アレクシスの変化
異変に気づいたのは、歩幅だった。
以前のアレクシスは、廊下を並んで歩く時、セレスティアの歩幅に合わせてくれた。八歳の少年が七歳の少女の足に合わせて、少しだけ歩調を落とす。小さな配慮。王太子が隣の人間に合わせるという、ささやかな優しさ。
それが——なくなっていた。
アレクシスは自分の歩幅で歩くようになった。セレスティアが小走りにならなければ追いつけない速さで。それに気づいているのかいないのか、振り返らずに歩いていく。
「殿下、すこしゆっくり——」
「ああ。ごめん」
謝って歩調を緩める。だが三十歩も歩けば、また元に戻る。無意識だ。身体が先に変わっている。心がそれに追いつくのも、時間の問題だ。
◇
昼休み。中庭の噴水のベンチ。
以前は二人きりで座ることが多かったこの場所に、最近は別の生徒がいることが増えた。アレクシスの「王太子派」——コンラートを中心とした騎士系貴族の子弟たち。
セレスティアが近づくと、アレクシスは微笑む。だが以前の笑顔とは質が違う。社交的な笑顔。王太子としての、適切な距離を保った微笑み。
「やあ、セレスティア」
「殿下、こんにちは」
「今日の歴史の授業、面白かったね。レグナシオン王国の黎明期の話」
カスパルの影を感じた。
「殿下。きょう、放課後にお話ししたいことがあるのですが」
「放課後か。今日は家庭教師の特別講義があるんだ。終わるのが遅くなるかもしれない」
「では、また別の日に」
「うん。また今度」
「また今度」が三回目だった。先週も同じことを言われた。その前の週も。アレクシスと二人きりで話す機会が、じわじわと減っている。
フリーデリケが遠くのテーブルから手を振った。セレスティアは手を振り返し、コンラートたちから少し離れた席に座った。噴水の水音だけが、変わらずに聞こえていた。
◇
七日目。ようやく二人きりの時間が取れた。
放課後の図書室。窓際の奥まった席。他の生徒はほとんどいない。
アレクシスが向かいに座った。手には例の政治学の本。カスパルが持ってきた本は、一冊から三冊に増えていた。
「殿下、最近いそがしそうですね」
「うん。家庭教師の宿題が増えた。宰相閣下が、もっと高度な内容を学ぶべきだと」
「殿下。おからだは大丈夫ですか。あまり無理をされると——」
「大丈夫だよ。王太子は忙しくて当然だ」
セレスティアは思い切って聞いた。
「殿下。カスパルさまに、なにか言われましたか」
アレクシスの手が止まった。本のページをめくる指が、一瞬だけ硬直した。
「……カスパルは侍従だよ。色々助言してくれる」
「どんな助言ですか」
「……王太子としての振る舞いについて。友人関係の整理とか」
友人関係の整理。
「整理って、どういう意味ですか」
アレクシスが顔を上げた。青い瞳がセレスティアを見た。だがその目は——。
揺れていた。
二つの力に引かれて、揺れていた。一方にはセレスティアの存在。もう一方には宰相の教育。どちらに行くべきか分からず、八歳の少年が引き裂かれている。
「カスパルが言うんだ。王太子は全ての臣下に平等であるべきだって。特定の誰かに近すぎると、贔屓に見える。贔屓は不公平を生む。不公平は信頼を壊す」
「殿下」
「うん」
「平等は大事です。でも——友達は、平等とは別のものです」
「別のもの?」
「平等は、みんなを同じようにあつかうこと。友達は、特別に大事にすること。べつべつのものです。りょうりつできます」
アレクシスが眉を寄せた。考えている。
「でも、宰相閣下の教えでは——」
「宰相閣下は、殿下のともだちですか」
アレクシスが口を閉じた。
「殿下。わたしは、殿下の友達でいたいです。贔屓じゃなくて」
「……」
「殿下が忙しくなっても、二人きりで話せなくなっても、それでもいいです。でも——殿下が困った時、話したい時、そばにいたいです」
アレクシスの瞳が揺れた。
そして——言った。
「セレスティア。君は強いね」
以前と同じ言葉。だが今度は続きがあった。
「でも、強すぎる人は、周りを不安にさせる」
心臓が凍った。
「殿下」
セレスティアの声が震えた。堪えた。ここで泣いてはいけない。泣けばアレクシスは罪悪感を持ち、それがまた距離になる。
「強さは、だれかを不安にさせるためにあるんじゃないです」
あの時言った言葉を、もう一度。
「強さは、だれかを守るためにあるんです。殿下が強くなったら、民を守れます。それは不安じゃなくて、安心です」
アレクシスの目が——一瞬、光った。
青い瞳の奥で、何かが揺れ戻った。五歳の時の光。宰相の教育に覆われる前の、まっすぐな光。
だが次の瞬間、その光が消えた。まるで蝋燭の炎が風に吹かれるように。
「……ありがとう。でも、もう行かなきゃ。講義の時間だ」
アレクシスが立ち上がった。本を抱えて。
「殿下」
振り返った。
「やくそく、おぼえてますか」
「約束?」
「五歳の時のやくそく。八歳の時のやくそく。殿下が変わっていっても、わたしはそばにいるって」
アレクシスの足が止まった。
長い沈黙。図書室の窓から夕陽が差し込んで、二人の影が長く伸びていた。
「……覚えてるよ」
小さな声だった。八歳の少年の声。王太子の声ではなく、アレクシスの声。
「ありがとう、セレスティア。君がそう言ってくれると——少し楽になる」
アレクシスは図書室を出て行った。
セレスティアは一人残された。夕陽の中で。
アレクシスが座っていた椅子を、しばらく見ていた。机の上に、本を置いた跡がうっすら残っている。夕陽がその跡を照らしていた。
図書室の閉室の鐘が鳴った。司書が棚の整理を始める音がした。セレスティアはゆっくり立ち上がり、鞄を手に取った。廊下に出ると、石畳が橙色に染まっていた。
廊下の角でコンラートとすれ違った。「あ、セレスティア。アレクシス、見なかったか? 剣の話があって」「図書室の方に行きましたよ」「ありがとな!」コンラートが走り去った。夕陽の中に、一人残った。
◇
その夜。寮の部屋。
ヴィオレッタは既に眠っている。
セレスティアはベッドに横たわったまま、暗い天井を見つめていた。
アレクシスの言葉が、何度も頭の中で再生される。
「強すぎる人は、周りを不安にさせる」
次の手紙で父に書こう。アレクシスの変化のこと。カスパルのことを。
「覚えてるよ」と言ってくれた。約束を覚えていた。
ヴィオレッタが寝返りを打った。小さな音。
「……起きてるの」
低い声。眠そうだが、聞こえていたのかもしれない。
「ごめんなさい。起こしてしまいましたか」
「別に。眠れないなら、ランプをつけてもいいわよ」
「だいじょうぶです。もう眠れます」
「そう」
再び、静かになった。遠くで風の音がした。月の光だけが残った。目を閉じた。




