ヴィオレッタの涙
深夜、セレスティアは物音で目を覚ました。かすかな音。布の擦れる音。そして、喉の奥を押し殺すような、小さな嗚咽。ヴィオレッタが泣いていた。
向かいのベッドで、毛布を頭まで被り、身体を丸くして。声を殺して。
セレスティアは目を閉じたまま、耳を澄ませた。
泣いている。八歳の少女が。暗闇の中で。一人で。
薄く目を開けた。月明かりが窓から差し込んでいる。その光の中に、ヴィオレッタの手だけが毛布の外に出ていた。握りしめているのは紙だ。折り目のついた便箋。手紙だろう。
誰からの手紙かまでは見えない。ただ、泣き方が耳に残った。怒りと悲しみと、それでも逆らえない無力感が混じったような、息を殺した泣き方。家から届いた手紙かもしれない、とセレスティアは思った。思い当たっただけで、確かめる術はなかった。
声をかけるべきか。
タイミングが重要だ。今すぐ声をかければ、ヴィオレッタは「泣いているところを見られた」と恥じる。プライドの高い子だ。弱みを見せたくない。
セレスティアは寝返りを打つ振りをした。わざと布団を動かし、音を立てた。ヴィオレッタの嗚咽がぴたりと止まった。沈黙。
セレスティアは「今起きた」という演技をした。眠そうな声で。
「……ヴィオレッタ様?」
沈黙。
「ヴィオレッタ様、おきてる?」
「……寝てるわよ」
泣いた直後の声。かすれている。鼻声。寝ている人間の声ではない。
セレスティアは寝台から足を降ろした。裸足で冷たい床を踏む。
「ヴィオレッタ様、おみず、のむ?」
「要らないわ。寝なさいよ」
「私も喉が渇いたから、一緒にどうかなと思って」
机の上の水差しから二つのコップに水を注ぎ、一つをヴィオレッタのベッドの脇に置いた。
暗がりの中で、ヴィオレッタの顔が見えた。目が赤い。頬に涙の跡。手紙をまだ握っている。
セレスティアは自分のベッドに戻り、水を飲んだ。
しばらくして、ヴィオレッタも水を取った。小さな音が立った。沈黙が続いた。
セレスティアは何も聞かなかった。「どうしたの」とも「大丈夫」とも言わなかった。聞けば壁が高くなる。ただ水を置いた。それだけだ。
三分ほど経った。
「……お父様から手紙が来たの」
ヴィオレッタが自分から話し始めた。セレスティアは黙って聞いた。
「成績で一位を取れって。入学して二週間しか経ってないのに、もう成績の話。魔力判定でも、水属性で魔力量が高いって書いたのに、返事は『それでイザベラに勝てるのか』だけ」
声が震えている。怒りと悲しみ。
「お父様は私を見ていないの。成績しか見ていない。魔力量しか見ていない。私が何を感じているかなんて、一度も聞かれたことがない」
ヴィオレッタは夜着の裾を握り、声をさらに落とした。
「お父様は宰相閣下に借金があるの。知ってるでしょ。モンテヴェルデ家は宰相家に逆らえない。だから私も……」
言いかけて、口を噤んだ。言いすぎたと思ったのだろう。
「……なんで私、あなたにこんなこと話してるんだろう」
「分からない。でも、話したかったんじゃない?」
「話したかった? あなたなんかに?」
「うん。私なんかに」
ヴィオレッタは鼻で笑った。だが声に棘がなかった。
「変な子。公爵家の令嬢が侯爵家の私の愚痴を聞くなんて」
「愚痴じゃないよ。辛いことを、辛いと言うのは、愚痴じゃない」
沈黙。セレスティアは枕の下からハンカチを出した。マルガレーテが持たせてくれたもの。レースの白いハンカチ。前にアレクシスに贈ったのと同じ種類。
暗闇の中で、ヴィオレッタのベッドに向かって手を伸ばした。
「泣いていいよ。誰にも言わないから」
ヴィオレッタの手が震えた。ハンカチに触れるかどうか、迷っている。
「……私は泣いてなんかいないわ」
「うん。泣かなくてもいいよ。でも、もし泣いてしまったら、これで拭いて」
長い沈黙。ヴィオレッタの手がハンカチを取った。
指先が触れた。冷たい指。八歳の少女の、痩せた指。しばらくして、布の擦れる音がした。ハンカチで目を拭いている。
声は、もう殺しきれていなかった。小さくしゃくり上げる音が、途切れ途切れに続いた。セレスティアは自分のベッドから動かず、暗い天井を見つめていた。
肩が震えている。ヴィオレッタの肩が。手紙一枚で、八歳の少女がこんなに泣いている。父親はそれを知らない。知っていても、知らないふりをするかもしれない。
水を飲む音がした。ヴィオレッタが水を飲んでいる。
よかった、とセレスティアは思った。水を飲んでいる。普通のことだが、今夜は普通のことがよかった。
宰相に借金がある、と言いかけた。父が娘を道具として使っている構造は、モンテヴェルデ家を縛る借金が背景にある。それがヴィオレッタを縛り、イザベラへの対抗を強いている。
知っていた。でも口には出さなかった。ヴィオレッタが話したいだけ話せるように、黙っていた。
「セレスティア」
「何?」
「……ありがとうとは言わないから」
「いわなくていいよ」
「でも……ハンカチは返すわ。洗って」
「うん」
セレスティアは微笑んだ。暗闇の中で。誰にも見えない笑み。
やがて、ヴィオレッタの呼吸が穏やかになった。眠りに落ちたらしい。セレスティアも目を閉じた。
明日、ヴィオレッタはまた壁を作るだろう。昨夜のことを「なかったこと」にしようとするだろう。それでいい。壁の向こうに、今夜ハンカチを受け取った手がある。
◇
翌朝、目が覚めた時、ヴィオレッタはすでに起きていた。
鏡の前で髪を整えている。いつも通りの姿。昨夜のことなど、なかったかのように。
ハンカチは、どこにも見当たらなかった。洗って返す、と言っていた。急がなくていい、とセレスティアは思った。
セレスティアは何も言わなかった。ヴィオレッタも言わなかった。
「おはよう、ヴィオレッタ様」
「……おはよう」
返事が来た。それだけでいい。食堂に向かう廊下で、ヴィオレッタがふと口を開いた。
「昨日の授業のエステルの事件……父から昔聞いたことがある。処刑の後、記録に残っていない話があるって」
「どんな?」
「エステルのそばにいた者が、事件の夜に証言しようとしたって。その証言は残っていない。消したのは王宮だって父が言ってた」
「本当かどうかわからないね」
「分からない。でも父が言ってた」
ヴィオレッタが先に歩き出した。情報を置いて、去った。
昨夜のお礼だろうか、とセレスティアは思った。思っただけで、口にはしなかった。
「ありがとう、ヴィオレッタ様」
「なんで礼を言うの」
「おしえてくれたから」
ヴィオレッタが短く鼻で笑った。「変な子」と言って、また歩き出した。でも歩く速度が、少しだけ遅くなった。
二人並んで食堂に向かった。
◇
食堂で、フリーデリケが手を振った。
「おはよう! 二人一緒なんだ」
「廊下でいっしょだった」
フリーデリケが嬉しそうにした。アレクシスが席に着き、コンラートが昨日の剣の練習の話を始めた。朝食がいつも通りに始まった。
ヴィオレッタは少し離れた席に座った。でも今朝の「おはよう」は、昨日より少し早かった。
それを確認してから、セレスティアはパンを手に取った。
ナターシャに夜の出来事を話すかどうか、少し迷った。
ヴィオレッタは、宰相への借金を口にした。情報としての値打ちはある。けれど、モンテヴェルデ家が宰相家に頭の上がらない事情なら、もう知っている。知っていることを確かめるために、「誰にも言わない」と言った夜の言葉を差し出す必要はなかった。
あの約束が守るのは、泣いたという事実だけではない。暗闇の中で声を落として打ち明けた話も、ヴィオレッタはきっと一緒に預けたつもりでいる。
話さないことにした。
夕食の後、使用人区画へ下りると、ナターシャはいつものように今日の記録を受け取り、帳面に書き留めた。昨夜のことは、一行も増えなかった。
「お嬢様は、よく眠れましたか」
「……まあまあ」
「そうですか」
ナターシャはそれ以上聞かなかった。




