フェリクスの面会
受付の使用人が来て、「お客様です」と言った。
昼食の後、一人で自習していた時間だった。宿題は午前中に終わらせてある。次の授業まで、自由に読書や研究に使えるはずだった。
「名前は?」
「フェリクス・フォン・アルヴェイン様と名乗っていらっしゃいます。書籍を何冊かお持ちです」
セレスティアは立ち上がった。
◇
中庭の面会区画に、フェリクスがいた。
眼鏡。黒い外套。手に大きな布袋。重そうだ。
八月の日差しが強い。そのせいか、普段より眉間に皺が寄っている。外套の裾に道の埃がついていた。馬車で来たのではなく、歩いてきたのだろう。学術研究室から学園まで、歩けば二時間以上かかる。それを、本を五冊抱えて。フェリクスらしかった。
「おにいさま」
「来た」
「来た、じゃなくて。なんで来たの」
フェリクスが袋から本を出し始めた。
「王宮の学術研究室が蔵書を整理した。お前が読みそうなものを選んだ」
五冊。全部、重い。法学概論。東方地図誌。薬草と毒草の分類。外交史料集。あと一冊は呪文体系の研究書だった。全部、大人向けの本だ。
「……配達の人に頼んでもよかったのでは」
「本は自分で届けるものだ」
そういうものではないと思った。でも、言わなかった。
◇
中庭の石段に並んで座った。
フェリクスが自分でも一冊持ってきていた。読みかけのもの。来る途中も読んでいたのだろう。栞が半分のところに挟まっている。
しばらく沈黙が続いた。
「天才令嬢の噂を聞いた」
フェリクスが本を開いたまま言った。
「聞こえてたの」
「王都まで」
セレスティアは少し黙った。
「……目立ちすぎた」
「そうだな」
「反省してる」
「していなさそうだ」
セレスティアは何も言わなかった。フェリクスも続けなかった。
◇
しばらく、二人で読んでいた。
フェリクスは読むのが速い。ページをめくる音が規則的だ。セレスティアはまだ一ページ目にいた。外交史料集だったから、難しい。難しい言葉が続いて、同じ段落を三回読んだ。
中庭で鳥が鳴いた。噴水の水が石に当たる音がした。遠くで生徒たちの声が聞こえる。でも石段の上は静かだった。フェリクスが隣にいると、沈黙が邪魔にならない。何かを言わなければ、という気持ちにならない。ただ時間が流れる。それが少し珍しかった。学園に来てからずっと、誰かと一緒の時は何かしら話していた。
「学園は楽しい?」
フェリクスが珍しいことを聞いた。
「楽しいよ」
「友達ができたと手紙に書いていた」
「フリーデリケちゃんと、ヴィオレッタさまと、リディアさまと、イザベラさまと」
フェリクスが頷いた。眼鏡の奥が、少しだけ緩んだような気がした。
「フリーデリケは元気か」
「すごく元気。毎日食堂でいちばん声が大きい」
「そうか」
「おにいさまも心配してたの? フリーデリケちゃんのこと」
「心配という言葉は適切ではないが」
フェリクスがページをめくった。
「……元気と聞いて良かった」
フェリクスがまたページをめくった。
「ヴィオレッタさまも」セレスティアは言った。「最初は難しかったけど、今は一緒に眠れてる」
「難しい、とは」
「よく眠れないみたいで。わたしにも話してくれないけど」
フェリクスがペンを取って、ページの端に何かを書きつけた。本の余白にメモをするのが彼の癖だ。
「……何を書いたの」
「覚えておくべきことが出た時は書く」
◇
しばらく読んでいると、フェリクスが口を開いた。
「エドヴァルトから聞いたか。ヨハン先生の研究の件」
「うん。面白い発見があった、と」
「まだ仮説の段階だ」フェリクスがページを一枚めくった。「聖魔力の光と闇には、固有の振動数がある。二つが一致した時に安定し、ずれた時に暴走する。ヨハン先生のノートに、その兆候が書いてあった」
「……共鳴の話ですか」
「お前も知っているのか」
「オスヴァルト先生が同じようなことを言っていました。まだ推測だ、と」
フェリクスが少し間を置いた。眼鏡の奥で、目が細くなった。考えている時の顔だ。
「ヘルツォーク教授か。なら同じ着地点に向かっている。……ひとつ確認がある。光と闇を同時に出している時、呼吸はどうしている」
「四秒吸って、五秒吐く」
「吐く時に安定するか」
「……はい」
フェリクスがまた本の余白に何かを書いた。しばらく黙った後、「分かった」とだけ言った。それ以上は何も言わなかった。
◇
夕方になった。
庭の木が橙色に染まり始めていた。フェリクスが本を閉じた。
「帰る」
「うん」
「それを読んだら返せ」
五冊を指した。
「全部?」
「全部。読めたらでいい。急がなくていい」
「……いつまでに」
「次に来た時に渡せばいい」
セレスティアは少し間を置いた。
「また来るの」
「本を届けに来る」
「その理由で」
フェリクスが立ち上がった。眼鏡を直した。外套の埃を手で払った。帰り道も、また歩くのかもしれない。
「また来る」
「はい」
それだけ言って、歩き出した。面会区画の門の向こうへ。一度も振り向かなかった。
その背中が見えなくなるまで、セレスティアは立っていた。日が少し傾いていた。帰り道も、また二時間歩くのだろうか。道の埃をつけながら、本を抱えて来た道を戻る。途中で別の本を取り出して読むかもしれない。そういう人だから。
◇
石段の上で、フェリクスが去った方向を見ていた。
「また来る」と言った。
本を届けに来る、という理由で。
五冊の本を両手で抱えた。重かった。外交史料集が一番厚い。薬草の本が一番重い。
フェリクスは「会いに来た」とは言わない。「心配だった」とも言わない。理由が必要な人だ。本を届けること、資料を渡すこと、用事があること。それを理由にして来る。
でも来た。王都から。本を五冊抱えて。道の埃をつけたまま。
余白にメモをとった。
そして「また来る」と言った。
セレスティアは五冊の本を両手で抱えた。重かった。外交史料集が一番厚い。薬草の本が一番重い。呪文体系の研究書は表紙に紋章が入っていて硬かった。
全部、フェリクスが選んだ。全部、セレスティアが読みそうなものを。
読もう、と思った。全部読んで、次に来た時に返す。そうすれば、また持ってきてくれる。感想を言えば、フェリクスが「そこか」と言う。それが会話の形だ。それで十分だった。
前世のフェリクスが処刑の日のどこにいたのか、覚えていない。それが時々怖かった。今世では覚えている。五冊の本の重さと、「また来る」という言葉を。
日が傾いた。石段がほんのり温かかった。ずっとフェリクスが座っていた場所だからかもしれないと思って、それから、そんなはずないかと思い直した。五冊の本を胸に抱き直した。薬草の本が一番下で、一番重かった。それでいいと思いながら、寮に戻った。




