アネリーゼとの出会い
学園の礼拝堂は、東棟の奥まった場所にあった。
白い石造りの小さな堂。尖塔の先に銀の星章。窓はステンドグラスで、午後の光が差し込むと床に色とりどりの模様が浮かぶ。
生徒たちは週に一度、礼拝の時間がある。だが実際に礼拝堂に足を運ぶ者は少ない。貴族の子弟にとって信仰は形式であり、放課後に礼拝堂に行くのは「変わり者」の証だった。
セレスティアが礼拝堂を訪れたのは、入学から三ヶ月目のことだった。
目的は信仰ではない。前世の記憶に残る、ひとりの神官を探すためだ。
前世では名前も顔も知らなかった。処刑される前夜、独房に聖水を持ってきてくれた唯一の神官見習い。ほかの神官が「罪人に神の恵みは不要」と言い放つ中、その少女だけが扉の向こうから「神は全ての者を愛します」と囁いた。覚えているのは、その声だけだった。
あの声を、忘れたことはない。礼拝堂の扉を開けると、薄暗い堂内にひとりの少女がいた。
祭壇の前で膝をつき、祈りを捧げている。簡素な灰色の法衣。短く切り揃えた金色の髪。小柄な背中。
祈りの姿勢が美しかった。形式的な美しさではない。本当に祈っている人間だけが持つ、静謐な真摯さ。
セレスティアは音を立てないように入り口に立ち、待った。やがて少女が顔を上げ、振り返った。
灰色の目。透き通るような、曇りのない目。頬はやや痩せていて、栄養が十分とは言えない顔色。だがその目だけは、澄んでいた。
セレスティアと目が合った瞬間、少女は慌てて立ち上がった。
「あ、あの……申し訳ございません。礼拝の時間はもう終わっておりまして……」
「ごめんね。おいのりのじゃましちゃった?」
「い、いえ! 私は見習いですので、いつお祈りしても構わないのですが……生徒の方がいらっしゃるとは思わなくて……」
「あなた、しんかんみならいさん?」
「はい。アネリーゼと申します。神殿から派遣されて、学園の礼拝堂の管理を……」
アネリーゼ。見つけた。
セレスティアは微笑んだ。前世の記憶にある声と、目の前の少女が重なった。
「アネリーゼさん。私、セレスティアっていうの」
「セレスティア……アルヴェイン家の?」
「うん」
アネリーゼの目が一瞬怯えた。
「あの、何かご用でしょうか。礼拝堂に不備がございましたら……」
「ううん。おいのりしにきただけ。でも……」
セレスティアはアネリーゼの手に目を止めた。右手が微かに光っている。光魔力の残滓だ。祈りの最中に魔力が漏れていたのだろう。
「アネリーゼさんの光、きれいだね」
アネリーゼが目を見開いた。
「私……見えるのですか?」
「うん。掌が、ほんの少しひかってた。優しい光」
アネリーゼは自分の手を見つめた。光はもう消えている。
「私は……魔力の制御が下手なのです。祈っていると、つい漏れてしまって。大神官様にも叱られます。『神官は魔力を見せびらかすものではない』と」
「先生にしかられるの?」
「大神官シルヴェストル様です。神殿の最高位の方で……私を引き取ってくださった恩人です。だから逆らえなくて」
アネリーゼはその大神官に引き取られた孤児。恩義で縛られている。
構図が見えた。シルヴェストルはアネリーゼの光魔力を把握している。だがそれを伸ばすのではなく、抑えさせている。「神官は魔力を見せびらかすな」という建前で。
本当の理由は別にあるだろう。アネリーゼの魔力が強すぎることが、神殿の政治的バランスを崩すことを恐れているのかもしれない。
セレスティアは祭壇の前の長椅子に座った。アネリーゼは立ったまま、おろおろとしている。
「すわって。いっしょにおはなししよう」
アネリーゼはおずおずと、セレスティアから少し間を空けて腰を下ろした。長椅子の木の感触がすり減っていた。毎日ここに座っているのだろう。
「で、でも、私は見習いですので、生徒の方とおしゃべりするのは……」
「だめなの?」
「規則では……特に禁止されてはいませんが……他の生徒の方は、私のような者に話しかけてくださらないので……」
「アネリーゼさん。私、ここ、好き。静かで、綺麗」
「ありがとうございます。私が毎日お掃除しているんです。ステンドグラスも、一枚ずつ拭いて……」
アネリーゼの声が少し明るくなった。自分の仕事を認められたことが嬉しいのだろう。
「あのまどのえ、何?」
「あれは聖女マリエルの物語です。左から順に、マリエルの誕生、魔力の覚醒、大疫病の治癒、そして……」
アネリーゼは礼拝堂のことを嬉しそうに語った。ステンドグラスの物語。祭壇の聖具の歴史。床石の模様の意味。一つ一つを丁寧に、愛おしそうに。
「このゆかのもよう、どんないみがあるの?」
「あ……この六角形は調和の紋章です。信仰が六つの徳から成ることを表していて……勇気、慈悲、知恵、忍耐、誠実、謙遜。全部揃って初めて、完全な信仰になるって」
「アネリーゼさん、それ、覚えてるの?」
「床を拭く時に、毎日見ていますから。自然と」
毎日。一人で。
「アネリーゼさん、物知りだね。たくさん知っている」
「いえ、私なんか……神殿の書庫で本を読むのが好きなだけで。他に何も取り柄がないものですから」
「そんなことないよ。光が綺麗なのも、取り柄だよ」
アネリーゼが目を伏せた。何か言おうとして、言葉が出てこないようだった。しばらく沈黙した。
アネリーゼの目に涙が滲んだ。急いで袖で拭った。
「あ、あの、すみません、急に……」
「ないてないよ。めにごみがはいっただけでしょ」
アネリーゼは小さく笑った。初めて見る笑顔。控えめだが、温かい笑顔。
「セレスティア様は……変わった方ですね」
「よくいわれる」
「でも……嬉しいです。こうしてお話しくださって」
セレスティアは立ち上がった。
「また来ていい? ここ、おいのりしたい」
「もちろんです! いつでもいらしてください。私はいつもここにおりますので」
「約束ね」
「はい。お約束です」
アネリーゼが深くお辞儀をした。その頬がほんのり赤くなっていた。誰かと約束を交わすのが久しぶりなのかもしれない。
礼拝堂を出ると、廊下の窓から夕日が差し込んでいた。
歩きながら、アネリーゼの声を思い出した。ステンドグラスを説明する時の声。一枚一枚を、まるで大切なものを扱うように語っていた。
名前も知らない誰かの声が、前世から記憶に残っていた。処刑の前夜に、扉の向こうから囁いた声。あの声が、こんなに近くにいた。
今は名前を知っている。アネリーゼ。八歳。礼拝堂の床石の模様を毎日拭いている少女。
この子の光を守りたいと思った。大神官に抑えられている光を、いつか解放してやりたい。それは計算ではなかった。
指定区画へ戻ると、ナターシャが扉の内側で待っていた。
「礼拝堂に行っていたんですね」
「うん。神官見習いの人がいた」
「アネリーゼさん、ですか。名前だけは聞いています」
「いい子だった。また行く」
ナターシャが少し目を細めた。何か言いかけて、言わなかった。
「……夕食が始まりますよ」
「うん」
ナターシャに手を取られ、指定区画の廊下を歩きながら、セレスティアはもう一度だけ礼拝堂の方角を振り返った。
廊下の床に、ステンドグラス越しの光がうっすらと色を作っていた。その色を、アネリーゼが毎日拭いている。それだけのことが、なぜか嬉しかった。




