8歳の誕生日
魔力覚醒試験へ向かう数時間前、セレスティアは八歳の朝を迎えた。
目を覚ますと、机の上に何かが置いてあった。
寝ている間に、ナターシャが置いていったのだろう。
小さな包み。茶色の紙。端が不揃いに折ってある。丁寧に折ろうとして、うまくいかなかった感じがした。カードが乗っていた。
丸い字で、『おたんじょうびおめでとうございます。今日だけはんぶんこします。フリーデリケ』
半分こ。
包みの隣には、細い革紐で束ねた手紙があった。母の柔らかな文字。父の短い「八歳の誕生日を祝う」。エドヴァルトの大きな字と、フェリクスの細かな字。マルガレーテの祝いの言葉に続いて、ナターシャは「来年も、再来年も、そのまたずっと先も、傍におります」と記していた。
包みを開けた。クッキーが二枚入っていた。フリーデリケのお母さんが送ってきた手作りクッキー。フリーデリケが自分の分を半分、ここに置いていった。セレスティアは一枚、口に入れた。
甘かった。少し焦げている。フリーデリケのお母さんはいつも少し焦がす。でも、この焦げた甘さがフリーデリケのクッキーの味だ。
「……ありがとう」
声は部屋の静けさに吸い込まれた。それでも、前世の「ありがとう」とは違った。誰に向けた言葉なのか、自分で分かっていた。
◇
フリーデリケには、誕生日を話した覚えがない。朝の身支度にナターシャが顔を見せなかったことを思えば、二人で仕組んだのだろう。そう気づくと、焦げた甘さがまた少し増した。前世の誕生日は、いつも静かだった。
八歳の前世の誕生日。誰も来なかった。侍女が最低限のケーキを持ってきて、一人で食べた。前世では誕生日を祝ってくれる人間がいなかった。友人がいなかったから。
四歳の時の、今世の誕生日は、家族全員で祝ってくれた。ロウソクを四本、一緒に吹き消した。母が作ったケーキがあった。父が正式に誕生日の言葉を述べた。エドヴァルトが「また大きくなったな」と言った。フェリクスが本を持ってきた。
今年の八歳は、学園にいる。家族がいない。父も母も兄たちもいない。でも、フリーデリケのクッキーがある。
焦げた甘さが、口の中に残っていた。
◇
魔力覚醒試験を終えた昼。食堂に入ると、フリーデリケが手を振った。
「セレスティア様! お誕生日おめでとうございます!」
大声だった。食堂中の人が振り向いた。他の生徒たちの視線が集まる。遠くの席まで届く声だった。フリーデリケは声が大きい。いつも大きい。今日は特に大きかった。
「ありがとう、フリーデリケちゃん」
「今日は特別な日! ご飯をいっぱい食べてください!」
「クッキー、美味しかった」
「本当? 半分で寂しくなかった?」
「うれしかったよ」
フリーデリケが満面の笑みになった。それだけで報われる顔だ。
席に着いた時、後ろの席からコンラートが声をかけてきた。
「フリーデリケが大声で言ってたが、誕生日か」
「うん」
「おめでとう。特に何も準備してないが」
「準備しなくていいよ。声をかけてくれただけで十分」
コンラートが「そうか」と短く言った。それきり何も言わなかった。コンラートらしい言い方だと思った。余計なことを言わない代わりに、ちゃんと声をかけてくる。
その少し後、アレクシスが通りかかった。
「セレスティア。誕生日だって聞いた」
「はい」
「おめでとう。カスパルにも言いたいところだが……」言いかけて、笑いをこらえるように口を押さえた。「カスパルに頼んだら大げさになりそうで」
「殿下がおっしゃるとおりです」
「自分で言えてよかった」
短い会話だった。アレクシスは次の席に戻っていった。席に着いた時、机の端に人影が立った。顔を上げた。編入生の少女だった。
リディア。ひと月ほど前にこの教室に来て、フリーデリケとは食堂で短い会話を交わすようになった子。それ以外の誰とも、まだほとんど口を利いていない。黒い髪。褐色がかった肌。背筋がまっすぐ伸びている。その子が、何も言わずに手を出した。
手のひらの上に、小さな石が乗っていた。滑らかな白い石。川の水で磨かれた丸み。
「……なんですか」
「南方では、誕生日の人は石ころを贈られる」
声は低くて、平坦だった。
「その年に生きた証だから。一年分の重みを持つ石を選ぶ。お守りになるんだって」
「本当の風習?」
「たぶん」
それだけ言って、リディアは石を机に置いた。手渡そうとはしなかった。
「どこで拾ったの」
背を向けかけた足が、一瞬止まった。
「……国の川」
振り返らずに、自分の席に戻っていった。最後列の端。誰の隣でもない席。
それが、二人が初めて交わした会話だった。石についての、ほんの数言。互いのことは何一つ知らず、友達と呼ぶにはまだ遠かった。
石を手に取った。小さくて、白くて、温かかった。掌に乗せると、ちょうどいい重さだった。
フリーデリケの大声を聞いたのだろう。それでも聞き流さず、故国から持ってきた石を一つ差し出してくれた。そのことの方が、不思議なくらい嬉しかった。
◇
午後。授業を終えて指定区画の入口まで戻ると、ナターシャが待っていた。
「お嬢様。八歳のお誕生日、おめでとうございます」
「うん。朝の包みを置いてくれたの、ナターシャでしょう」
「はい。少し前に、内緒でお祝いしたいと相談を受けましたので」
「だから今朝、来なかったの?」
「先に贈り物を見つけていただきたかったのです。皆様からのお手紙も、お読みになりましたか」
「うん。読んだよ。ナターシャのも」
ナターシャは返事をせず、わずかに目を伏せた。
「ナターシャ」
「はい」
「泣いてる?」
ナターシャは窓の外へ視線を逃がした。少し間を置いてから、いつもの声で告げる。
「お嬢様、お誕生日おめでとうございます」
セレスティアは笑った。ナターシャも、指定区画の内側で少し笑った。
◇
夕方、部屋に戻ると、ヴィオレッタがいた。
机の前に座って、本を読んでいた。セレスティアが入っても顔を上げなかった。着替えを済ませて、ベッドに座った。
白い石を手のひらに乗せた。まだ温かい。今日一日、ポケットに入れていたから。
「ヴィオレッタ様」
「何」
「今日、私の誕生日だって、知ってた?」
ヴィオレッタが本のページを、ゆっくりとめくった。
「書類を見た」
「そう」
「おめでとう」
短かった。顔を上げなかった。でも言った。でも、それだけのことが嬉しかった。
「ありがとう」
◇
夜。消灯の後。ベッドの中で、今日もらったものを思い返した。
フリーデリケのクッキー二枚。リディアの白い石。ヴィオレッタの「おめでとう」一言。そして、家族と屋敷の皆から届いた手紙。
家族はここにはいない。声も、抱きしめてくれる腕も、距離を越えては来ない。それでも、今日に間に合うよう託された言葉は、確かに手元へ届いていた。だから、さびしくはなかった。
前世の誕生日はいつも一人だった。一人で食べるケーキ。誰も来ない廊下。
石を手のひらに乗せた。白くて、小さい石。川の水で磨かれた、一年分の重みを持つ石。
「八歳になった」
天井に向かって言った。声に出してみると、少し実感が湧いた。七歳の入学式の日とは違う八歳だ。あの頃はまだ、リディアの白い石も、ヴィオレッタの「おめでとう」も知らなかった。
ラベンダーの香りがかすかにした。枕元に置いている。王宮から帰った後に持ってきたものだ。学園に来る前に公爵邸でも育っていたラベンダーと同じ香りだと思う。
その隣には、朝に受け取った手紙を重ねて置いた。父の一行は父らしく、母の言葉は母らしく、兄たちの文字は声まで思い出せるほど見慣れていた。
昼間に刻まれた二千八百四十という数字は、明日からセレスティアを「光の天才」として追いかけるだろう。けれど今夜、手の中にあるのは数字ではなく、友人からもらった石と家族の文字だった。
明日のことは、明日に。今夜だけ、八歳になった自分のままで眠る。
石をポケットから出して、もう一度手のひらに乗せた。白くて、丸い。リディアが選んだ石。川の底で磨かれたもの。それを握ってから、目を閉じた。




