初めての手紙
机の上に、便箋が一枚あった。
夕食の後、消灯まで一時間。ヴィオレッタはベッドで本を読んでいる。ナターシャは階下の侍女室にいる。部屋が静かだった。
セレスティアは机の前に座った。
家への手紙を書かなければならない。「まいしゅう、かくね」と母に約束した。学園に来て、一週間が経った。
便箋に向かった。
ペンを取った。
止まった。
◇
いつもの手紙は書けない。
公爵領への手紙は情報だった。ナターシャへの暗号。コンラートへの外交。アレクシスへの繋ぎ。全ての手紙に目的があった。言葉の一つひとつを選んで、読む相手と読まれ方を考えて書いた。
だが今度の相手は母だ。
リリアーナ。金髪紫眼。今世で毒から救った母。元気になって、ドレスを縫ってくれた母。「手紙、ちゃんと書いてね」と泣きながら笑っていた母。
この人への手紙に、情報を書いてどうする。
では何を書くのか。
分からなかった。
前世では、母への手紙を書いたことがない。母は学園の前に亡くなった。七歳の時に。長い病のすえに、静かに死んだ。前世のセレスティアは、母への手紙の書き方を知らないまま、大人になった。
今世では、母が生きている。
書き方が、分からない。
◇
「おかあさまへ」と書いた。
宛名だけ書いて、また止まった。
部屋の様子を書いた。
『へやは二人でつかっています。まどからそとのきがみえます。ベッドはやわらかいです。』
読み返した。
悪くはない。事実だ。だが、何も伝わらない気がした。事実の羅列で、自分がここにいることしか分からない。これでは公文書と変わらない。
ヴィオレッタのことを書いた。
『おなじへやのこはヴィオレッタさまというひとです。はじめはあまりはなしてくれませんでした。でも、すこしずつはなしてくれるようになりました。』
本当のことだ。ヴィオレッタは昨夜、初めて「おはよう」を返してくれた。それが嬉しかった。七歳の返事がこんなに嬉しいとは思っていなかった。でも嬉しかった。本当のことを書いた。
授業のことを書いた。歴史の話を少し。フリーデリケと食堂で会ったことを。アネリーゼという光魔法の使い手の子がいることを。アレクシスと中庭で話したことを。
手紙が一枚埋まった。
読み返した。
全部、本当のことを書いた。だが何かが足りない。
この手紙を読んで、母はどう思うか。「セレスティアは元気にしています」と分かる。それだけだ。
◇
窓の外を見た。
夜の空に星が見えた。公爵領の星より少ない。王都は明るいから、星が霞む。
公爵領の夜は暗くて、星がもっとよく見えた。母が元気な時、一緒に庭で星を見たことがある。あれは何歳の時だったか。四歳か、五歳か。母が「あの星座はね」と教えてくれた。毛布を一枚持ってきて、二人で肩を並べて空を見た。寒い夜だった。でも寒くなかった。
母の声は覚えている。柔らかくて、少し低い声。星の名前を教える時の声。あの声が今でも耳に残っている。今世の母は元気だ。その声で笑っている。その事実が——時々、夢のようだ。
「おかあさま、いまなにしてるかな」
呟いた。
ヴィオレッタが本から顔を上げた。「独り言?」
「うん。おてがみかいてた」
「家に?」
「うん」
「……そう」
ヴィオレッタが本に目を戻した。だがページをめくらなかった。
少し間があった。
セレスティアは、ヴィオレッタが何かを考えているのに気づいた。何かを言おうとしているのか、それとも言わないことにしたのか、分からない。
聞かなかった。
セレスティアは便箋に向かった。
もう一行だけ書いた。
『ときどきさびしいです。』
書いてから、しばらく見つめた。
◇
消そうかと思った。
七歳の女の子が「さびしい」と書くのは、普通だ。
でも消さなかった。
おかあさまには、見せていい。
それだけのことだ。
『でも、がっこうはたのしいです。またてがみかきます。セレスティアより』
書き終えた。
封をした。
◇
消灯の鐘が鳴った。ヴィオレッタが本を閉じた。蝋燭を消した。
暗くなった部屋の中で、セレスティアは封をした手紙を机の上に置いた。
明日の朝、ナターシャに渡す。ナターシャが侍女用の郵便経路で送ってくれる。五日後には公爵家に届く。
母は、どんな顔で読むだろう。
「ときどきさびしい」という一行を読んで、泣くかもしれない。心配するかもしれない。でも、泣きながら笑うのが母だ。泣きながら「ちゃんと書いてくれた」と言う気がした。
「てがみ、かいた?」
ヴィオレッタから声がかかるとは思わなかった。暗闇の中だった。
「かいた」
「家族に?」
「おかあさまに」
少し間があった。
「そう」
それだけだった。
ただ、「そう」という声の中に、何かが聞こえた気がした。
セレスティアは目を閉じた。
手紙の最後の一行を思い返した。
「ときどきさびしいです。」
普通の、七歳の女の子が書く一行。
策士でも蜘蛛でもない、ただの子供の一行。
それがこんなに書くのに時間がかかった。
来週の手紙は、もう少し早く書けるかもしれない。それがここへの慣れということだ。
◇
翌朝、ナターシャに手紙を渡した。
「お母様宛でございますね。五日ほどで届きます」
「うん。ありがとう、ナターシャ」
ナターシャが手紙を受け取る時、少しだけ顔が和らいだ。
「ナターシャも、おうちにてがみかいてる?」
「はい。お嬢様に同行する前に。返事はまだ届いていませんが」
「たのしみだね」
「そうですね」
ナターシャは微笑んだ。学園に来て初めて見た、仕事から少し離れた顔だった。
◇
一時間目が始まった。歴史の授業だった。エドモンド先生が教室の前を行き来しながら、建国期の話をしている。
セレスティアは帳面を開いた。手は動いた。ペンが文字を書き写す。頭は少し別のところにあった。
手紙のことを考えた。
今頃どこにある。王都から公爵領まで五日かかる。今日は一日目。まだ王都の中を移動している頃かもしれない。母はまだ知らない。封を切っていない。「ときどきさびしいです」という一行を、まだ読んでいない。
五日後に届く。
母が読む。どんな顔をするか。
笑うかもしれない。心配するかもしれない。どちらでも構わない。知らせたいと思って書いたのだから。
泣くかもしれない。でも泣きながら笑う人だから、大丈夫だと思う。セレスティアはそう思いながら、帳面にヴィルヘルム一世の年号を書き写した。
◇
昼休み。食堂に向かう廊下で、ヴィオレッタが横に並んだ。
「てがみ、出した?」
小さな声だった。廊下を歩く生徒たちの中で、セレスティアにだけ聞こえる声だった。
「うん。朝、ナターシャに渡した」
「そう」
それだけだった。ヴィオレッタはすぐに前を向いた。
セレスティアは少し考えた。ヴィオレッタは手紙を書いたか、と聞こうと思った。でも聞かなかった。聞かなくていいと思った。
昨夜の暗闇の中の「そう」という声と、今の「そう」という声が、どこか似ていた。
◇
夜、日記を開いた。
手紙を出した。一枚。初めて書いた母への手紙。
「ときどきさびしいです」と書くのに一番時間がかかった。それだけのことに一時間かかった。でも、書いた。書いて、封をした。それで十分だ。
来週はもう少し早く書けるかもしれない。それがここへの慣れということだ。




