コンラートの正義
昼休みの廊下で、悲鳴が聞こえた。
「やめてください、返してください——」
高い声。子供の声。泣き声が混じっている。
セレスティアは音の方に足を向けた。東棟の奥、上級生の教室に近い廊下。普段、初等部の一年生は立ち入らない区画だ。
角を曲がると、光景が目に飛び込んできた。
三人の上級生——十歳前後の男子生徒が、一人の下級生を囲んでいた。下級生の手から教科書が奪われ、上級生の一人が頭上で振り回している。
いじめだ。
被害者は男爵家の息子だろうか。小柄で、服の質から見て高い身分ではない。下級貴族の子弟が上級生に目をつけられたらしい。
「こんな安っぽい教科書使ってるのかよ。お前の家、貧乏なの?」
「返して、お願いします……」
「『お願いします』だって。情けないなあ」
笑い声。残酷な笑い声。
セレスティアは介入すべきかどうかを一秒で判断した。
自分が出れば止められる。公爵家の令嬢が「やめなさい」と言えば、上級生も黙るだろう。だが「公爵家の威光で他家の子弟を叱った」という事実は、政治的な摩擦を生む。上級生の親が宰相派なら、攻撃の口実になる。
動くべきは自分ではない。
だが——動く者がいた。
「やめろ!」
廊下の向こうから、地鳴りのような声が響いた。
コンラート・ヴァイスハウプトが走ってきた。九歳。辺境伯の嫡男。赤い髪を逆立て、目を怒りで燃やしながら。
上級生が振り返った。
「なんだ、お前」
「弱い者をいじめるのは騎士じゃない! 恥を知れ!」
コンラートの声は大きく、まっすぐだった。
上級生の一人が嗤った。
「騎士? お前が騎士? まだ初等部のガキだろ」
「ガキだろうが騎士の息子だ! おい、そいつの教科書を返せ!」
コンラートが手を伸ばした。教科書を取り返そうとした。
上級生が腕を引いた。コンラートの手が空を切った。
「生意気な一年生だな。教えてやるよ、この学園の上下関係ってやつを」
上級生の拳が飛んだ。
コンラートの頬に当たった。
九歳の少年が、十歳の拳に吹き飛ばされた。壁に背中をぶつけ、石の床に倒れた。
唇が切れた。血が顎を伝う。
だがコンラートは立ち上がった。
膝が震えている。拳を固めている。目は逸らさない。
「もう一発殴ってもいいぞ。でも教科書は返せ」
セレスティアは息を呑んだ。
上級生が二発目を振り上げた瞬間、声がかかった。
「何をしている」
教師が来た。物音を聞きつけた魔術教官のレーヴェンシュタインだ。
上級生が拳を下ろした。教科書を床に投げ捨てた。
「なんでもありません。遊んでただけです」
「遊び? ヴァイスハウプト、顔から血が出ているぞ」
コンラートは血を袖で拭った。
「転んだだけです」
嘘だ。だがコンラートは上級生を告げ口しなかった。
レーヴェンシュタインは事情を察したが、証拠がない以上、対処は限られる。上級生三人に「廊下で騒ぐな」と注意し、コンラートを保健室に送った。
結果として、コンラートには「廊下での暴力行為」として減点処分が下された。殴られた側なのに。理不尽だが、学園のルールは「事実を報告しなかった者」にも罰を与える。
セレスティアは保健室に向かった。
◇
保健室のベッドに座ったコンラートは、唇の傷に布を当てていた。
「コンラートさま、だいじょうぶ?」
「ああ。こんなの、父上の稽古に比べたらかすり傷だ」
強がり。だが事実かもしれない。
アレクシスが駆け込んできた。
「コンラート! 聞いたぞ、上級生に——」
「なんでもない。殿下、騒がないでくれ」
「なんでもなくない! コンラートは正しいことをしたんだ!」
アレクシスの声に怒りがあった。友人が理不尽な目に遭ったことへの怒り。
「殿下。俺は減点された。正しいことをしても罰を受けるなら、正しくなかったってことだろ」
「違う」
アレクシスは断言した。
「正しいことをしても罰を受けることはある。でもそれは正しくなかったってことじゃない。罰が間違ってるんだ」
セレスティアは七歳の王太子を見つめた。
「コンラートさま」
セレスティアはコンラートの前にしゃがんだ。
「くちびるのきず、みせて」
「え? こんなの平気だ——」
「みせて」
コンラートが渋々と布を外した。唇の端が切れ、紫色に腫れている。
セレスティアは右手をコンラートの頬に近づけた。
光魔力を意識する。治癒の光。ヨハンに教わった応用技術。傷を塞ぐほどの力はないが、痛みを和らげ、腫れを引かせることはできる。
手のひらから、淡い白い光が漏れた。温かい光。傷口に触れないように、少し離した位置から。
「……あ」
コンラートが目を見開いた。
「痛くない。痛くなくなった」
腫れが少し引いている。出血も止まった。完全な治癒ではないが、応急処置としては十分だ。
「すごいな、セレスティア! 光魔力で治せるのか!」
「すこしだけだよ。ちゃんとなおすのは、ほけんの先生にやってもらって」
アレクシスが感嘆の目でセレスティアを見ていた。
「セレスティア、すごいね。光魔力で治癒ができるなんて」
「ほんのすこしだよ。たいしたことない」
たいしたことだ。光魔力で治癒ができる生徒は、初等部にはほとんどいない。また目立ってしまった。
だがコンラートの痛みを放置する方が、耐えられなかった。
「セレスティア」
コンラートが真剣な顔で言った。
「お前、いい奴だな。俺、お前のこと守るぞ」
「まもる?」
「ああ。俺は騎士の息子だ。いい奴を守るのが仕事だ。殿下も、お前も、あの泣いてた男爵の子も。弱い者いじめをする奴は、俺が全部殴る」
「コンラートさま、ぜんぶなぐるのはだめだよ」
「なんでだ?」
「なぐると、ばつをうけるから。でも——」
セレスティアは微笑んだ。
「まもるきもちは、すごくかっこいい」
コンラートの耳が赤くなった。
アレクシスが笑った。
三人の子供が保健室のベッドの前にいる。殴られた騎士の息子。怒る王太子。傷を癒す公爵令嬢。
「俺、将来アレクシス殿下の剣になるんだ」とコンラートが言った。「大げさだよ」とアレクシスが笑った。「でも本当にそう思ってるだろ」「……うん、本当に」
また笑い声が出た。保健室で三人で笑った。
「あの、教科書を取られてた子は?」とセレスティアが聞いた。
「俺が後で謝っとく。名前、知ってるから」とコンラートが言った。「謝る必要ないだろ。あいつは何もしてないんだから」「殴られた俺が謝るのは変だけど、怖い思いをさせたのは事実だろ。顔見せてやりたい」
アレクシスが頷いた。「そうだな。コンラートがそう言うなら、そうした方がいいな」
コンラートの頬はまだ腫れていたが、目が明るかった。
セレスティアは保健室を出ながら、今日は計算の外にある一日だったと思った。計算の外のことは、ただそれだけでよかった。
廊下を歩きながら、昼食の時間が半分以上過ぎたことに気づいた。
食堂に向かう途中、ちょうど教科書を取り返してもらった男爵家の子とすれ違った。
「さっきは……ありがとうございました。ヴァイスハウプト様に、お礼を言っていただけますか」
「わたしからも伝える。でも、直接言えるといいね」
「……はい」
その子が小さく頷いて歩いていった。コンラートが「謝りに行く」と言っていた。もしかすると廊下でばったり会うかもしれない。
そうなれば、それはそれでよかった。




