カスパルの正体
王太子付き侍従カスパルが学園を訪問した。
「殿下のご様子を確認に参りました」
面会室で穏やかに微笑む三十代の男。整った顔立ち。物腰が柔らかく、声が落ち着いている。侍従としては模範的だ。誰もがカスパルを「良い侍従」だと評する。
セレスティアはカスパルの笑顔を見て、背筋が凍った。
前世の記憶。処刑裁判の証人席にこの男が立っていた。
「セレスティア・フォン・アルヴェインが、殿下の食事に毒物を混入しようとしているのを目撃しました」
偽証。完全な偽証。セレスティアは王太子の食事に近づいたこともない。だがカスパルは詳細に、具体的に、感情を込めて証言した。「私の目の前で」「殿下の杯に」「白い粉を」。
法廷は信じた。王太子付き侍従という地位。長年の信用。セレスティアの弁解は届かなかった。
あの男が、今、学園にいる。
面会室は二階の東棟にある。カスパルがアレクシスと話している間、セレスティアは廊下の窓辺で本を読む振りをしていた。
カスパルの声が漏れ聞こえる。
「殿下、学園はいかがですか。ご不自由はございませんか」
「大丈夫だよ、カスパル。友達もいるし」
「それはようございます。宰相閣下が殿下のお勉強の進み具合を気にかけておられます」
宰相の名を自然に滑り込ませる。アレクシスの行動を把握し、宰相に報告する。
だがセレスティアが警戒すべきは、報告だけではなかった。
カスパルの視線。
面会室から出てきたカスパルが、廊下のセレスティアの前を通った。
目が合った。
カスパルは微笑んだ。穏やかな微笑み。だがその目は——セレスティアを見ていた。アレクシスではなく。
「ああ、アルヴェイン嬢。お元気そうですね」
「カスパルさま、こんにちは」
「殿下と仲良くしてくださっているそうで、ありがたいことです」
言葉は丁寧。だが目が這うように、セレスティアの全身を観察している。服装。持ち物。顔色。表情の微細な変化。
この男はスパイだ。だがアレクシスのすぐ傍に入り込んでいる。より近く、より深く。
「セレスティア嬢。殿下は最近、少しお疲れのようです。学園のお勉強が大変なのでしょうか」
探りを入れている。アレクシスの「変化」の原因を確認しようとしている。宰相の教育に抵抗する何かがあるのかどうか。
「殿下はまいにちがんばっておられます。わたしなんかよりずっとおいそがしくて」
「そうですか。殿下にはお友達が必要ですからね。アルヴェイン嬢のような方が傍にいてくださると、安心です」
安心。その言葉に嘘はないのかもしれない。カスパルの中に、ごく一部でもアレクシスへの本物の忠誠があるのかもしれない。
だがそれは関係ない。この男は偽証する。前世でそうした。
「では、失礼いたします。殿下にはよろしくお伝えください」
カスパルが去った。
足音が遠ざかる。石造りの廊下に革靴の音が反響し、角を曲がると聞こえなくなった。
セレスティアは廊下の壁に背を預け、小さく息を吐いた。手の中の本を見た。表紙の革を指先で押さえたまま、頁を一度もめくっていなかった。カスパルには分かっただろうか。分かっていても、分かっていなくても、あの男の顔は変わらなかっただろう。
この男をどうするか。
今すぐ排除する手段はない。カスパルは王太子の正式な侍従であり、王家の人事に公爵家が口を出すことは政治的に極めて難しい。「スパイだ」と告発するにも、証拠がない。
前世の偽証は——まだ起きていない。これから起きることの「証拠」は存在しない。
だが放置もできない。カスパルはアレクシスの傍で、全てを見ている。セレスティアとアレクシスの会話も、関係の深さも、全てが記録され、宰相に報告されている。
◇
その夜、セレスティアはナターシャと対策を協議した。
「カスパルという侍従について、何か分かる?」
「はい。以前から調べておりました。カスパル・ヴェルナー。三十二歳。元は宰相家の下級使用人でした。十五歳の時に王宮に送り込まれ、侍従見習いから王太子付きに昇進しています」
宰相家の出身。やはり、最初から宰相のスパイとして配置されていた。
「家族は」
「母親が王都の下町にいます。弟が一人。弟は宰相家の書記官補佐です」
弟が宰相家に勤めている。家族ごと宰相の手の中だ。カスパルが裏切ろうとしても、家族を人質に取られている。
「この男は宰相を裏切れない構造になっています。忠誠心ではなく、束縛です」
「ナターシャ。カスパルをはいじょするのは、いまはむり。でも、カスパルがなにを宰相にほうこくしているかは知りたい」
「カスパルの報告内容を把握する……それは困難です。カスパルは慎重な人物です」
「でも、おとうさまへの手紙で、カスパルのことを報告する。カスパルが宰相家出身であること。弟が宰相の書記官であること。おとうさまなら、つかいかたを考えてくれる」
公爵の政治力を頼る。セレスティアが直接手を出せない領域は、大人に任せる。
「もうひとつ。アレクシス殿下に、カスパルのことをつたえるべき?」
ナターシャは慎重に首を振った。
「殿下はまだ七歳です。侍従がスパイだと知れば、殿下は誰も信じられなくなる可能性があります。今はまだ——」
「そうだね。いまはまだ、はやい」
アレクシスにカスパルの正体を告げるのは、もう少し先だ。この子がもう少し強くなってから。真実を受け止められるだけの心が育ってから。
セレスティアは窓の外を見た。
カスパルという男。宰相に束縛され、スパイとして生きている。王太子の傍で笑顔を貼り付け、裏で全てを報告する。
この男も、ある意味では「操られている側」だ。宰相の手先として配置された人間。
だがカスパルは大人だ。自分の行動に責任がある。子供たちとは違う。
いつか、この男の偽証を防がなければならない。前世で起きた裁判の証言を、今世では絶対に起こさせない。
そのためには——証拠が要る。カスパルが宰相のスパイであるという証拠。偽証を企んでいるという証拠。
まだない。まだ集まっていない。
だが時間はある。あと十一年。処刑の日まで。
その間に、全ての準備を整える。
セレスティアは拳を握った。
「……手紙は、いつ出す予定ですか」
ナターシャが訊いた。
「あさって。ヴォルフ経由で」
「承知しました。封蝋は二重で」
「うん」
部屋に沈黙が落ちた。ナターシャが燭台の灯りを少し遠ざけた。眩しかったのか、それとも顔を見せたくなかったのか。
「ナターシャ」
「はい」
「こわかった? きょう、カスパルと顔をあわせて」
ナターシャが少し間を置いた。
「……お嬢様がおられましたので」
「わたしがいたら、こわくない?」
「七歳のお嬢様がおられるから怖くない、というのは語弊があります」ナターシャの声に、わずかに温度が戻った。「ただ、一人ではないと思うと、足が止まりません」
セレスティアはそれ以上何も言わなかった。
窓の外に月が出ていた。細い月。この月が満ちてまた欠けるまでに、父への手紙は届く。父は動く。カスパルの周囲に、見えない目が増えていく。
今夜は、それだけでいい。
「おやすみ、ナターシャ」
「おやすみなさいませ、お嬢様」
灯りが消えた。
暗闇の中、セレスティアはしばらく窓の外を見ていた。細い月。雲が流れるたびに隠れて、また出てくる。消えたわけではない。隠れているだけだ。
手紙は書ける。父は動く。それだけは確かだ。
布団の中に潜り込んだ。今夜は、眠れそうだった。




