初めての手紙
夕食を終え、消灯まであと一時間。ヴィオレッタはベッドで本を読み、ナターシャは階下の侍女室にいる。静かな部屋で、セレスティアは一枚の便箋を前に机へ向かった。
家への手紙を書かなければならない。「毎週、書くね」と母に約束した。マルガレーテとも、約束をしていた。学園に来て、一週間が経った。
ペンを取ったものの、何も書けないまま手が止まった。
◇
これまで公爵領から出した手紙の多くは、何かを運ぶためのものだった。ナターシャへの暗号、フェリクスを通してヨハン先生へ送る訓練の記録。読む相手と読まれ方を考え、言葉の一つひとつに目的を持たせてきた。フリーデリケやアレクシスへの手紙に計算はなかったけれど、それも会えない友達へ、花の名前や押し花を届けるための便りだった。
だが今度の相手は母だ。
母とは、いつも同じ屋根の下にいた。五歳で王都へ行った時も一緒で、帰る時も同じ車列だった。話したいことがあれば、夕食の席で話せばよかった。母に宛てて手紙を書く理由が、これまで一度もなかったのだ。
金髪に紫の瞳を持つリリアーナは、今世で毒から救うことのできた母だ。元気になってドレスを縫い、別れ際には「手紙、ちゃんと書いてね」と泣きながら笑っていた。
そんな母への手紙に、情報だけを書いても仕方がない。では何を書けばよいのか、セレスティアには分からなかった。
前世では、母への手紙を書いたことがない。学園に入った頃には、母はもう長い病で手紙を読める状態ではなく、七歳の秋に静かに死んだ。前世のセレスティアは、母への手紙の書き方を知らないまま、大人になった。
今世では母が生きているのに、母へ送る手紙の書き方だけを、セレスティアは知らなかった。
◇
「お母様へ」と書いた。
宛名だけを書いて再び手を止め、それから部屋の様子を書いてみた。
『へやは二人でつかっています。まどからそとのきがみえます。ベッドはやわらかいです。』
読み返した。悪くはない。事実だ。だが、何も伝わらない気がした。事実の羅列で、自分がここにいることしか分からない。これでは公文書と変わらない。ヴィオレッタのことを書いた。
『おなじへやのこはヴィオレッタさまというひとです。はじめはあまりはなしてくれませんでした。でも、すこしずつはなしてくれるようになりました。』
本当のことだった。ヴィオレッタは今朝、初めて「おはよう」を返してくれた。たった一言の返事を、これほど嬉しく思うとは想像していなかった。その気持ちも含めて、母には本当のことを書きたかった。
授業で聞いた歴史の話や、食堂でフリーデリケに会ったこと、中庭でアレクシスと話したことを書いていくうちに、便箋の一枚目が埋まった。そこで最初から読み返してみた。
書かれているのはすべて本当のことなのに、まだ何かが足りなかった。
この手紙を読んで、母はどう思うか。「セレスティアは元気にしています」と分かる。それだけだ。
◇
窓の外を見た。夜の空に星が見えた。公爵領の星より少ない。王都は明るいから、星が霞む。
公爵領の夜は暗くて、星がもっとよく見えた。母が元気な時、一緒に庭で星を見たことがある。あれは何歳の時だったか。四歳か、五歳か。母が「あの星座はね」と教えてくれた。毛布を一枚持ってきて、二人で肩を並べて空を見た。寒い夜だった。でも寒くなかった。
星の名前を教えてくれた母の、柔らかく少し低い声を覚えている。その声は今も耳に残り、今世の母は同じ声で笑っている。時折、その事実さえ夢のように思えた。
「お母様、今、何をしているかな」
思わず声に出していた。
ヴィオレッタが本から顔を上げた。「独り言?」
「うん。お手紙を書いていた」
「家に?」
「うん」
「……そう」
ヴィオレッタが本に目を戻した。だがページをめくらなかった。少し間があった。
セレスティアは、ヴィオレッタが何かを考えているのに気づいた。何かを言おうとしているのか、それとも言わないことにしたのか、分からない。聞かなかった。セレスティアは便箋に向かった。
セレスティアは、便箋の最後にもう一行だけ書き加えた。
『ときどきさびしいです。』
書いてから、しばらく見つめた。
◇
一度は消そうと思った。七歳の女の子が「さびしい」と書くのは何もおかしくない。それでも本心を見せることには勇気が要ったが、母にだけは見せてよいのだと思い、その一行を残した。
『でも、がっこうはたのしいです。またてがみかきます。セレスティアより』
最後まで書き終えると、便箋を丁寧に折って封をした。
もう一枚、便箋を取った。マルガレーテへの手紙は、母に宛てたものよりずっと短い。
『やくそくしたので、おなじひにだします。ごはんをちゃんとたべて、なかないでください。セレスティアより』
折って封をし、母宛ての封筒の隣に二通目を並べた。約束は、守れた。
◇
消灯の鐘が鳴り、ヴィオレッタが本を閉じて蝋燭を消した。
暗くなった部屋の中で、セレスティアは封をした二通の手紙を机の上に置いた。
明日の朝にナターシャへ渡せば、侍女用の郵便経路で送ってくれる。五日後、公爵家に届いた手紙を、母はどんな顔で読むだろう。
「時々寂しい」という一行を読んで、泣くかもしれない。心配するかもしれない。でも、泣きながら笑うのが母だ。泣きながら「ちゃんと書いてくれた」と言う気がした。
「手紙、書いた?」
ヴィオレッタから声がかかるとは思わなかった。暗闇の中だった。
「かいた」
「家族に?」
「お母様に」
少し間があった。
「そう」
返事はそれだけだったが、「そう」という短い声の奥に、言葉にならない何かが聞こえた気がした。
セレスティアは目を閉じた。手紙の最後の一行を思い返した。
「時々寂しいです。」
策士でも蜘蛛でもない、ごく普通の七歳の女の子が書く一行に、こんなにも時間がかかった。
来週の手紙は、もう少し早く書けるかもしれない。それがここへの慣れということだ。
◇
翌朝、ナターシャに手紙を二通渡した。
「お母様宛と、侍女長宛でございますね。五日ほどで届きます」
「うん。ありがとう、ナターシャ」
ナターシャが手紙を受け取る時、少しだけ顔が和らいだ。
「ナターシャも、家に手紙を書いている?」
「はい。お嬢様に同行する前に。返事はまだ届いていませんが」
「楽しみだね」
「そうですね」
ナターシャは微笑んだ。学園に来て初めて見た、仕事から少し離れた顔だった。
◇
一時間目が始まった。歴史の授業だった。エドモンド先生が教室の前を行き来しながら、建国期の話をしている。
セレスティアは帳面を開き、教師の話に合わせてペンを動かした。文字を書き写しながらも、意識の一部は朝に出した手紙へ向いていた。
王都から公爵領までは五日かかる。出したばかりの手紙は、まだ王都の中を運ばれている頃かもしれない。母はまだ封を切っておらず、「時々寂しいです」という一行も読んでいない。
返事が戻るのは、往復で十日後になる。
返事にはきっと「ちゃんと食べていますか」が三度は入る。余白には、マルガレーテの字で一行だけ添え書きが付くだろう。それでいい。知らせたいと思って書いたのだから。
セレスティアはそんな返事を思い浮かべながら、帳面にヴィルヘルム一世の年号を書き写した。
◇
昼休みになり、食堂へ向かう廊下でヴィオレッタが横に並んだ。
「手紙、出した?」
小さな声だった。廊下を歩く生徒たちの中で、セレスティアにだけ聞こえる声だった。
「うん。朝、ナターシャに渡した」
「そう」
それだけだった。ヴィオレッタはすぐに前を向いた。
セレスティアは少し考えた。ヴィオレッタは手紙を書いたか、と聞こうと思った。でも聞かなかった。聞かなくていいと思った。
昨夜の暗闇の中の「そう」という声と、今の「そう」という声が、どこか似ていた。
◇
夜、日記を開き、「母とマルガレーテへ、手紙を二通出した」と記した。それは、セレスティアが初めて書いた母への手紙だった。
返事に何が書かれていたら嬉しいかを、先に考えておくことにした。今日の「そう」が二つとも似た声だったことも、余白に書き添えた。
来週も、母へ本当のことを一つ書こう。そう思えることもまた、ここでの暮らしに馴染み始めた証なのだろう。




