魔力制御訓練
オスヴァルトとの秘密訓練は、週を追うごとに激しさを増していた。
「今日は実戦を想定した制御訓練だ。光と闇の同時展開を、動きながら維持する」
研究室の中央が広く空けられていた。机や椅子は壁際に寄せられ、床に防護結界の紋章が描かれている。
「動きながら?」
「戦場では止まって魔力を制御する余裕はない。歩きながら、走りながら、あるいは攻撃を受けながらでも、聖魔力を安定させられなければ実戦では使えない」
オスヴァルトの訓練は理論偏重ではなかった。ヨハンが「呼吸と静止による基礎制御」を教えたのに対し、オスヴァルトは「状況変化への対応力」を叩き込む。
「まず歩け。部屋の中を。歩きながら右手に光、左手に闇を出せ」
セレスティアは歩き始めた。右手に光を灯す。白い光が手のひらに宿る。次に左手に闇。黒い靄が指先に纏わりつく。
歩く振動で集中が揺れる。光が明滅し、闇が膨張しかける。
「呼吸を止めるな。四秒吸って五秒吐く。足のリズムに合わせろ」
足のリズムと呼吸を同期させる。右足で吸い、左足で吐く。
安定した。光と闇が手のひらの上で共存している。
「いいぞ。次は走れ」
走る。七歳の足で。研究室の中を小走りに。
振動が大きくなった。集中が乱れる。光が揺れ、闇が暴れ出す。
「制御しろ。呼吸を——」
だめだ。走ると呼吸のリズムが崩れる。四秒の吸気が三秒になり、吐く息が短くなる。
光と闇のバランスが傾いた。闇が優勢になる。黒い靄が左手から腕全体に広がり始めた。
恐怖。
闇が暴走しかけた瞬間——十歳の暴走が脳裏をよぎった。光と闇が制御を離れ、周囲を破壊した。悲鳴。崩れる壁。自分を見る目——恐怖の目。
「危険だ」「あの子から離れろ」「化け物——」
心臓が凍りつく。手が震える。闇がさらに膨張する。恐怖が闇を餌にしている。
——消えろ。闇よ、消えろ。
心の中で叫んだ。闇を拒絶した。閉じ込めろ。沈めろ。お前は敵だ。
闇が——怯えたように、一瞬だけ縮んだ。それからさらに激しく暴れ出した。拒絶されたことで、居場所を失った力が、行き場をなくして膨張している。
「アルヴェイン!」
オスヴァルトの声が鞭のように空気を裂いた。
「錨を思い出せ! 恐怖に飲まれるな! 君の錨は何だ!」
錨。大切な人の顔。
母の笑顔。父の手。フェリクスの眼鏡の奥の目。エドヴァルトの不器用な優しさ。マルガレーテの温かい手。ヴォルフの揺るがない背中。
フリーデリケの笑い声。アレクシスのまっすぐな目。コンラートの「お前はいい奴だ」。
ヴィオレッタの涙。イザベラの揺れる瞳。アネリーゼの澄んだ灰色の目。
一人じゃない。一人じゃない。
闇が縮んだ。光が戻った。
バランスが回復する。両手の魔力が安定する。
セレスティアは足を止め、両手を閉じた。光と闇が消えた。
額から汗が滴っている。膝が震えている。息が荒い。
「……すみません」
「謝るな。今のは重要なデータだ」
オスヴァルトがペンを走らせている。記録魔だ。暴走寸前の状況すらデータとして記録する。
「感情が引き金になった。恐怖——何かを思い出したな」
「……はい」
「何を?」
セレスティアは迷った。前世の暴走を説明するわけにはいかない。
「……こわい夢を。まりょくがぼうそうして、みんながにげていく夢」
嘘ではない。夢ではなく記憶だが。
オスヴァルトは頷いた。
「聖魔力保有者が恐怖の夢を見るのは珍しくない。魔力が感情に共鳴するから、夢の中でも暴走しかける。聖女マリエルの記録にも、幼少期に『闇の夢』を繰り返し見たとある」
聖女マリエルも同じ苦しみを味わっていた。
「マリエルはどうやってこくふくしたんですか」
「記録によれば、信仰の力だ。神への絶対的な信頼が、恐怖を抑えたとされている。だが私は学者だから、別の解釈をする」
オスヴァルトが眼鏡を押し上げた。
「信仰ではなく、信頼だ。自分を超えた何かへの信頼。それが錨になった。神でなくてもいい。人でもいい。自分の信念でもいい。要は、恐怖より強い何かを心に持っているかどうかだ」
恐怖より強い何か。
セレスティアにとってそれは何だ。
家族を守りたいという意志か。前世の悲劇を繰り返さないという決意か。それとも——
「せんせい」
「なんだ」
「わたしの錨は、『もう一人じゃない』っていう気持ちだとおもいます」
オスヴァルトは黙ってペンを止めた。
七歳の少女の言葉を、学者は記録しなかった。
「……いい錨だ」
それだけ言って、訓練の続きに戻った。
◇
訓練後。
セレスティアは研究室の椅子に座り、水を飲んでいた。身体の芯が疲労している。魔力を使った後の消耗は、身体的な疲れとは質が違う。魂が磨り減るような感覚。
今夜も眠れないかもしれない。訓練の翌夜は決まってそうだ。瞼を閉じると闇が夢の中で暴れる。脳が今日の感覚を覚えている。起き上がれないほど疲れていても、眠れない夜がある。
「今日の成果をまとめる。光と闇の同時展開、静止状態で四十五秒。歩行状態で二十秒。走行状態で三秒。走行中に感情トリガーによる闇の暴走兆候。錨の想起により自力回復」
オスヴァルトが読み上げた。
「二年前は二秒だったんだよね。いまは四十五秒」
「静止状態ではな。だが実戦では走行状態が基本だ。三秒では話にならん」
厳しい。だが正しい。
「来週までの課題。走行状態での呼吸法の改良。足のリズムを四拍ではなく六拍にしろ。吸気三歩、保持一歩、呼気三歩、保持一歩。試してみろ」
六拍呼吸。走りながらの新しいリズム。
「はい」
「それと——」
オスヴァルトが珍しく言い淀んだ。
「今日の暴走兆候は、壁で止めたが、次に同じことが起きたら止められない可能性がある。君の魔力量は私の防御結界の限界を超えつつある」
「……せんせいでもとめられない?」
「現状の装備では。研究室の結界を強化する必要がある。だがそれには予算が要る。王宮に申請すれば目立つ。目立てば——」
宰相の目に留まる。
オスヴァルトが眼鏡を外し、目頭を押さえた。
「一つ、気になることがある。今日の暴走兆候の直前——光と闇の魔力波形が、ある種の周期的パターンを示していた。まるで共鳴しようとしているかのような」
「きょうめいの……パターン?」
「固有周波数、と言えばいいか。光と闇には、それぞれ固有の振動がある。二つの振動が同期した時——つまり周波数が一致した時、聖魔力は安定するのかもしれない。逆に、ずれた時に暴走する」
その目は遠くを見ていた。仮説を追う学者の目。
「まだ推測の段階だ。だがヨハンも、似たようなことを研究していた気がする」
ヨハン先生の研究。五歳の時に聞いた断片が、別の角度から照らされた。
だが今は理解が追いつかない。いつか——この仮説が形になる日が来るのだろうか。
「だから自分で止められるようになれ。他人に頼るな。最後の砦は、自分自身の心だ」
セレスティアは頷いた。
研究室を出た。廊下は暗くなり始めている。
「もうひとりじゃない」
小さく呟いた。今日の錨を、もう一度確認するように。
足が止まった。廊下の窓の外、夕暮れが赤い。空が燃えているみたいな色をしている。
今日、闇が暴れた。制御できなかった瞬間があった。恐怖が戻ってきた。それでも、錨があった。名前を思い浮かべた。顔を思い浮かべた。そうしたら、闇が縮んだ。
廊下の先に、寮の灯りが見えた。
あの灯りの下に、ヴィオレッタがいる。フリーデリケがいる。仲間がいる。
セレスティアは廊下を歩き始めた。




