アレクシスの孤独
アレクシスが変わり始めていた。
最初は些細な変化だった。笑顔が減った。発言が慎重になった。「僕はこう思う」ではなく「こうすべきだと教わった」という言い回しが増えた。
いつから気づいていたか。六ヶ月前か。一年前か。セレスティアは正確な時期を言えない。変化は突然ではなく、少しずつだったから。毎日見ているから、かえって気づきにくかった。ある朝、アレクシスの笑顔が「昨日より短くなった」と感じて、初めて変化が始まっていることを認識した。
王太子専属の家庭教師が、学園に定期的に訪れるようになっていた。通常の授業に加え、アレクシスだけの特別講義。「帝王学」という名目の、宰相が選んだ教育プログラム。週に三回。それが二ヶ月続いている。
その内容を、セレスティアは断片的に知っている。アレクシスが時折漏らす言葉の端々から。
「王は合理的であるべきだ、って先生が言うんだ」
昼休みの中庭。噴水の傍のベンチ。アレクシスとセレスティアが並んで座っている。コンラートは剣の練習に行き、フリーデリケは花壇にいる。二人きりの時間だった。
「ごうりてき?」
「感情で判断するな、って意味だよ。王が怒りや悲しみで政策を決めたら、国が傾く。だから常に冷静でいなければならない、って」
正しい。国王が感情に振り回されれば国は乱れる。
だが「感情を排除する」と「感情に振り回されない」は違う。宰相の教育は、前者を教えている。感情そのものを否定する教育。
「殿下。ごうりてきって、かんじょうをすてることじゃないとおもう」
「え?」
「おこったり、かなしんだりすることは、だめじゃない。それをどうつかうか、がだいじなんじゃないかな」
アレクシスは噴水の水面を見つめた。
「でも、先生は『慈悲は弱さだ』って言うんだ。弱い王は民を守れない、って」
慈悲は弱さだ。
宰相の言葉がアレクシスの口から出る度に、セレスティアの胸が締め付けられる。アレクシスの口が、宰相の言葉の形になっていく。声だけが違う。内容が、宰相の言葉になっていく。
「殿下。じひって、よわさかな」
「先生はそう言う」
「でも、殿下がまりょくぼうそうのときにフリーデリケちゃんの手をひいたのは、じひだったんじゃないですか?」
アレクシスの手が止まった。
「あのとき、殿下はこわかった。でもフリーデリケちゃんを助けた。それはじひでしょ。でも殿下はよわくなかった。つよかった」
「……」
「じひはよわさじゃないです。じひは——やさしさを、つよさにかえること」
アレクシスは長い間黙っていた。噴水の水が太陽を反射してきらきら光っている。噴水のすぐそばで、魔力暴走の時にアレクシスがフリーデリケの手を引いた場所がある。あの時のことを、アレクシスは覚えているはずだ。覚えていてほしかった。あの瞬間の自分を。本能で動いた、七歳の自分を。
「セレスティア」
「はい」
「君は、強いね」
「わたし?」
「うん。君は自分の言葉で話す。先生に教わったことじゃなくて、自分で考えたことを。僕にはそれが——難しくなってきた」
心臓が痛んだ。
アレクシスは気づいている。自分が「教わったこと」に依存し始めていることに。自分の言葉を失いつつあることに。
「でも強すぎる人は、周りを不安にさせるって、宰相閣下が——」
「殿下」
セレスティアはアレクシスの手を取った。小さな手と小さな手。
「つよさは、だれかをふあんにさせるためにあるんじゃないです。だれかを守るためにあるんです。殿下がつよくなったら、民をまもれます。それはふあんじゃなくて、あんしんです」
アレクシスの目が揺れた。青い瞳に、光が戻った。一瞬だけ。
「……ありがとう、セレスティア。君と話すと、少し楽になる」
「どうして楽になるんですか」
「分からない。でも——君の言葉は、先生の言葉と違う。先生の言葉は冷たくて、君の言葉は温かい」
「いつでもはなしてください。わたし、ここにいます」
アレクシスが微笑んだ。五歳の頃と同じ、嘘のない笑顔。
この笑顔が見たかった。これだけで十分だと思えるほど、この笑顔を見ない日が続いていた。
だがその笑顔は、以前より短くなっていた。すぐに消え、真面目な表情に戻った。
◇
「でもね。宰相閣下の教えが全部間違いだとは思わない。王は強くなければならない。それは本当だと思う」
「そうですね。でも、つよさにもいろいろあります」
「色々?」
「剣のつよさ。あたまのつよさ。こころのつよさ。殿下にはこころのつよさがあります。それが一番だいじだとおもいます」
「心の強さ……」
「わたし、こころのつよいひとが、せかいでいちばんつよいとおもう。なぜかというと、こころがつよければ、ほかのつよさもついてくるから」
アレクシスは立ち上がった。午後の授業の鐘が鳴っていた。
「行こう。遅刻する」
「はい」
二人で教室に向かう。廊下を歩きながら、アレクシスが呟いた。
「セレスティア。僕が変わっていっても、君はそばにいてくれる?」
「います。ぜったいに」
「約束?」
「やくそくです。なんどでも」
二人で廊下を歩いた。秋の光が窓から差し込んでいる。
「セレスティア。さっきの話、帰ってからも考えると思う。心の強さ、って」
「うん」
「先生に教えてもらった合理的な判断と、心の強さって……どっちが正しいのか、まだ分からない」
「どっちが正しいかより、どっちが殿下らしいかの方がだいじかもしれない」
「僕らしい?」
「うん。殿下はフリーデリケちゃんを助けた。理屈じゃなくて。それが殿下らしさだとおもう」
アレクシスは少し考えた顔で歩いた。
「……先生は『らしさは贅沢だ』って言う。王に個性は要らない、って」
セレスティアは少し黙った。宰相が選んだ教師がそれを教えている。
「閣下の言うことはだいたい正しいんだよ。ただ……聞いていると、どこかが疲れる」
疲れる。その一言が、全てだった。
この子を冷酷な王太子にさせない。前世のように、路傍の石を見る目をした男にさせない。
前世の最後に会った時のアレクシスは、セレスティアを見ていなかった。婚約者だったのに。同じ部屋にいたのに。目が合っても、視線の奥に何もなかった。
その目をこの子に持たせない。
「殿下」
「うん?」
「殿下はやさしいです。それをわすれないで」
アレクシスは答えなかった。だが——歩く速度を、少しだけセレスティアに合わせてくれた。
教室の扉の前で、アレクシスが一瞬だけ立ち止まった。
「セレスティア。また中庭で話せる?」
「いつでも」
「……うん。また」
扉を開けると、クラスメートのざわめきが漏れてきた。アレクシスの表情が、王太子の顔に戻った。すっと背筋が伸び、眉が少し上がる。教室に入ると、周囲の生徒が一斉に視線を向けた。
その背中を、セレスティアは一歩後ろから見た。廊下で見せた顔と、教室で見せる顔は違う。その隙間の中に、本当のアレクシスがいる。
消させない。
教室の中は賑やかだった。昼休みの余韻が残っている。アレクシスが席についた瞬間、周囲が少しだけ静かになった。王太子がいる、という緊張が走る。
セレスティアは自分の席に座った。窓側の三列目。ここから、アレクシスの横顔が見える。
授業が始まると、アレクシスは前を向いた。姿勢が良い。声が明瞭だ。教師の問いに、正確に答える。完璧な王太子の顔。
だが廊下でのあの一言を、セレスティアは覚えている。「聞いていると、どこかが疲れる」。
教室の扉をくぐった。




