エドヴァルトの帰還
面会日の朝、学園の正門に一台の馬車が停まった。
公爵家の紋章、蒼い鷲の旗。だが馬車から降りてきたのは父ではなかった。
長身に広い肩幅。腰に佩いた長剣の柄を無造作に撫でる癖まで、遠目にも見間違えようがない。二十二歳になった長兄、エドヴァルト・フォン・アルヴェインだった。
去年の夏、中庭で木剣を振っていた頃よりも、肌はずっと濃く焼けていた。辺境の日差しの色だ。
正門の受付で名乗る声が、廊下の端まで響いた。この兄の声量は昔から変わらない。
「アルヴェイン家長男エドヴァルトです。妹のセレスティアに面会を。それと、配属の報告も兼ねて」
受付の職員が目を丸くしている。公爵家の長男が直接来るとは思っていなかったのだろう。
セレスティアは二階の窓からその姿を見ていた。胸が詰まった。
前世では、処刑裁判の後、この兄が単身で貴族院へ乗り込んだ。「妹は無実だ」と叫び、宰相派と正面から衝突した末に姿を消した。遺体さえ見つからなかった。
あの時のエドヴァルトも、今と同じくらい大きかった。同じように声が廊下に響いていた。同じように剣の柄を撫でていた。
だが前世のエドヴァルトは、政治の場でも剣を振る時と同じように、正面から進めば道を開けると信じていた。その真っ直ぐさを敵に利用され、死へ追い込まれたのだ。
セレスティアは窓辺を離れ、面会室のある東棟へ向かって階段を駆け下りた。廊下の角を曲がったところで、大きな影とぶつかりそうになる。
「おっと……セレス!」
エドヴァルトが立っていた。受付を済ませて面会室に向かう途中だったらしい。
近くで見ると、身体つきは去年よりひと回り厚くなっていた。肩幅は父に近づき、腕も鍛錬で太くなっている。けれど、日焼けした顔に浮かぶ笑い皺と、こちらをまっすぐ見る目は変わらない。四年前、肩車をしてくれた十八歳の頃から、この兄の本質は同じだった。
「お兄様」
「でかくなったな! いや、まだ小さいか。七歳だもんな。でも前より顔つきがしっかりした」
エドヴァルトはしゃがんで、セレスティアの目の高さに合わせた。この人はいつもそうする。子供に話しかける時、立ったままではなく、必ず目線を合わせてくれる。
「ご配属、おめでとうございます」
「おう。叙任から一年、やっと正式にヴァイスハウプト辺境伯の騎士団に置いてもらえた。一人前ってわけだ」
誇らしげに胸を張る仕草も、肩車をしてくれた頃と同じだった。ただし、その胸板は当時より遥かに厚い。
「お兄様。辺境には、いつ」
「去年の秋だ。お前が学園に入った頃だな」
中庭で木剣を振り、しゃがんで頭を撫でてくれた、あの夏が終わって間もなく辺境へ発ったのだ。
「辺境伯閣下にもよろしくお伝えください」
「自分で伝えろよ。辺境伯は『公爵家の末姫に一度会いたい』って言ってた。お前の噂は届いてるぞ。最初の学力試験で三位に入った、よくできた妹だって」
セレスティアは少し眉を寄せた。
「それは、お兄様が話したのでは?」
「俺だけじゃない。辺境伯家にはコンラートもいる。学園の話は、案外遠くまで届くもんだ」
意図して三位に収めた結果でさえ、辺境では「優秀な公爵令嬢」の評判になる。答案に書いたものは、学園の中だけに留まらないのだ。
「おおげさです。三位になっただけですよ」
「謙遜するな。アルヴェイン家の誇りだ」
エドヴァルトは屈託なく笑い、東棟二階の面会室へ入った。先日、カスパルがアレクシスと話していたのと同じ部屋だ。
◇
「で、学園はどうだ。楽しいか?」
テーブルを挟んで向かい合うと、エドヴァルトは椅子の背にもたれ、長い足を組んだ。並の大人を想定した椅子でさえ、長身の騎士が座ると少し窮屈そうに見える。
「たのしいです。友達もいて」
「友達か。誰だ?」
「フリーデリケちゃん。ブリュンヒルデ男爵家の。あと、コンラートくん」
「コンラート・フォン・ヴァイスハウプト! 辺境伯の倅か。まだ会ってないが、親父さんから聞いてる。末っ子のくせに一番気が強いらしいな」
「殿下とも仲良くしていただいています」
「王太子殿下とか。セレス、お前の交友関係はスケールがでかいな」
口元は笑っているが、目はセレスティアの顔をじっと確かめていた。粗野に見えても、騎士団の厳しい訓練を抜けてきた人だ。妹が話を逸らした程度で見逃してはくれない。
「セレス」
「はい」
「お前、疲れてないか。目に出てる」
見抜かれた。だがそれを兄に言うわけにはいかない。
「少し。お勉強が大変で」
「嘘つけ。お前は三歳の時から大人みたいなことを言う子だ。勉強程度で疲れる顔じゃない」
痛いところを突かれた。エドヴァルトが身を乗り出し、剣胼胝のできた大きな手をテーブルへ置く。去年の夏よりも硬くなった手だった。
「鷹便、来なかったな」
「え」
「去年の夏に言った。何かあったら飛ばせと。どこにいても最速で駆けつけると」
頭を撫でながら告げてくれた、あの午後の言葉を、兄はずっと覚えていたのだ。
「それから一度も、来なかった」
エドヴァルトの声が少し低くなった。
「辺境で毎朝、鷹番の詰所に寄った。何も来ていないと言われるたびに、良かったと思った。半年くらいまでは」
「……」
「そこから、逆になった。何も来ないのは、何もないからじゃない。言わないからだ。そう思った」
セレスティアは膝の上で手を握った。
学園へ入ってから、何も起きなかったわけではない。オスヴァルトのもとで誰にも明かせない制御訓練を続けた。第一王子ルシアンが近づいてきた時には、その意図を測った。試験では周囲の目を計算し、三位に着地させた。
けれど、どれも兄が剣で解決できる問題ではなかった。助けを求める言葉にできないまま、鷹便を飛ばす機会を失っていたのだ。
「何かあったんだろう。言えないことか?」
「……」
「言えないなら無理には聞かない。だがな、セレス」
兄の目がまっすぐにセレスティアを見た。
「何かあったら俺に言え。兄が守ってやる」
前世でも、エドヴァルトは同じ言葉を口にし、本当に妹を守ろうとした。処刑の日には単身で貴族院へ乗り込み、そのまま帰ってこなかった。
この兄は言葉通りの人間だ。「守る」と言えば、本当に命を賭ける。その真っ直ぐさは美点であると同時に、敵につけ込まれれば致命的な弱点にもなる。
だからこそ、この兄を前世と同じ死に方をさせるわけにはいかない。
「お兄様。ありがとうございます」
「礼はいい。で、本当に大丈夫なのか」
「大丈夫です。でも、お兄様にお願いがあります」
「何だ」
セレスティアは言葉を選んだ。
「お兄様。宰相閣下のことを、どう思いますか」
エドヴァルトの表情が変わった。笑みが消え、騎士の顔になった。
「……唐突だな」
「教えてください」
「俺の私見でいいなら。辺境伯も同じ意見だが……宰相は有能だ。だが王家のためではなく、自分のために有能だ。そういう男だと思っている」
「お兄様。私、学園で宰相派の人たちに囲まれています」
エドヴァルトの手がテーブルの上で握られた。
「どういう意味だ」
「同室のヴィオレッタ様は、宰相派の侯爵家の娘です。厨房には、宰相派とのつながりが疑われる人がいます。殿下の侍従カスパルも、宰相家の出身です」
「……お前、それを分かっていて今まで黙っていたのか」
「お父様には報告しています。でも、お兄様にも知っておいてほしかったのです」
エドヴァルトは椅子から立ち上がりかけた。危険を知れば、考えるより先に身体が動く。それがこの兄の衝動であり、前世では敵に利用された弱さだった。
「お兄様。座ってください」
静かに、しかし強く言った。エドヴァルトが止まった。七歳の妹の声に、一瞬で動きを止めた。
「今は動かないでください。お兄様が宰相派に抗議したら、相手に手の内を見せることになります」
「だが……」
「辺境伯閣下のお側で、強くなってください。剣の腕だけではなく、人との繋がりも。辺境伯閣下は王家に忠実な方です。お兄様がそのお側にいることが、私たちの力になります」
エドヴァルトは黙って座り直した。
四年前なら、肩車をしながら「何を言ってるんだ」と笑ったかもしれない。けれど今は、七歳の妹ではなく、一人の人間が差し出した判断として、その言葉を受け止めている。
「……お前、七歳だよな」
「ななさいです」
「七歳の言うことじゃないぞ、それ」
「へんですか?」
「変だ。だが……信じる。俺は妹を信じると決めている」
三歳の時と同じ言葉だった――「妹の言うことを信じない兄がいるか」。
セレスティアの目が潤んだが、今は泣いている場合ではないと堪えた。
「お兄様。もう一つ。これが一番大事なお願いです」
「言え」
「絶対に、ひとりで動かないでください。何があっても」
エドヴァルトが目を細めた。
「どういう意味だ」
「お兄様は真っ直ぐな人です。誰かが傷つけられたら、一人でも助けに行く。それは素晴らしいことです。でも……」
言葉を切った。前世の記憶が喉元まで込み上げる。貴族院に一人で乗り込んだ兄。帰ってこなかった兄。
「……一人で飛び込んだら、守れるものも守れなくなります。お兄様が倒れたら、私を守る人がいなくなります」
エドヴァルトは長い間黙っていた。窓から差し込む光の中で、四年前と同じまっすぐな目が、言葉の意味を測るように細められている。
「……分かった。約束する」
「本当に?」
「俺は嘘をつかない。それだけは保証する。一人では動かない。必ず仲間と動く。辺境伯閣下の下で、そう教わっている」
「ありがとうございます、お兄様」
「礼を言うのは俺の方だ。妹に心配させてどうする」
エドヴァルトは照れくさそうに頭を掻きながら苦笑した。その時にはもう、騎士の顔からいつもの兄の顔へ戻っていた。
◇
面会の終わり際、エドヴァルトが立ち上がりながら言った。
「そうだ。フェリクスから伝言がある」
「フェリクスお兄様から?」
「ああ。『ヨハン先生の研究を引き継いでいる。面白い発見があった。次に会う時に話す』だと」
フェリクスが、故ヨハンの研究を引き継いでいる。六歳の冬に病で亡くなった在野の学者が残した魔力の基礎理論と、聖魔力に関する知見を、学者気質の次兄が読み解いているのだ。セレスティアが五歳の時、その魔力の異質さを見抜いた兄なら、何を発見しても不思議ではない。
「面白い発見」とは何だろう。
「フェリクスお兄様は、お元気ですか」
「元気だが相変わらず書庫から出てこない。あいつは本に埋もれて死ぬタイプだ」
エドヴァルトが笑い、二人は面会室を出た。七歳の少女と二十二歳の青年騎士では歩幅が違いすぎるが、兄はセレスティアに合わせてゆっくり歩いた。並んだまま正門まで行くと、帰りの馬車が待っていた。
エドヴァルトが馬車に乗り込む前に、振り返った。
「セレス」
「はい」
「お前は強い。前から知ってた。だが……強い奴ほど、一人で抱え込む。俺もそうだった」
エドヴァルトは一拍置いてから、少し照れた声で続けた。
「頼ってくれて、嬉しかった」
エドヴァルトが見せた太陽のような笑顔は、四年前と変わらなかった。やがて馬車が動き出し、蒼い鷲の旗とともに学園の門を抜けていく。セレスティアは、その姿が見えなくなるまで見送った。
◇
その夜、セレスティアは寮の部屋で、兄との会話を反芻していた。
ヴィオレッタはすでに眠っているようで、隣の寝台から規則正しい息が聞こえていた。今夜は机の引き出しを探った形跡もない。最近はその頻度が減っている。セレスティアが意図して「見せる」ものが、あまりにも平凡だからだろう。
暗闇の中で、セレスティアは天井を見上げた。
前世の悲劇を繰り返させないため、エドヴァルトには「一人で動かないで」と伝えた。
だがあの約束だけでは足りない。エドヴァルトはまっすぐな男だ。妹が危機に瀕すれば、約束を破ってでも飛び出す可能性がある。
だから、エドヴァルトが一人で動く必要のない状況を作らなければならない。辺境伯の騎士団で兄の周囲に信頼できる人の網を築く仕事は、父に任せるべきだ。次の手紙で相談しよう。
そして、フェリクスの言う「面白い発見」も気にかかる。ヨハン先生の研究を継いだ先で、聖魔力の何かを見つけたのだろうか。それはセレスティア自身の力の秘密にも関わるかもしれない。
セレスティアは毛布を引き上げ、目を閉じた。
耳に残る「守ってやる」という言葉を、今度こそ兄の死に繋げてはならない。守られるだけの妹ではなく、兄も守れる妹になるのだ。
「お兄様。今度は私が守ります」
暗闇の中、七歳の少女は静かに拳を握った。




