学園の力学
入学から一週間で、学園内の勢力図が見えてきた。
だから観察した。一週間、徹底的に。
昼食時の大食堂。誰がどの席に座るか。それだけで力関係が分かる。
中央のテーブル、最も日当たりの良い席にイザベラが座っている。その周りに集まるのは、財務卿カール・ヴェンデルの息子カール・ジュニア、法務官の娘マリアンヌ、軍務卿の次男ハインツ。全員が宰相派の家の子弟だ。
イザベラは食事中も背筋を伸ばし、会話は最小限、だが一言一言が的確で、周囲の子供たちを自然に統率している。九歳にして既に社交の中心。宰相の教育の成果だ。
対極に位置するのがアレクシスの席だ。窓際のテーブル。コンラートが隣に座り、騎士系貴族の子弟が数人。ヴァイスハウプト家、エッシェンバッハ家の関係者。王太子派と呼ぶべき集団。
だがアレクシスの「派閥」は、イザベラのそれと比べて弱い。
中立派はテーブルの端の方に散らばっている。ヴィオレッタはここだ。侯爵家の令嬢として一定の存在感はあるが、どちらの派閥にも完全には与していない。父の指示で宰相派に寄るべきなのは分かっているが、ヴィオレッタ自身の性格がそれを良しとしない。
プライドが高いのだ。誰かの下につくことを嫌う。イザベラの下にも。
そしてセレスティア自身は、どの席にも固定していなかった。
月曜日はフリーデリケの隣。火曜日はアレクシスの近く。水曜日は中立派のテーブルの端。木曜日はまたフリーデリケ。金曜日はヴィオレッタの隣。
意図的に位置を変える。全方位との接点を維持する。どの派閥にも属さず、どの派閥とも友好関係を持つ。
◇
ただ、フリーデリケだけは計算なしに動いていた。
どの席にも自然に座り、声をかけ、笑い、去っていく。宰相派の隣にも、王太子派の隣にも。本人は派閥のことを考えていない。
コンラートがある昼食後、少し笑っていた。フリーデリケが昨日の授業についてふざけた話をしたからだ。コンラートが笑うのは珍しい。肩の力が抜けていた。
フリーデリケの影響力は、帳面に書き写せない。数字に変換できない。でも確かにある。
「蝶々みたいね。あちこちの花を渡り歩く」
イザベラがある日の昼食後、廊下でセレスティアに言った。
「ちょうちょ?」
「誰とでも仲良くする。どこにでもいる。でもどこにも留まらない。器用ね」
褒めているのか皮肉なのか。おそらく両方だ。
「わたし、みんなとなかよくしたいだけだよ」
「みんなと仲良く、なんて無理よ。この学園には味方と敵しかいないわ」
イザベラの声が低くなった。周囲に人がいないことを確認した上での発言。
「あなたは賢いから分かるでしょう。中立でいられる時間は限られている。いずれ選ばなければならないわ」
あるいは――忠告しているのかもしれない。中立は長くは保てない、という事実を。
「イザベラさまは、どっちにえらんだの?」
イザベラの目が一瞬だけ揺れた。あの図書室と同じ揺れ。
「私は選んでいないわ。選ばれたの」
低い声で言い、踵を返した。
選ばれた。選んだのではなく。自分の意志ではなく。
◇
授業が始まると、力関係はより鮮明になった。
座席の配置。発言の順番。教師の態度。全てに派閥の影響がある。
歴史の教師グスタフは宰相派だ。授業中、宰相の施策を好意的に語り、王家の弱体化には触れない。
礼法の教師は中立寄り。前任のアンネリーゼとは別の人だが、公平を心がけている。
魔術の教師は王宮魔術師団からの派遣。オスヴァルトの部下。学術的で政治色が薄い。
教師陣の中にも派閥がある。生徒の中にも。
セレスティアはその全てを見ていた。
ノートに記録する。暗号で。夜、ナターシャの部屋で清書する。
誰が誰と親しいか。誰が誰を避けているか。教師の発言の偏り。食堂での席の変化。廊下での会話の断片。
◇
ある日の放課後、セレスティアは中庭のベンチに座って本を読んでいた。フェリクスに貰ったヨハンの著書。
アレクシスが隣に座った。
「セレスティア」
「殿下」
「ねえ、聞いてもいい?」
「なに?」
「君は、なんでみんなと仲良くするの?」
素朴な質問。だが核心を突いている。
「みんなのことがすきだから」
「でも、イザベラとも話すし、コンラートとも話すし。あの二人、仲悪いのに」
「仲がわるくても、わたしにはどっちもだいじなひとだよ」
アレクシスは考え込んだ。
「宰相閣下は言うんだ。『人を選びなさい。全員と仲良くするのは不可能だ。味方を選び、敵を排除しろ』って」
宰相の教え。セレスティアの背筋が冷えた。
「殿下は、そうおもう?」
「……分からない。でも、全員と仲良くできたら、いいなとは思う」
「殿下がそうおもうなら、それでいいとおもいます。みんなと仲良くするのは、むずかしいけど、むりじゃない」
「そうかな」
「わたしがやってみせます。だから殿下も、あきらめないで」
アレクシスが微笑んだ。五歳の時と同じ、嘘のない笑顔。
「うん。君がそう言うなら、信じるよ」
セレスティアは本に目を戻した。だが活字を追う目は、既に別のことを考えていた。
蝶々。イザベラはそう呼んだ。
蝶々でいい。花から花へ飛び回り、蜜を集める。だが蝶々の翅には模様がある。模様は蝶々だけが知っている。
それを翅の裏に隠しながら、花の上を舞い続ける。
◇
夕方、ナターシャに今日の記録を渡した。
ナターシャは一枚ずつ確認した。暗号の間違いを一か所指摘した。セレスティアが修正する間、ナターシャは今週の動きをまとめた紙を取り出した。
「マリアンヌ嬢が中央テーブルから外れた日があります。昨日の昼食時です」
「気づいた。イザベラさまの表情が少し変わった後だった」
「理由は何かお分かりですか」
「まだ。でも、何かあった」
ナターシャが書き込む。セレスティアは窓の外を見た。橙色の中庭。石畳の上に影が長く伸びている。
今日、イザベラは「選ばれた」と言った。選んだのではなく。
「ナターシャ、人が「選ばれた」と言う時、どういう気持ちだと思う」
唐突な問いに、ナターシャが少し考えた。
「……諦めていて、でも諦め切れていない時かと」
「そう思う」
ナターシャが帳面を閉じた。
「お嬢様」
「なに」
「今日の失敗は、一つもありませんでした」
今日の失敗、という言い方だった。失敗がなかった日を、ナターシャはそう数える。
「ひとつあった」
「何でしょうか」
「蝶々って言われた時、少し嬉しかった」
ナターシャが静かに笑った。声はなかった。でも笑っていた。
「それは失敗ではないと思います」
燭台の火が、夜風に揺れた。
イザベラのことを、もう少し考えた。「選ばれた」と言えるということは、諦めを知っているということだ。九歳でそれを知っている。
だが、知っているから変えられる。知らなければ変えることもできない。諦めを言葉にした瞬間に、その人はまだ諦めていない。
「ナターシャ」
「はい」
「来週の観察で、イザベラさまをもう少し見てほしい。一人でいる時の顔を」
「承知しました」
ナターシャが帳面を開いた。また書き込む。
「それと、ルシアン殿について、何か分かりましたか」
「今週は三度、廊下で視線を感じました。全て、距離があります」
「害意はないと思う。でも観察してる」
「観察しているものは、観察される。それだけのことかと」
セレスティアは少し考えた。蝶々が観察されている。誰かが翅の模様を読もうとしている。今はまだ、読めないはずだ。
「分かった。気をつける」
窓の外の中庭が暗くなっていた。学園の一週間が終わろうとしていた。




