毒の影、再び
異変に気づいたきっかけは、夕食に出たスープのわずかな苦味だった。
学園の大食堂で出されるスープは、日替わりで三種類。その日はかぼちゃのポタージュだった。温かく、甘い香りがする、子供たちに人気のメニュー。
セレスティアがスプーンを口に運んだ時、舌の奥で微かな違和感を覚えた。
苦い。ほんの僅かに。かぼちゃの甘みの裏に、金属的な苦味が混じっている。
他の生徒は気づいていない。フリーデリケは「おいしい!」と言って二杯目を頼んでいる。コンラートはパンと一緒に勢いよく飲んでいる。
セレスティアだけが気づいた。この苦味には覚えがある。母リリアーナの薬湯に混入されていた灰銀草の味に似ている。だが同じではない。もっと繊細で、もっと巧妙に隠されている。スプーンを置いた。
「セレスティアちゃん、食べないの?」
フリーデリケが心配そうに覗き込んだ。
「ちょっとおなかがいっぱいで。パンだけたべる」
嘘。パンには何も混じっていない。スープだけだ。
自分の皿だけが異なるのか。それとも全員のスープが同じなのか。確認が必要だ。
「フリーデリケちゃん、そのスープ、一口もらっていい?」
「いいよ!」
フリーデリケのスプーンを借り、彼女の皿のスープを味わった。苦味がない。純粋なかぼちゃの甘み。自分の皿だけだ。
喉の奥がひやりとした。それでも表情は変えず、笑顔を保った。
「やっぱりおなかいっぱいだった。ごちそうさま」
食堂を出た後、セレスティアは真っ直ぐナターシャの元に向かった。
◇
「これを。スープの残りです。こっそり器ごと持ち出しました」
ナターシャの部屋。セレスティアは小さな容器に移したスープを差し出した。
「分析できる?」
「専門の薬師ほどには。簡単な判定だけです」
ナターシャは机の引き出しから小さな木箱を取り出した。細い硝子棒、白布、判定用の小瓶。リリアーナが毒に倒れたあと、二度と異変を見落としたくないとローレンツに頼み込み、揃えた道具だった。
箱の底には手製の薬草目録も入っている。初めの頁は覚えたての不揃いな文字で、頁を繰るほど筆跡が整っていく。余白には、ローレンツが書き入れた訂正と注意書きが重なっていた。
「できる範囲でいい。まず、何が入っているか」
ナターシャは容器の蓋を開けたが、顔は近づけなかった。細い硝子棒で一滴だけすくい、白い布へ落とす。蝋燭の火から離して温めると、乾いた跡に青灰色の輪が残った。立ちのぼったのは、焦がした蜜に似た匂いだった。
「……これは」
ナターシャの顔が変わった。
「少なくとも、致死性の毒に見られる反応はありません。ただ、この色と匂いには覚えがあります」
「じゃあ、何」
「『月影草』の抽出液に見られる特徴と一致します。魔力抑制剤に使われる薬草で、少量なら身体への害は少ないものの、継続して摂れば魔力の発現を鈍らせます。ただし、今の判定だけでは断定できません。判定に使った布を封じて、ローレンツ先生に確認していただきます」
ナターシャは新しい白布にもスープを一滴吸わせ、蝋燭から離して十分に乾かした。布を紙で包み、封蝋を施す。採取した日時と料理名も紙片に記した。魔力抑制剤。
封を終えたナターシャは、別の小瓶を取り出した。
「お嬢様の皿だけでなく、鍋と配膳台からも採取します。他の生徒の料理に混じっていないかを確かめ、アネリーゼさんには体調を崩した生徒がいないか、それとなく見てもらいます」
月影草で間違いなければ、殺すためではない。セレスティアの聖魔力の覚醒を遅らせるための薬だ。
母への毒とは目的が違う。あちらは緩慢な毒殺。こちらは能力の封印。
「宰相派の可能性が高いですね」
「そう考えるのが自然ね。でも、どうやって私のスープだけに?」
「大食堂の配膳は厨房の使用人が行います。お嬢様の席は固定されていませんが……お嬢様の食器には公爵家の紋章が入っています。食器で特定できます」
公爵家の紋章入り食器。学園が各家から預かっている正式な食器。セレスティアの皿は銀縁に蒼い鷲の紋章が彫られている。厨房の人間なら、どの皿がセレスティアのものか容易に分かる。
「厨房に宰相派の人間がいるの?」
「調べます。すぐに」
「ナターシャ。でも無理をしないで。相手に気づかれたら危ない」
「承知しています。使用人のふりをして厨房に入り、顔ぶれを確認します」
ナターシャの目に覚悟があった。
◇
翌日から、セレスティアは食事を変えた。大食堂のスープは飲まない。代わりに、ナターシャが用意した保存食を鞄に忍ばせる。干した果物。堅パン。チーズ。侍女部屋で保管し、食事時にこっそり食べる。
大食堂では、他の料理を少量だけ取る。パンと焼いた肉。液体物は避ける。液体は薬を混ぜやすい。
不自然にならないように。「少食な令嬢」として振る舞う。
「セレスティアちゃん、最近あんまり食べないね。大丈夫?」
フリーデリケが心配した。
「うん。少しお腹の調子が悪くて。マルガレーテに聞いたら、成長期はそういうことがあるって」
嘘。だがフリーデリケは信じた。優しい子だから。
ヴィオレッタは何も言わなかった。だがセレスティアの食事量の変化に気づいているはずだ。報告するだろうか。
報告してもいい。「食が細くなった」という情報は、宰相派にとって「魔力抑制剤が効いている」という誤った確信を与える。好都合だ。
他の鍋と配膳台から採った試料には、月影草の反応は出なかった。混入はセレスティアの皿だけに行われている。
三日後。ナターシャが報告してきた。
「厨房の調理補助に、先月から新しい人間が入っています。ゲルトルートという女性。二十代後半。前職は……王宮の薬師補佐です」
王宮の薬師補佐。母への毒の偽装に利用された、王宮の薬務部門にいた人間だ。疑う理由にはなるが、その経歴だけで共犯とは決められない。
「宰相派とのつながりを疑うべきですね」
「最も疑わしいのはこの女です。三日間で二度、お嬢様の紋章入り食器だけを配膳前に手に取ったのを確認しました。ただし、混入する瞬間までは見ていません。断定せず、監視を続けます」
「げるとるーと、のぞけない?」
「排除すれば代わりが送り込まれます。それよりも……泳がせて、偽情報を与える方が得策です」
ナターシャの判断は正しい。スパイを排除すれば新たなスパイが来る。それなら既知のスパイを残し、行動を把握する方がいい。
「じゃあ……食べたふりをする。スープを飲んでるように見せて、実際には飲まない。ゲルトルートには『薬が効いている』とおもわせる」
「食器を下げる際に、スープが残っていれば不審に思われます」
「残さない。スープはナプキンに吸わせて、後で捨てる」
ナターシャは深く頷いた。
「お嬢様。このことは、公爵閣下にお伝えしますか」
「つぎの面会日に、ヴォルフ経由で。二重封蝋で」
「承知しました」
セレスティアは窓の外を見た。学園の塔に月が出ている。
◇
翌朝、セレスティアは早く目が覚めた。朝食の前に礼拝堂に寄った。アネリーゼが一人で床を拭いていた。
「セレスティア様、早いですね」
「うん。少し、考えごとがあって」
アネリーゼが布巾を持ったまま顔を上げた。何か言いたそうな顔をしたが、聞かなかった。そのまま掃除を続けた。
セレスティアは長椅子に腰を下ろした。ステンドグラスから朝の光が差し込み始めている。ゲルトルートは今日も厨房にいる。同じスープが出るだろう。同じようにナプキンに吸わせて、飲んだふりをする。
「アネリーゼさん。こわいとき、どうしてる?」
アネリーゼが少し手を止めた。
「……お祈りします。全部お任せするんじゃなくて、一緒にいてくださいと言う感じで」
「一緒にいてください」
「そうすると、少し楽になります。本当に助けてもらえるかは分からないけど、一人じゃなくなる気がして」
セレスティアは祭壇を見た。聖女マリエルのステンドグラスが、少しずつ明るくなっている。
月影草の疑いは父に報告する。次の面会日まで一週間ある。簡易判定では致死性の毒の反応はなく、アネリーゼからも今のところ体調を崩した生徒はいないと聞いている。ゲルトルートは監視下に置いた。ここで緊急便を使い、経路を晒す必要はない。それまではゲルトルートを泳がせる。対策は全て考えてある。厨房に宰相派の手が入ったかどうかも、ナターシャが調べ続ける。
やるべきことはある。動ける。もし狙いが能力の封印なら、宰相派は今のところ直接的な排除を選んでいない。断定はできないが、食事を避け、証拠を残し、監視を続ける時間はある。
「アネリーゼさんって、こわいことある?」
「……あります。大神官様に怒られる時とか」
「そういう、こわい?」
「怒られると、声が出なくなります。頭が真っ白になって。でも終わったら、お祈りします。そうするとまた動けます」
そういうものか、とセレスティアは思った。終わったら、お祈りする。恐怖の最中ではなく、その後に。
「まけないよ」
小さく呟いた。アネリーゼが顔を上げた。「え?」
「なんでもない」
アネリーゼはまた掃除に戻った。礼拝堂に朝の光が満ちた。




