第一王子の接近
それは昼休みの図書室で起きた。セレスティアは窓際の席で本を読んでいた。フェリクスから送られてきた歴史書。暗号帳ではない。普通の本だ。寮では秘密の書類を持たない。ページをめくる手が止まった。
気配。背後に誰かが立っている。振り返ると、灰緑色の目がこちらを見下ろしていた。
ルシアン・レグナシオン。第一王子。九歳。上級生。
入学後、直接言葉を交わすのは二度目だった。歴史の授業を廊下で聞かれ、助言を受けた日以来だ。
ルシアンは二年前より背が伸び、顔立ちが整ってきていた。母親譲りの灰緑色の目と、赤みがかった茶髪。美少年と呼べる容姿だが、目の奥に常に何かを試すような光がある。
「ねえ、アルヴェイン嬢」
二年前は「アルヴェインの娘」や「お前」と呼ばれ、先日は「アルヴェイン」だった。それが今日は「アルヴェイン嬢」に変わっている。敬語ではないが、呼び方が少しずつ改まっている。誰かに指導されたのだろう。
「ルシアン様。こんにちは」
「僕と友達にならない?」
唐突な申し出。だがセレスティアは驚かなかった。
この接触は予測していた。特別講義で上級生の誰も答えられない問いに答えてから、学園の中でセレスティアの名は目立ちすぎている。宰相派が接触を強めるのは必然だ。そしてルシアンは宰相派に取り込まれつつある存在だ。
「友達にならない?」の裏には、宰相の意図がある。
ルシアンの表情を観察した。にこやかだ。笑顔を作っている。だが二年前のルシアンとは質が違う。あの頃は不器用な強がりだった。今は、演技だ。誰かに「笑って近づけ」と教えられた演技。
九歳の少年が演技を覚えている。痛ましいことだ。
「友達……ルシアン様と、ですか?」
「そう。君は面白い子だって聞いたからさ。この前の特別講義、上級生でも答えられなかったのに答えてたんだろ? 僕も魔術には自信があるんだ。気が合うと思うな」
流暢だ。だが台本を読んでいるような話し方だ。
副宰相マティアスあたりが指導したのだろう。ルシアンにセレスティアとの接触を指示し、会話の進め方まで教えた。九歳の少年をそこまで操る宰相派の手口に、セレスティアは怒りを覚えた。
だがルシアン本人に罪はない。この子もまた、操られている側だ。
「ルシアン様と友達になれるのは、とても嬉しいです」
ルシアンの目が一瞬光った。成功した、と思ったのだろう。
「でも……」
セレスティアは言葉を選んだ。慎重に。
「私なんかでは、おうじさまの友達には、ぶんがすぎます」
断った。ルシアンの表情が変わった。笑顔が消え、不快そうな顔になった。台本にない展開だったのだろう。
「分が過ぎる? 公爵家の令嬢が何言ってるの。王子と公爵家は釣り合うでしょ」
「ルシアン様は上級生ですし、私はまだ一年生です。上級生の友達がいたら、ほかの一年生がうらやましがります」
ルシアンは唇を噛んだ。
「……また断られた」
「また」。その一語がセレスティアの耳に引っかかった。
ルシアンは他の生徒にも友達になろうと声をかけ、断られているのだ。王子という肩書きで近づけば、相手は構えるか媚びるかの二択になる。本当の友達は作れない。
「ルシアン様」
「何」
「おうまの、ノワール、お元気ですか」
ルシアンの目が見開かれた。馬の名前を覚えている。二年前、王宮の庭で聞いた名前を。
「……覚えてるの?」
「もちろんです。約束したでしょ。ノワールにあわせてくれるって」
「約束なんかして……」
言いかけて、止まった。二年前と同じ台詞を言いかけて、止めた。
「……元気だよ。ノワールは。背も伸びた」
声が変わっていた。台本の声ではない。九歳の少年の、素の声。
「よかった。ルシアン様がきちんと育てたからだね」
「……別に大したことじゃないけど。毎朝みてるから」
「毎朝?」
「馬の機嫌は、しっぽでわかるんだ。ぴんとしてたら機嫌がいい。だらんとしてたら何かが嫌なんだよ」
「それ、ルシアン様が気づいたの?」
「……厩番に教わった。でも気にして見てるのは、俺だけだと思う」
照れている。馬の話をする時だけ、この子は年相応の顔になる。
「ルシアン様。友達になるのは、もう少し待ってください。でも、馬のお話は、いつでも聞きたいです」
ルシアンは黙った。しばらく何かを考えている顔をして、それから背を向けた。
「……勝手にしろ」
拒む言葉だ。だがそれは、台本になかった台詞だった。
セレスティアはもう一度、窓の外を見た。昼休みの中庭に、生徒たちの声が聞こえる。
図書室の本を閉じた。内容が頭に入っていない。
同じテーブルの向かい側に、フリーデリケが座っていた。今気づいた。いつからいたのだろう。
「……ルシアン殿下と、お話しされていたんですね」
「うん」
「お断りしましたよね」
「うん」
フリーデリケは何も言わなかった。少しだけ考えるような顔をして、また自分の本に目を落とした。それだけだった。
「フリーデリケ。おうまって、好き?」
「……馬、ですか?」
「うん、馬」
「嫌いではないです。でも触ったことは」
「いつか、さわってみて。気持ちいいよ、毛が」
フリーデリケが少し首を傾けた。不思議そうな顔。
「……そうなんですね」
それ以上は続かなかった。でもそれでよかった。
◇
その夜、セレスティアはナターシャの部屋で報告を聞いた。
「ルシアン殿下の件ですが、副宰相マティアス様が先週、学園を訪問されています。ルシアン殿下と個別に面談した記録があります」
やはり。マティアスが背後にいた。
「ルシアン殿下の周辺に、宰相派の侍従が二名。一人はカスパルと同じ系統の監視役です」
ルシアンにもスパイがついている。アレクシスにカスパルがいるように。
「ナターシャ。ルシアン様には、近づかないで。でも、ルシアン様の周りの人は、見ていて」
「承知しました」
「……あと、ルシアン様の馬の名前、ノワールっていうんだけど、知っていた?」
ナターシャが少し目を丸くした。
「知りませんでした。珍しいお名前ですね」
「真っ黒な馬だって。だいぶ大きくなったみたい」
「……なぜ、そんなことを?」
「二年前に聞いたから」
ナターシャはまた目を丸くして、しばらく何かを考えた。それから、いつもの顔に戻った。
「お嬢様は、不思議な方ですね」
「なんで?」
「二年間、馬の名前を覚えていたんですね」
覚えていた。というよりも、その名前を聞いた時のルシアンの顔を、覚えていたのだ。あの照れた顔を。セレスティアは窓の外を見た。ルシアンを救えるか。
だが今のルシアンはまだ九歳だ。馬の名前を覚えてもらえたことで照れる少年。孤独で、傷ついていて、誰かに認めてほしいだけの子供。
友達にはなれない。今は。距離を保たなければ宰相派の監視を呼び込む。
だが完全に拒絶もしない。馬の話という糸だけは、つないでおく。細い糸。風が吹けば切れるかもしれない糸。
だがセレスティアは知っている。糸は、あるだけで意味がある。切れなければ、いつか橋になる。
翌日の朝、廊下でルシアンとすれ違った。向こうは気づいていた。でも何も言わなかった。セレスティアも何も言わなかった。
だがルシアンは、通り過ぎる時に少しだけ歩調を落とした。
気づかないふりをした。でも、ちゃんと気づいた。
馬の話。それだけでいい。今は、それだけで十分だった。




