闇の夜
夜が来ると、身体が緊張した。
ヴィオレッタは隣のベッドで、もう目を閉じている。寮の消灯時刻から三十分。廊下の足音が遠のき、学園が静まった。月明かりが窓から差し込んでいる。細い月だ。
セレスティアは天井を見つめていた。
疲れている。全身が重い。昼間の訓練の疲労が骨の奥まで染み込んでいる。眠れるはずだ。眠らなければならない。
だが目を閉じると——闇が来る。
今日も、それが分かっていた。
今日の訓練を頭の中で繰り返した。闇が腕を走り上がった時の感触。恐怖が闇を呼ぶ瞬間。錨を思い出して制御を取り戻した時の、安堵と疲労が混ざった感覚。
あれを、何度繰り返せばいい。何百回繰り返せば、恐怖が来ても揺らがなくなるのか。
ヨハン先生は言っていた。「時間と訓練。それ以外に方法はない」と。
分かっている。
三秒吸う。三秒止める。三秒吐く。呼吸を整えた。目を閉じた。
◇
瞼の裏に、黒い靄が広がった。
どこかの廊下。石造りの暗い通路。足元から闇が這い上がってくる。指先が震える。止めろ、と思う。止まらない。
闇が広がる。壁を這い、天井を覆い、四方から迫ってくる。
人の声がした。
「化け物——」
「あの子から離れろ」
「危険だ。近づくな」
声が重なる。知らない声と、知っている声が混じる。前世の顔と今世の顔が重なる。人影が後ずさりしていく。恐怖の目。昔も、今も、同じ目。
闇が手から滲み出す。止めたいのに止められない。恐怖が闇を呼ぶ。闇が増えると怖くなる。怖くなるとさらに闇が来る。
誰かが——いなくなっていく。
「たすけて」
声が出なかった。夢の中では声が出ない。口を動かしても、音にならない。
◇
目が覚めた。
心臓が速い。手が汗ばんでいる。シーツを握りしめていた。
部屋は暗い。隣でヴィオレッタが寝ている。規則正しい寝息。起こしていない。
ゆっくりと呼吸した。
セレスティアはそっとベッドを出た。足が床に触れる。冷たい石の床。その冷たさが現実を確認させた。
窓際に立った。中庭が見える。石畳。噴水。月明かりが青白く落ちている。
手を開いた。震えていない。光も闇も出ていない。ただの手だ。七歳の子供の手。
「……夢だった」
声にすると、境界が戻ってくる。夢と現実の。
窓枠に額をつけた。石が冷たい。その冷たさを少しの間感じていた。
訓練の翌夜は決まってこうだ。疲れているのに眠れない。眠ると闇が来る。闇から逃げると眠れない。その繰り返し。
何時間眠れたのだろう。一時間か。二時間か。分からない。
目の下が重い。マルガレーテに手紙を書いたら心配するだろう。だから書かない。「元気でやっています」と書く。嘘ではない。元気だ。ただ眠れない夜があるだけで。
枕元からラベンダーの袋を取った。アネリーゼが月に一度、詰め替えてくれる。
最初に渡された時、アネリーゼの声は普通だった。「眠れない夜に嗅いでください」と言って。でも目が——少しだけ違った。見透かすような目だった。七歳の治癒師見習いに、何を見られたのだろう。
鼻に当てた。
花の匂い。草の匂い。夏の庭の匂いに似ている。マルガレーテが公爵邸の花壇から摘んだ花の匂いに。
肩の力が少し抜けた。
オスヴァルトは言っていた。「聖魔力保有者が恐怖の夢を見るのは珍しくない。魔力が感情に共鳴するから、夢の中でも暴走しかける」と。聖女マリエルも幼少期に繰り返し見た、と。
では三百年前のエリーゼも。同じ夜を過ごしたのだろうか。民に討たれる前に。石の冷たさを感じながら、同じ夢を見ていたのだろうか。
分からない。エリーゼの記録には夜の話は残っていない。名前だけが残っている。記録に残らないことの方が多い。訓練の成果は数字になる。だが眠れなかった夜の数は、どこにも記録されない。
◇
ベッドに戻った。ラベンダーの袋を胸に当てたまま、目を閉じた。
錨を思い出す。
母の笑顔。父の手。フェリクスの眼鏡の奥の目。エドヴァルトの不器用な優しさ。マルガレーテの温かい手。
フリーデリケの笑い声。ヴィオレッタの寝息が、隣から聞こえる。
一人じゃない。
今夜は夢が来なかった。
眠りが来るまで、少し時間がかかった。
だが来た。
窓の外で、夜がゆっくりと動いていた。




