試験で何を確認したかったのでしょう」
「ふたつ。私の学力の上限と、聖魔力の知識の有無」
「結果は」
「知識の出所は守った。今世で受けた教育から説明できることしか書いていない。でも、答案の空白が別の疑いを生んだ。前回三位だった子が、急に五位まで落ちた。わざと隠したのではないか、と」
「聖魔力の方は」
「ぎりぎり隠した。魔術理論の回答は、オスヴァルト先生の講義内容の範囲にとどめた。でも、難問を前に動揺したことまで隠せてはいない」
「でも?」
「宰相は疑っている。確信はなくても疑っている。その疑いは、次の手で確認しに来る」
「ナターシャ。試験結果の情報が王都に届くまで、どのくらいかかる?」
「公式記録は一週間で教育局に届きます。宰相に伝わるのは、翌日でしょう」
八日。セレスティアは新しい紙の中央に、その数字を書いた。
「ナターシャ。疲れた顔、してる?」
ナターシャが少し間を置いた。「……少し」
「そう」
答案が宰相の机へ届くまでの八日間を、ただ待つつもりはない。数字の下へ、確認すべき相手と手紙の経路を書き足していく。次の罠を予測するための時間は、もう始まっていた。




