オスヴァルトの特別授業
王宮魔術師長オスヴァルトが学園に来る日は、空気が変わる。
普段の魔術の授業はアイゼンベルクが担当するが、月に一度、オスヴァルト本人が特別講義を行う。王国最高の魔術師が初等部の子供たちに教えるのは異例のことで、学園側も相当な敬意を払っている。
特別講義の教室は、通常より広い階段教室が使われた。初等部の全学年が集まる。七歳から十四歳まで、入学年の異なる貴族子女が、すり鉢状の座席に並ぶ。オスヴァルトが教壇に立った。
白い長衣に銀縁の眼鏡をかけ、その奥から鋭い目が教室を見渡している。二年前に王宮教育課程で会った時と変わらない姿だが、セレスティアには、あの時より痩せて見えた。研究に没頭する学者の宿命だろうか。
「今日は魔力の共鳴現象について話す」
前置きも挨拶もなかった。いかにも、無駄を嫌う学者らしい始め方だった。
「魔力は単独で存在する時と、他の魔力と接触した時とで、異なる振る舞いをする。これを共鳴現象と呼ぶ。例えば……」
オスヴァルトが右手を掲げると、手のひらに水属性の青い光が灯った。続いて左手には火属性の赤い光を生み、二つの手をゆっくりと近づけていく。
青と赤が接触した瞬間、紫色の蒸気が立ち昇った。水が火に蒸発させられたのではない。二つの魔力が干渉し合い、第三の現象、蒸気という形で顕現したのだ。教室がどよめいた。
「これが共鳴だ。異なる属性の魔力が接触すると、単独では起こり得ない現象が生じる。属性の組み合わせによって結果は異なる。火と風なら烈風。水と地なら泥流。光と闇なら……」
オスヴァルトが一瞬だけ言葉を切った。
「……理論上は、極めて強力な反応が起きる。だが光と闇の共鳴は、現代の魔術では再現が困難とされている」
光と闇の共鳴とは、すなわち聖魔力のことだ。オスヴァルトの視線が、誰にも気づかれないほどの一瞬だけセレスティアへ向けられた。セレスティアは表情を動かさなかった。
「質問はあるか」
教室が静まった。内容が高度すぎて、ほとんどの生徒には質問すら浮かばない。初等部の子供に共鳴理論は難しい。
だがセレスティアの頭の中に、ヨハンの教えが蘇った。
聖魔力が共鳴する仕組みについて、オスヴァルトの見解を聞いてみたい。だが七歳児がそんな質問をすれば、あまりに不自然だ。黙っていようと決めた矢先、オスヴァルトの方から仕掛けてきた。
「では、一つ問おう。共鳴現象において、二つの属性の出力バランスが崩れた場合、何が起きるか。誰か分かる者はいるか」
教室は沈黙したまま、上級生すら答えられない。オスヴァルトの目が再びセレスティアを捉え、今度は明らかに挙手を促すように長く留まった。
罠だ。答えれば目立つ。だがオスヴァルトは、二年前からセレスティアの力を知っている。ここで不自然に黙れば、知識を隠していることまで見抜かれるだろう。
ならば、七歳の言葉で核心の手前まで答える。知識の出所は兄の蔵書にする。すでに秘密を知る相手から情報を引き出すための、限度を決めた応答だった。
周囲を見ても誰一人として手を挙げず、イザベラすら考え込んでいる。セレスティアは覚悟を決め、目立ちすぎないよう控えめに、それでも教師から見える高さまで手を挙げた。
「アルヴェイン嬢」
「あの……バランスが崩れたら、強い方が、弱い方を呑み込んで、爆発……みたいなことが起きますか?」
幼い言い回しに留め、「爆発みたいなこと」と答えた。学術用語は使わない。
それでも答えの本質は正確だった。オスヴァルトの目に、興味を惹かれた時特有の光が差した。
「正解だ。出力バランスが崩壊した場合、優勢な属性が劣勢な属性を飲み込み、制御不能な魔力暴走……いわゆる『崩壊共鳴』が発生する。これが魔力暴走事故の主因だ」
教室が再びどよめいた。七歳の少女が、上級生にも答えられない問いに正解した。
「アルヴェイン嬢、よく勉強しているな。誰に教わった?」
「お兄様が、魔力の本を読ませてくれました」
セレスティアは、用意しておいた説明を迷わず返した。
オスヴァルトは頷いた。だがその目は「それだけではないだろう」と語っていた。
講義が終わった。生徒たちが教室を出る中、オスヴァルトがセレスティアの席の前を通りかかった。すれ違いざまに、低い声で言った。
「放課後、研究室に来なさい。東棟の最上階だ」
それだけ言って、オスヴァルトは通り過ぎた。研究室への呼び出しに、セレスティアの胸が落ち着かなくなる。
これは好機か、罠か。
◇
放課後、セレスティアは東棟の最上階へ向かった。廊下の突き当たりにある扉には、「王宮魔術師団 学園分室」と記された銅板が掲げられている。
セレスティアは扉を叩いた。
「入れ」
研究室は散らかっており、紙と薬品とインクが混ざった、ヨハンの研究室と同じ匂いがした。本棚が壁一面を覆い、机の上には魔力測定器や水晶片が無造作に並んでいる。
オスヴァルトが椅子に座っていた。眼鏡を外し、目を擦っている。
「座れ」
セレスティアが椅子に腰を下ろすと、まだ足は床に届かなかった。
オスヴァルトが眼鏡をかけ直し、セレスティアをまっすぐに見た。
「単刀直入に言う。アイゼンベルクから報告が上がってきた」
報告の内容を予測し、胸の奥に緊張が走った。
「入学時の記録は『やや控えめ』。だが本人が但し書きを付けている。『この数値では、あの制御は説明がつかない』と。光属性だけであの絞り方は、理論的に成立しない。闇属性の魔力が光に混入した状態で測定されている。通常の測定器では検出できないが、波形分析をすれば分かる」
オスヴァルトは報告書を机に置いた。
「あの男は優秀だ。今は経過観察で止めている。だが止め続けはしない」
二年前の廊下で、オスヴァルトが「誰にも言わない」と約束した声を思い出した。
あれは、この男が一人で黙っていられる間の約束だった。部下の報告書は、一人では抱えられない。
「先生。あのときの、約束は」
「守る。だが黙っているだけでは、もう足りん」
オスヴァルトが椅子の背にもたれた。
「……先生は、つうほうしますか」
「通報?」
「おうこくほう、だい三十七じょう。聖魔力保有者はとどけでなければならない、って」
オスヴァルトの目が細くなった。だが驚きはしなかった。五歳で炉の干渉箇所を書いて寄越した子供だ。今更、条文の一つや二つでは驚かない。
「私は学者だ。法律家ではない」
「……」
「聖魔力を恐れるのは愚か者のすることだ。私はあの力を理解したい。五百年の歴史で三人しか確認されていない聖魔力を、この目で見て、この手で記録したい。それが学者としての私の望みだ。二年前、私は制御を磨けと言った」
「はい」
「二年経った。誰が磨いた」
「……フェリクスお兄様と、ヨハン先生です」
「基礎は良い。だが、私が続きを教えるには条件がある」
オスヴァルトが指を立てた。
「一つ、君の魔力を研究させてくれ。定期的に観測記録を取り、内容は非公開とする。二つ、代わりに私が制御法を教える。ヨハンの基礎理論は優れているが、応用面では私の方が上だ。あの男は理論家すぎる」
オスヴァルトがヨハンをよく知っているのも当然だった。二人はかつて同じ職場で研究していたのだ。
「三つ。この訓練のことは誰にも言うな。宰相にも、王にも、君の父にも」
「お父様にも?」
「公爵が知れば、公爵家の管理下に置かれる。管理は守ることでもあるが、同時に政治に晒すことでもある。訓練が形になるまでは、私と君の間で閉じておけ」
理屈は通っている。それでも、セレスティアの胸には小さな引っかかりが残った。オスヴァルトの真意は純粋な学術的関心だけなのか、それとも別の狙いがあるのか。
「先生。私のちからを、けんきゅうして、どうするんですか」
「論文を書く。いずれ。だが生きている間には発表しないかもしれない。聖魔力の研究は禁忌に近い。発表すれば私も危険に晒される」
「じゃあ、なんのために?」
「知りたいからだ。それ以外に理由が要るか」
その目にあるのは、ヨハンにも通じる純粋な知的好奇心だった。
オスヴァルトが思い出したように付け加えた。
「もう一つ。制御訓練については、私より適任がいるかもしれない。かつての同僚で……実戦魔術の制御においては、私よりも上を行く女がいた。今は宮廷を辞めているが」
名前は言わなかった。だがオスヴァルトの声に、珍しく敬意に似た響きがあった。
「いずれ必要になるかもしれない。覚えておけ」
今はその言葉の意味までは分からない。それでも信じてよい相手なのか確かめるように、セレスティアはオスヴァルトの目を見た。そこにあったのは計算でも好意でもなく、知りたいという学者の純粋な欲求だった。
「……わかりました。先生の条件、受けます」
「よし。来週から始める。週に一度、放課後にこの部屋に来い」
「はい」
「それと……」
オスヴァルトの声が少し柔らかくなった。
「焦るな。聖魔力の制御は一朝一夕にはいかない。だが君には才能がある。時間をかければ、必ずものになる」
「ありがとうございます、先生」
「礼はいい。記録をくれ。それが最大の礼だ」
いかにも学者らしい返答に、セレスティアは小さく笑った。
研究室を出た。廊下に西日が差し込んでいる。
セレスティアは階段を降りながら、右手を開いて見た。光と闇。両方がここにある。手を閉じた。
階段を一段ずつ降りた。足が短いので、一段が少し大きい。廊下の下から、生徒たちの話し声が聞こえてきた。もうすぐ夕食の時間だ。




