ルイスが学院に来る
その日の午後、王立学院に王太子一行が訪れた。
訪問の名目は「学院施設の定期視察」だった。王太子は年に二度ほど、王国が直轄で管理する施設を視察する慣例があり、今回の王立学院はその対象の一つとして登録されている。
少なくとも、公式記録上はそういうことになっていた。
ルイス・ヴァン・リヴィエール王太子殿下、齢十一歳。護衛二名と侍従のアランを連れた一行は、学院長のオスカー・フェリクスに出迎えられ、施設案内を受けながら校内を歩いた。
図書館、実験棟、演習場、食堂。
ルイスは丁寧に見て回り、的確な質問を院長に投げかけた。図書館では蔵書の更新状況を、演習場では防壁術式の整備状況を、食堂では衛生基準を確認した。表向きは完璧な視察だった。
しかし、侍従のアランは承知していた。
殿下が実際に見たいのは、施設ではない。
「(リゼット・ド・シルヴァーヌ様の、今の様子を確認したい。それだけのためにわざわざ視察の名目を作った。……いや、視察自体は必要なことではあるが、今回の優先順位はどう見ても逆だ)」
アランは内心でため息をついたが、顔には出さなかった。それが侍従という職の常だ。
図書館の案内中、院長がコンテストの話を持ち出した。
「先日の年次魔法陣コンテストで、特別賞を受賞した一年生がおります。シルヴァーヌ様の婚約者殿下もご存知の方かと」
「ああ、報告は受けた」
「古代術式の復元を実演したのですが……審査員の間でも話題になりました。あの年齢で、よくあそこまで」
院長は感心の色を隠さなかった。ルイスは短く「そうか」と答えた。
報告書で読んだ内容と、実際に院長から聞く評価が一致したことを、ルイスは静かに確認した。
* * *
施設案内の途中、一行が中庭を通りかかった時だった。
ルイスは院長の説明を聞きながら、視界の端でそれを捉え、足が止まった。
見えた。
大きな樫の木の下のベンチに、小柄な少女がいた。
白いリボンで束ねた銀灰色の髪が、午後の光に淡く輝いている。少し前のめりになって、膝の上の分厚いノートに向かっている。隣に大柄な少年が座り、身を乗り出しながら何かを言っている。向かいのベンチには、栗色の髪を丁寧に結い上げた上級生が昼食を取りながら、二人の会話を聞いていた。
リゼットは笑っていなかった。
それでも、その姿はどこか「嫌ではない」空気をまとっていた。ノートに向かいながら、隣の少年の言葉に短く答えている。表情に変化はないが、会話が続いている。
「(あの令嬢は学院に馴染んでいるか)」
ルイスは無意識に侍従へ向けてそう問いかけた。
「……どう見ても「馴染んでいる」とは言い難いかと」
アランが率直に答えた。
「あのような場所に、ああして毎日いるというのは、一般的な学院生活とは少し違います。ただ」
「ただ?」
「楽しそうには……見えます。少なくとも、苦しそうではありません」
ルイスは中庭を見ながら、少しの間その光景を観察した。
カルロスが何か言い、リゼットがノートのある部分を指さした。カルロスが「おお!」という顔をして、向かいの上級生に振り返って何かを言った。上級生が少し苦笑いして首を振る。
三人の間にある空気は、穏やかだった。
ルイスが王宮で見てきたリゼットは、いつも一人だった。部屋の隅で本を読んでいるか、机に向かっているか。食事の席でも、会話に参加することは少なかった。それが彼女の「普通」だった。
しかし今、目の前の光景は少し違う。
その時、カルロスが何かに気づいて中庭の外縁を向いた。
目が合った。
「え! お、王太子殿下!?」
カルロスの声が中庭に響いた。
彼が勢いよく立ち上がり、向かいの上級生も反射的に立ち上がって頭を下げた。
唯一、リゼットだけが顔を上げずにノートを見ていた。
一拍遅れて、ゆっくりと顔が上がった。
「あ、殿下。何か御用ですか」
ノートから目を上げる動作が、微妙にもどかしそうだった。
ルイスは数歩進んで、中庭に入った。護衛とアランが後ろに控えた。
「視察だ。邪魔をする気はない」
「視察ですか。ご苦労様です」
リゼットはそれだけ言って、ノートに視線を戻した。
カルロスが横で「先生! 殿下が来てるんですが! ちゃんと挨拶を……!」と小声で言った。
「しました」
「……それだけですか」
「殿下は視察とおっしゃっているので、お邪魔しても申し訳ない。放っておくのが礼儀です」
カルロスが「そういう礼儀は聞いたことがない」という顔でルイスを見た。
ルイスは苦い顔をしながらも、強いて止めなかった。彼女の言葉の意図が、なんとなくわかったからだ。「視察の邪魔をしない」というのは彼女なりの気遣いであり、それ以上の意味はない。
「シルヴァーヌ。コンテストの報告は読んだ」
ルイスが言った。
「定例報告に含めました」
「特別賞の新設について、院長は何と言っていたか」
「来週、面談があります。詳細はその後に報告します」
「地脈の修正術式についても?」
「はい。一緒に申請します」
ルイスは一行と院長のやり取りを続けながら、チラリと中庭を見た。
リゼットはすでにノートに向き直っていた。カルロスは複雑な顔で、向かいの上級生に目配せした。上級生が静かに「……慣れます」と言うのが、かろうじて聞こえた。
「(慣れる、か。……「慣れる」という言葉が出てくるくらいには、あの令嬢と付き合いが長くなったということか、あの上級生も)」
* * *
施設案内が終わり、一行が正門へ向かうところで、ルイスはアランに「少し待て」と言い、一人で中庭を迂回して樫の木の近くまで歩いた。
カルロスは今度こそ立ち上がって頭を下げた。向かいの上級生も同様だ。ベアトリスという三年生だ、と院長から紹介を受けていた。
「座っていい」
ルイスがそう言ったのでカルロスが恐る恐る座った。ベアトリスはリゼットの背後に少し引いた位置に立ったままでいた。
ルイスはリゼットの前に立った。
「学院はどうだ」
短く、直接に聞いた。
リゼットはノートを閉じた。
「図書館が充実しています。実験設備も使えます。あと」
「……あと?」
「カルロスが、わからなくても質問してくるのが、思ったより、悪くないです」
ルイスはその言葉を受け取った。
「(悪くない)」
リゼットの口からその言葉が出るのは、珍しいことだとルイスは知っていた。彼女は「問題ない」「有益」「適切」という言葉で評価を表す。「悪くない」という否定形の肯定は、彼女の語彙の中でもさらに上の評価だ。
「(それは……友人という意味ではないか)」
ルイスはカルロスを見た。カルロスは「俺、今褒められたと思っていいですか」という顔で、ルイスに目配せした。ルイスは小さく頷いた。カルロスが小さくガッツポーズをした。
「……(この少年は、わかりやすいな)」
ルイスが再びリゼットに向いた。
「院長との面談、何を話すつもりだ」
「地脈の修正術式の学院への実装許可を申請します」
「……コンテストの件についても院長から話が出た。評価している。面談では有利に働くだろう」
「それは良かったです。あとは結果次第です」
「下りなければ?」
「許可が下りなければ院長を説得するための追加の記録を収集します。問題の修正自体は、許可があるかどうかに関わらず、するべきことです」
ルイスは少し間を置いた。
「……わかった。面談の結果は報告しろ」
「定例報告に含めます」
ルイスが踵を返しかけて、少し止まった。
「カルロス」
「は、はい!」
「リゼットが過労になる前に、昼食を取らせる役を引き受けてくれているか」
「え、は、はい! 毎日ちゃんと食べてます! 今日も食べました!」
カルロスが少し胸を張って答えた。ルイスは小さく頷いた。
「そうか。助かる」
「も、もったいないお言葉です……!」
カルロスが頭を下げ、ルイスが中庭を出た。
一行が視察を終えて正門へ向かう間、アランが「殿下」と小声で言った。
「……何だ」
「先ほど、カルロス様とおっしゃった方に「助かる」と言いましたが、連絡係の任命はまだ正式には行っていないかと。次の機会に正式に依頼する必要があります」
「……そうだったか」
ルイスは前を向いたまま歩き続けた。
「次に来た時に正式に依頼する」
「かしこまりました。それで、今回の視察の所感については報告書を——」
「「楽しそうには見えた」と書いておけ」
アランが少し間を置いてから、「はい」と答えた。
報告書の形式として若干不適切な表現だったが、指示された内容はその通りに書かれることになった。
正門を出る直前、ルイスはもう一度振り返った。
中庭の樫の木は、正門からはもう見えない。しかし、あの光景はまだ頭の中に残っていた。
ノートに向かいながら、隣の少年の声に短く答えているリゼット。笑っていない。しかし、嫌ではない顔をしている。それが彼女なりの「居心地の良さ」なのだとすれば。
「(……良かった)」
ルイスは心の中でそう思い、歩き続けた。




