閑話 音楽室の鍵 ヴィオレッタ視点
寮の廊下は、夜になると全く別の場所になる。
昼間は生徒が歩き、話し、笑い、ときには喧嘩もする賑やかな場所だ。けれど消灯後は、石の床に月明かりが差すだけで、磨き込まれた木の扉の前にも人影はない。私はその廊下を、靴下のまま歩いた。
足音を立てず、息まで殺すように進む。消灯後に廊下へ出れば罰を受ける。それは知っている。でも、今夜だけは。
今夜だけは、どうしても行かなければならなかった。
◇
今日は命日だった。三年前のこの日、お母様が亡くなった。
朝から分かっていた。それでも、何もできなかった。授業を受け、食事をし、セレスティアとベッドの間で短い言葉を交わした。顔に何も出さないよう、すべてをいつも通りに済ませた。
でも夜になったら、どうしても、行かなければならなかった。
◇
音楽室の鍵は、入学した最初の週に複製した。掃除当番で入った時に蝋で型を取り、学園へ修繕に来ていた鍛冶師の息子へ、小箱の鍵だと偽って頼んだ。代金には、お小遣いの半分を使った。明確な規則違反だ。
それでも必要だった。命日が来ることは、入学する前から分かっていた。その夜に一人でいられる場所が学園の中に要る。そう考えて、入学後すぐに探した。音楽室しかなかった。
◇
音楽室は三階の端にある。扉の錠には、一昨日、昼の移動時間に油を差しておいた。鍵は音もなく回った。我ながら計画的だと思いながら中へ入り、静かに扉を閉める。
室内は暗く、窓から月明かりがわずかに入り込んでいた。部屋の中央に、ピアノがある。
黒いグランドピアノだった。月に照らされた鍵盤の前へ行き、椅子に腰を下ろした。
◇
お母様はピアノが好きだった。侯爵家の広い客間に、同じ黒いグランドピアノがあった。お母様は毎日弾いていた。朝食の後と、夕食の前。それが習慣だった。
私はいつも、お母様の膝に乗せてもらって聞いていた。白と黒の鍵盤がお母様の指先で旋律に変わっていくのを、魔法みたいだと思いながら眺めていた。
「ヴィオレッタ、弾きたい?」とお母様がよく聞いた。
「弾きたい」と言うと、膝の上で手を導いてくれた。右手の人差し指一本で、単音だけ。それでも音楽になった。
三年前、お母様が亡くなった。お父様が翌月、客間のピアノを売った。
「場所を取るだけだ。必要ない」
当時五歳の私は、何も言えなかった。お父様に意見できる年齢でも、立場でもなかった。それ以来、ピアノの前に座ったことはない。
お父様はその翌月から、私を宰相閣下の周りに集まる大人たちの部屋へ連れていくようになった。私はモンテヴェルデ家の娘として、父の仕事を手伝うことになった。礼儀を学び、挨拶を覚え、誰に何を話せばいいかを教わった。
お母様がいた頃の生活とは、全く別の生活だった。泣く時間はなかった。泣く場所もなかった。
◇
鍵盤に触れた。音は出さない。そっと、押すだけ。
指が鍵盤の冷たさを覚えている。三年間触れていなかったのに。
この感触を覚えていた。黒い鍵盤は少し高く、白い鍵盤は広くて平ら。お母様の膝の上から触っていた時の感触と同じだ。
「……お母様」
声が、誰もいない音楽室の月明かりへこぼれた。
「音楽室に入れたよ」
答えはない。
当然だ。お母様はもういない。三年前に死んだ。最後に私の手を握って、「ヴィオレッタ、強くなりなさい」と言って。それから、棺の中で眠っていた。
強くなった。ちゃんと。お父様の前でも、人前でも、一度も泣かなかった。強い侯爵家の娘でいた。
だから、ここで泣いていい。今夜だけ。誰もいない音楽室で。
◇
指が鍵盤をなぞった。音を出さずに。ただ形を辿るように。
お母様がよく弾いていた曲。シンプルなメロディー。子守唄みたいな曲。「これはね、私が子供の頃に祖母に教わったの」と言っていた。「いつかあなたにも教えてあげる」とも言っていた。
けれど、教えてもらう日は来なかった。三年前に、お母様がいなくなったから。それでも指は、忘れていたはずの形を覚えていた。
ほんの少しだけ鍵盤を押すと、静かな夜の音楽室に一音だけ響いた。私は慌てて指を離した。
廊下に人が来る気配はない。安堵したのに、たった一音で心臓はまだ激しく打っていた。
「ごめんなさい、お母様」
何を謝っているのか、自分でも分からない。ピアノを弾かなかったことか。三年間泣かなかったことか。それとも、お父様の言いなりになっていることか。
今もまだ、お父様の判断に従っている。この学園へ来たことも、その前から大人たちの集まりに顔を出していたことも、情報を集めてきたことも、すべてお父様に言われたからだ。
それでも、私はここにいる。音楽室の鍵を作り、命日にお母様へ会いに来た。それだけは、私自身で決めたことだった。
◇
一時間ほど、音を出さずにピアノの前へ座っていた。やがて鍵盤を照らす月明かりの位置が変わり、過ぎた時間を教えた。
もう帰る時間だ。立ち上がる前に、もう一度だけ鍵盤の上で手を広げた。音は出さず、お母様の手の形に自分の指を重ねる。それから、そっと離した。
鍵をかけて廊下へ出ると、来た時より空気が冷たかった。夜が深くなり、靴下越しに石の床の冷たさが伝わってくる。私は急いで部屋へ戻った。
◇
扉を静かに開けた。セレスティアは眠っているはずだった。
でも、何かが違った。寝息が、少し、規則的すぎる。
あの子は起きている。私が出て行ったことに気づいていて、戻るのを待っていた。そして、気づかないふりをしている。
「……眠れてないでしょ」
少し間を置いて、暗闇から返事があった。
「うん。ごめんね、きがついてた」
「謝らないで」
「どこへ行ってたの?」
「……聞かないで」
「うん」
それだけで、あの子は引き下がった。だから今度は、こちらから確かめたくなった。
「怒らないの」
「おこらない」
「規則違反よ」
「しってる」
「……変な子」
「よくいわれる」
私は壁の方へ寝返りを打った。追及はしないという言葉を、まだ素直に受け取れなかった。
「さむかった」
気づけば、口にしていた。誰にも何も言うつもりはなかったのに、なぜかそれだけは声になった。
「おふとん、ちゃんとかけて」
セレスティアの声が暗闇から返ってきた。眠そうな声を装っている。嘘が下手だ。ずっと起きていたくせに。
「言われなくても分かる」
「うん」
毛布をかぶると、冷えた身体が少しずつ温まっていった。
◇
セレスティアが眠った後、私は天井を見ていた。
最初に一度、どこへ行ったのかと聞かれた。けれど私が「聞かないで」と言うと、それ以上は何も尋ねなかった。
あの子は何でも知りたがる。情報を集め、分からないことをそのままにはしない。だから拒んでも食い下がってくると思ったのに、あっさりと「うん」と答えた。
その後に言ったのは、「おふとん、ちゃんとかけて」だけだった。
……変な子だ。でも、あの子の隣なら、秘密を持っていてもいいと思えた。
ここには秘密を持ち込んでもいい。音楽室のことも、お母様のことも、泣きたい夜のことも。あの子は一度拒めば、それ以上は踏み込まず、それでも隣にいる。
それで、十分だった。
今まで、「十分」と思えたことが少ない。成績が十分か。魔力が十分か。情報が十分か。お父様はいつも「足りない」と言う。
けれど今夜のセレスティアは、私が答えたくないと知ると、何も解決しようとせず、布団のことだけを言った。ただそこにいた。いや、私を待っていた。
一時間か、二時間か、寝たふりをして私が戻るまで待ち、無事を確かめてから布団のことだけを言った。
追おうと思えば、追えたはずだ。あの子なら、数日もあれば私の行き先を突き止める。それでも追わずに待っていた。その距離が、私にはちょうどよかった。
こういうものを何と呼ぶのか、私は知らない。比べられる相手が、一人しかいない。
お母様も、あんなふうだったかもしれない。ピアノを弾きながら、何も問わず、ただ私の隣にいてくれた。
来年の命日も、来るかもしれない。同じ場所に。
音楽室で泣けたのかどうかは、自分でもよく分からない。けれど毛布に入った後、涙が少しだけ頬を伝った。セレスティアには気づかれなかったはずだ。今度こそ、本当に眠っていたから。
いつかピアノを、きちんと弾きたい。今度は音を出して、お母様の曲を最後まで。その日まで、この鍵は持っていよう。




