ヴィオレッタの選択
ヴィオレッタの様子がおかしくなったのは、父親からの二度目の手紙が届いた翌日からだった。
セレスティアの私物を、探っている。
夜、ヴィオレッタが先に寝室に戻る日が増えた。セレスティアが戻ると、机の引き出しの位置が微妙にずれている。衣装棚の中の服の畳み方が変わっている。枕の位置が数センチ動いている。
普通なら気づかない程度の変化。だがセレスティアは毎晩、私物の位置を暗記してから部屋を出ている。
ヴィオレッタがスパイ行為を始めた。
宰相派の指示だろう。父親の侯爵を通じて、「同室のセレスティアの情報を集めろ」と命じられた。手紙の検閲と同時期に始まっている。連動した動きだ。
宰相派はヴィオレッタを道具として使っている。公爵令嬢の同室者という立場を利用するために、最初からそのつもりで同じ部屋に入れた可能性がある。入学前から計画されていた。ヴィオレッタは知っていたのか。知らされていなかったのか。どちらにしても、あの娘は最初から道具として動かされていた。
セレスティアは怒らなかった。
ヴィオレッタ自身の意志ではないことは明らかだ。あの夜、泣いていた少女が、好んでスパイになるはずがない。命じられたのだ。断れない立場で。
◇
だが対策は必要だ。
セレスティアは部屋に「見せてもいい情報」だけを残した。普通の教科書。無害な手紙の下書き。フリーデリケからの花の絵。ヴォルフがくれた兎の木彫り。
暗号帳も、ヨハンの著書も、ナターシャとの連絡メモも、全てナターシャの部屋に移してある。
ヴィオレッタが探して見つかるものは、七歳の令嬢の平凡な持ち物だけだ。
報告書に書ける内容は、「変わった様子はなく、普通の令嬢です」だけになる。
◇
ある日の放課後、セレスティアは意図的に「見せる」行動をとった。
部屋に戻ると、ヴィオレッタが既にいた。机に向かっている。手紙を書いている——ように見えるが、セレスティアが入った瞬間、さりげなく紙を裏返した。
父への報告書だろう。セレスティアの行動を記録している。
セレスティアは気づかない振りをした。
「ヴィオレッタさま、おかえり」
「……ただいま」
ぎこちない返事。罪悪感があるのだ。
セレスティアは自分の机に座り、フリーデリケへの手紙を書き始めた。わざと声に出しながら。
「えーと、フリーデリケちゃんへ。きょうはおにわのバラがさきました。あかいバラとしろいバラがあって——」
花の話。ヴィオレッタが聞いていることを承知の上で、無害な情報を流す。
「ヴィオレッタさま、バラのはなことばってしってる?」
「……赤いバラは『情熱』、白いバラは『純潔』よ」
「すごい。ヴィオレッタさまってほんとうにものしりだね」
「別に。常識よ」
ヴィオレッタの声から、とげが消えた。褒められると、つい反応してしまう。
セレスティアは手紙を書き終え、封をした。ヴィオレッタの目の前で。中身が見える状態で。
「あした、これ出してくるね」
ヴィオレッタは何も言わなかった。だが目が手紙を追っていた。内容を確認しようとしている。
これでいい。ヴィオレッタには「無害な手紙」を見せ続ける。本当の情報は別ルートで送る。ヴィオレッタが父に報告する内容は、全てセレスティアが意図的に見せたものだけになる。
◇
だが——セレスティアの心は痛んでいた。
ヴィオレッタを「泳がせて」いる。騙している。信頼関係を築こうとしながら、同時に情報操作の対象にしている。
それは正しいことなのか。
策として正しいことと、人として正しいことは、いつも同じではない。策として正しいことをしながら、人として痛みを感じる。その両方が同時にある。
前世では——一人だったから、この葛藤を知らなかった。
夜、消灯後。二人のベッドの間に暗闇が横たわる。
ヴィオレッタは今夜も黙っている。あの夜のように泣いてはいない。だが寝付けないのが分かる。呼吸が浅い。
「ヴィオレッタさま」
「……なに」
「つらいことがあったら、またはなしてね」
沈黙。
「なんで」
「なんでって?」
「なんで私に優しくするの。私があなたの——」
言いかけて、止まった。
「あなたの」の続きは何だ。「あなたの敵だから」か。「あなたのスパイだから」か。
ヴィオレッタは自分がスパイ行為をしていることに、罪悪感を持っている。それがこの言い淀みに表れている。
「ヴィオレッタさまがわたしのなんであっても、わたしはヴィオレッタさまとおはなしするのがすきだよ」
「……意味が分からない」
「わかんなくていいよ。わたしもよくわかんないから」
嘘だ。分かっている。だが全てを言語化すれば、ヴィオレッタは追い詰められる。
「おやすみなさい、ヴィオレッタさま」
「……おやすみ」
返事が返ってきた。消灯後の「おやすみ」。小さな、ほとんど聞こえないような声。
だが言葉は発せられた。
ヴィオレッタは葛藤している。義務と感情の間で。父の命令と、同室者への罪悪感の間で。
七歳の娘が、七歳の娘を監視している。どちらも選んでここにいるわけではないのに、この場所に立っている。
セレスティアはこの葛藤を利用するべきなのかもしれない。ヴィオレッタの罪悪感につけ込み、宰相派の情報を引き出す。政治的には正しい手だ。
だがセレスティアはそうしなかった。
この子を道具にしたくない。前世で宰相がしたように、ヴィオレッタを道具にして使い捨てることだけは、絶対にしたくない。
ヴィオレッタが自分の意志で選ぶ日を、待つ。
宰相の手先でいることを選ぶのか。それとも——別の道を選ぶのか。
その選択は、ヴィオレッタ自身がしなければならない。誰かに強いられるのではなく。
(ぜったい、まもるからね)
暗闇の中で、二つの寝息が静かに重なった。
スパイと、スパイに監視される者が、同じ部屋で眠っている。
セレスティアは暗闇の中でしばらく、ヴィオレッタの寝息を聞いていた。規則正しい、少し荒れた呼吸。寝付くのに時間がかかっているようだった。それでもいつのまにか深くなっていった。
セレスティアはそっと上体を起こし、窓の外を見た。カーテンの隙間から細い月明かりが差し込んでいる。中庭の木が、冬の近づきと共に葉を落としていた。
ヴィオレッタは、あしたも何かを探すだろう。机の引き出しを確かめる。衣装棚を見る。空の棚を見て、「何もない」と報告書に書く。それでいい。本当に大切なものは、もうここにはない。
(待つ。急がない。)
月明かりの中で、ヴィオレッタの顔が見えた。眠っている。緊張が抜けて、七歳の顔をしていた。起きている時とは違う、ただの子供の顔。
前世のヴィオレッタのことを思った。処刑の日、証言台に立ったあの子のことを。感情のない声で言葉を並べていた。あれも命じられたことだったのかもしれない。断れなかっただけかもしれない。その声を持つ少女が、今この暗闇の向こうで寝息を立てている。
今世のヴィオレッタは、まだ分かれ道の手前にいる。どちらに進むかは、まだ決まっていない。
セレスティアは待つ。脅しも誘導もしない。ただ、隣にいる。その一点だけを守って。
ヴィオレッタの寝息が、静かに部屋に満ちた。セレスティアはそっと横になり、目を閉じた。今夜は、眠れそうだった。外で風の音がした。枯れ葉が舞っているのかもしれない。




